さすがのゲーテ

ギリシャ神殿の表面的模倣

 「危機の17世紀」を脱し、革命と帝国主義の19世紀を迎えようとする相対的な安定期である18世紀のヨーロッパには、いたるところにギリシャ神殿の列柱をとりいれた建造物があふれかえっていました。「ヨーロッパ」がしていたことは、摸倣の摸倣の摸倣、すなわち、エジプト神殿を摸倣したギリシャ神殿を摸倣したローマ建築を摸倣する、というものでしたが、そのことははっきり自覚されることはなかったようです。

 当時の「ヨーロッパ」は、並列的にギリシャとローマを範例とするのではなく、その視野の中心にあったのは古代ローマの建築だったようです。ギリシャとエジプトは、イタリアより距離的に遠かっただけでなく当時はオスマン帝国領であったこともあり、実際の見聞がほとんどおこなわれていなかったこともその原因だったように思われます。エジプトの「探検」はすでに細々とははじまっていましたが、本格的な侵略による研究の開始はナポレオンのエジプト遠征(1788−89年)以後のことですし、パルテノン神殿から破風の彫刻と梁の浮彫を剥がした駐イスタンブール大ブリテン連合王国大使エルギン伯爵の赴任は1800年、ギリシャ「独立」への介入は1820年のことで遺跡の略奪=研究の本格化はそれ以降のことです(近代ヨーロッパの学問〔サイエンス〕の多くは、アジア・アフリカ・アメリカの植民地化の過程で、その探検・征服・支配のための知識として確立したのです。)

 ということでギリシャ・エジプトは遠く霞んでいたとはいえ、ローマを通じてローマとのセット物としてのエジプト・ギリシャ的ヨーロッパ建築が席巻していたわけですが、そこではエジプト的=ギリシャ的「柱梁構造」は、構造的必然性をもつのではなく、もっぱら建築の外観に付加された装飾として、すなわち、円柱状の柱の立ち並ぶ列柱、その上部の浮彫彫刻や文字で装飾された梁、二等辺三角形の破風が、そしてまた、アーチの基部の擬似的な柱として、構造上の必然性もないのに、(この時点ではエジプトは意識の中にはないようですが)まさにギリシャ神殿の晴れがましい荘厳を現前させる意匠として用いられていたのです。

現在のドイツ連邦地域(当時はまだ「ドイツ帝国」は存在せず、300以上の領邦国家や都市からなっていました。名目上は「神聖ローマ帝国」です)

 ライン川の支流マイン川沿いの都市がフランクフルト・アム・マイン

で、ヴァイマール(ワイマール)は、その東にあります(地図には表示されていません)。

 

 現在のイタリア北部(当時はまだ「イタリア王国」は存在せず、多くの国や都市国家からなり、あるいは外国の領土となっていました。)、ミラノの東にヴェローナ、さらに東にヴィチェンツァ(地図には表示されていません)があります。

「始原の小屋」というフィクション

 ローマによる模倣をさらに模倣したギリシャ神殿風意匠を作り続けてきた「ヨーロッパ」はついに、《ギリシャ神殿において完成した柱梁構造は、歴史的にもっとも古いだけでなくもっとも基本的であって、ほかのようではありえない必然的かつ自然的なものである》、と観念するにいたったようです。その見解を「始原の小屋 primitive hut」という極端化したかたちで表明したのが、フランス人のマルク・アントワーヌ・ロージエでした(『建築試論』1753年)。

 もっともこのような主張は、法隆寺の柱はギリシャ神殿に由来するという伊東忠太の「エンタシス論」と同じで(別ページで検討予定です)、ロージエの独創的発見というわけではなく、当時ひろく常識化していたもののようです。しかし、ロージエの「始原の小屋」説は『建築試論』第2版(1755年)冒頭に掲げられた印象的なイラスト(左図。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/21/Essaisurlarchitecture.jpgともども、ひろく受け入れられたのです。

 それにしても奥行きの感じられないおかしな空間感覚のイラストです。女神らしいのがギリシャ神殿の瓦礫(「イオニア式」の柱頭がみえています)に肘をつき、デッサンの狂った右腕を伸ばして示す先には、地面に生えている樹木に梁がわたされ、そのうえに「小屋組み」(「小屋」という同じ用語であるのは偶然です)がされているのですが、屋根材が葺かれているのかどうかはよくわかりません。床はもちろん、壁もなく、当然窓やドアもありません。およそ建築としての用をなさないのを見たキューピッドが呆然としています。(三宅理一の訳注によると「賢知を表わす女神と火を表わす小児」〔ロージエ『建築試論』1986年、中央公論美術出版、p. 256.〕)

 4本の柱に梁を渡し、そのうえに「小屋組み」を乗せる。これが建築の原型、すなわち「始原の小屋」だというのです。ギリシャ神殿の柱梁構造を、自然的・必然的だという単純な仮説なのです。似ていようが同じであろうが、「始原の小屋」の柱梁構造は自然的・必然的なものなのであって、ギリシャがエジプトを模倣したのでなく、双方が独自に「始原の小屋」を見出し、柱梁構造の石造建築をつくりあげたのだ、というわけです。ギリシャによるエジプトの模倣の可能性をあらかじめ否定することができる理論です。

 

ヴァイマール公国宰相ゲーテ

 この18世紀後半の支配的見解に対するゲーテの批判を見ていきますが、それはたんに抽象的主張を抽象的に反駁するという、いつでも誰でもできる空疎な手法ではありません。本題にはいるまえに、具体的建築物についてのゲーテの慧眼ぶりをみていきます。

 ゲーテは、1749年、神聖ローマ帝国の帝国自由都市フランクフルト・アム・マインの富裕市民の長男として生まれました。フランクフルトは、当時も今もドイツの経済的先進的地域です。ゲーテはまずライプツィヒの、ついでシュトラスブルクの大学で学び、1774年の『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中に知られる存在となります。

 翌年、ヴァイマール公爵に招聘され、その家臣としてヴァイマール公国宰相の職務に従事することになります。宰相とはいっても、公国の人口は1万人にも満たないのですから、今でいうと小さな町の助役といったところですが、それにしても就任時点ではまだ20代の若者です。同じドイツ語圏でいうと、同様に天才芸術家であるJ. S. バッハやW. A. モーツァルトが、しょせんは音楽担当の職人として軽く見られていたのとはことなり(絶大な名声はいずれも死後のものです)、若くして名声と社会的地位とを得たわけです。しかし、ゲーテはそんなものにはまったく拘泥しません。


ゲーテの『イタリア紀行』

 1786年、ゲーテは休職を願い出てほとんど逃げるようにして単身イタリアへ旅立ちます。従者を伴う安楽な殿様旅行ではありません。有名人なので偽名を使い、駅馬車もしくは徒歩による単独行動です。帰るのは1788年4月ですから、北イタリアの諸都市からナポリ、シチリア島を往復する、一年半以上の大旅行です。1週間でイタリアを縦断して4つも5つもの都市を駆け足で通過する、現代日本人の観光旅行とは全く違います。とくにローマには行きに4か月、帰りに10か月も滞在し、そこで『イフィゲーニエ』と『エグモント』の執筆や自分の著作集の校訂までしているのですから、旅行というより一時的な移住と言ったほうがよいかもしれません。

 1786年9月3日の午前3時、滞在先の南ドイツの都市カールスバートを密かに出立したゲーテは、レーゲンスブルク、ミュンヘンに立ち寄りながら、ブレンナー峠でアルプスをこえ9月16日に北イタリアのヴェローナに到着しました。(以下、ゲーテの引用は岩波文庫版、相良守峯訳『イタリア紀行』です。写真は、残念ながらヴェローナとヴィチェンツァに行ったことがないので、Google Earthに投稿されたもの〔Google Earth の“photo”のレイヤーを有効にすると撮影地に夥しい数のアイコンが現れます〕を引用させてもらうこととします。)

 ヴェローナのコロセウムを見たゲーテはこう書いています。

 

「円形劇場は、すなわち古代の重要記念物のうち、私の見る最初のものであり、しかもそれは実によく保存されている。〔……〕私は何か雄大なものを見ているような、しかも実は何も見てはいないような、一種異様な気持がした。実際それは空(から)のままで眺めるべきものではない。〔……〕円形劇場が全面的効果を発揮したのは最古の時代だけだった。当時は民衆が、現在よりもさらに遥かに民衆であったからである。けだしこういう円形劇場なるものは、元来民衆自身をもって民衆を驚嘆せしめ、民衆自身をもって民衆を楽しませるようにつくられているのである。」(上、p. 59.) 


 廃墟となった現状をみてその侘び寂びぶりに感動するのが、ギリシャ・ローマの建築物を眺めるときの標準パターンですが(古代の神社仏閣を見るときの現代日本人でも同じです)、ゲーテはそういう通俗的見解はとらず、建築をその当時のありかたを想像して、それもたんに構築や意匠だけでなくそこでの使われ方をふまえて見ているのです。

 ついでコロセウムの近くにある、フィラルモニコ劇場を訪れて感想を述べます。

 

「劇場の大玄関は6本のイオニア式円柱から成り、なかなか典雅な趣きを備えている。それだけに、入り口の上、2本のコリント式円柱に支えられて彩画を描いた壁龕(へきがん)の前に、大きな仮髪(かつら)をつけたマッフェイ侯の等身大の胸像のあるのが、一そう貧弱に見える。場所は上席なのだが、壮大雄渾な円柱にどうにか対抗してゆくには、よほど大きな胸像でなければならなかったのだ。現在では貧弱な格好で小さな台座の上にのっていて、全体とは不調和である。」(上、p. 61.)

 

 ゲーテの慧眼は、建築物の本質・意味・巧拙を一瞬のうちに見抜いてしまうのです。大玄関の左側の建物については、さらに手厳しい評価がなされます。下は、上の大玄関の写真の左側に写っている4層の建物です。


 

「前庭を取り巻く柱廊もまた貧弱である。溝を彫りつけた矮小なドーリア式円柱は、滑らかな、巨人のようなイオニア式のものと比べるとやはり見すぼらしい。」(同)

  

 なるほどゲーテのいうとおりです。ゲーテは建築を見た瞬間に、それがおかれた場所、実際の利用状況をもふまえてその全体構造と本質を認識するのです。それは、重厚なドーリア式」、「優美なイオニア式」、「繊細なコリント式」などという教科書流のステレオタイプ、すなわち全体構造を無視して瑣末な細部の意匠に過度に拘泥して本質を見失う態度とは対極をなすものです。ここでゲーテは、「ドーリア式」だから「重厚」だとはせず、矮小と評価し、「イオニア式」だから「優美」だとはせず、壮大雄渾で巨人のようだと感嘆するのです。柱頭の「様式」如何で重厚」優美」繊細」などと決まるわけではないのですが、教科書の空疎な記述を信じた者が、もし、ここヴェローナのオリンピコ劇場を訪れたとしたら、正面をみて、イオニア式だから「優美だ」、左を見て、ドーリア式だから「重厚だ」と思うに違いありません。通俗的建築史の罪深さは深刻です。

 

ゲーテによる「始原の小屋」批判

  ゲーテは、シュトラスブルク大学で学んだのですが、シュトラスブルク大聖堂を設計したドイツ人建築家エルヴィン・フォン・シュタインバッハについて短文を発表しています。これが「ドイツの建築(1772年)」です(1823年発表の同名の文章があるので、区別するためにそれぞれに発表年が並記されます)。なお、シュトラスブルクはエルザス・ロートリンゲン地方の中心都市です。本来ドイツ語地域ですが、当時も現在もフランス領で、それぞれ「ストラスブール」、「アルザス・ロレーヌ」と発音されます。エルザス・ロートリンゲンは例のアルフォンス・ドーデの連作短編小説集『月曜物語』(1873年)中の「最後の授業」の舞台です。「最後の授業」の副題は「アルザスの一少年の物語」です(「最後の授業」は、日本で学校の〈道徳〉教材としてもちいられ、一定年齢以上の日本人の多くをまんまと騙しました。この小説のインチキぶりを暴露した言語学者田中克彦の怜悧な批判については、いずれ、本ウェブサイトの fake でご紹介します)。ストラスブールには、現在、欧州議会の議場があります。

 

 「ドイツの建築(1772年)」は直接にはエルヴィン設計のシュトラスブルク大聖堂についての文章ですが、そのなかでロージエの「始原の小屋」説を批判しています(以下、『世界の名著 続7 ヘルダー ゲーテ、1975年、中央公論社、pp.303-11.の小栗浩訳

 

柱は君〔ロージエ〕にとってきわめて重大なものだ。別の国でなら、君は預言者と呼ばれもしよう。君は言う。柱は建物の第一の重要な要素であり、最も美しいものだ、と。たしかに、柱が並び立つとき、その形はなんと崇高で優雅であろう。純潔な多様の偉大さであろう。ただ、その使い方をあやまらぬことだ。柱の本領は自由に立つところにある。すらりとのびたその姿を壁にべったりくっつけてしまった奴は、わざわいなるかなだ。

 

柱は決してわれわれの住居の要素ではない。むしろそれは、われわれのあらゆる建物の本質に矛盾している。われわれの家屋は、四隅の4本の柱でできてはいない。四方の4つの壁が柱のかわりにあって、柱をすべて排除している。それに柱をくっつけたりすれば、わずらわしい邪魔物になってしまう。われわれの宮殿や寺院が、まさにそんな具合になっている。

 

 ゲーテは、住居の外と内を区分する壁こそ「建物の第一の重要な要素」だというのです。柱は「建物の第一の重要な要素」なのではなく、たとえば屋根を支えるために必要となるような、いわば  “建物の第二の”  要素にすぎないわけです。現代(ゲーテにとっての)の住居が壁式構造であることもそれを立証する根拠のひとつなのだとされます。壁があって柱のない住居は存在するが、柱があって壁のない住居、まさにロージエ『建築試論』冒頭のイラストがそれですが、そんなものは無意味であり、現実には存在しないわけです。(ギリシャ神殿は柱だけだという反論はなりたちません。たとえばパルテノンはもともとあった内側の壁を失ったのです。あちこちのギリシャ神殿遺跡では列柱だけ積み直していて、壁はわざと再現しないようにも思えます……。)木造柱梁構造が人類史上究極にして唯一の「始原」であるとするロージエの「始原の小屋」説は、証明不可能なフィクションであるだけでなく、住居として無意味であってまさに「あらゆる建物の本質に矛盾してい」のです。

 「柱」は建物の「第一に重要な要素」ではなく、「あらゆる建物の本質」なのでもないとすると、「柱」にはいかなる必要性、いかなる意義があるのでしょうか? ゲーテは、「柱の本領は自由に立つところにある」と言います。ほかの要素に従属したり、ほかの要素と癒着したりすれば、「自由に立つ」とはいえないわけです。

 

だが、それにしてもだ、わが僧院長君〔ロージエのこと〕。柱を壁にはめこむという、このまずいやり方がなんども繰り返されて、近ごろは、古代の神殿の柱間をすら壁でふさぐにいたった。

 

君は、君が真に求めるものを見せかけの真実と美で飾りたてた。柱のすばらしい効果に心を打たれると、これを使わずにはいられなくなり、壁の中に柱をはめこんだ。列柱もなしではすまされぬというわけで、サン・ピエトロ寺院の前庭を、どこに通じるあてもない大理石の柱廊で囲んだ。

 

 ゲーテは、「柱梁構造」自体を否定しているわけではありません。まして柱そのものの存在をみとめないとか言っているわけではありません。ゲーテは、「柱梁構造」を表面的にとらえて「自由に立つ」ことを否定する風潮、必要性もない場面で皮相で無意味な装飾として用いること、なかんずく意味もなく壁にはめこんだりする風潮を批判しているのです。あえて現在にひきつけるならば、「柱梁構造」をただしくとらえず、それがエジプト起源であることを否定したり、あるいは、重厚なドーリア式」、「優美なイオニア式」、「繊細なコリント式」などと、表面的で誤った認識にまどろんでいる私たちをを批判しているともいえます。

 

ふたたび『イタリア紀行』

 偉大なるゲーテにこんなことを言われては、凡百の建築史家たちは困ってしまうわけで、なんとかして誤魔化そうとします。この「ドイツの建築(1772年)」の訳注にも、「後にイタリアに旅し、ヴィツェンツァでパラディオの作を見るに及んで修正されることになる」とか、「後、ローマに滞在して、〔柱廊についての〕この考えを改めることになった」、などともっともらしく書かれています。ドイツ文学の専門家が建築史に関してここまで踏み込んで断定するのは、なんとなく不自然ですが、本当にゲーテはイタリアで現物をみてコロッと見解を変えてしまったのでしょうか。

 ゲーテはヴェローナに3日間滞在して、絵画を見にいったりコロセウムを再び訪れたりした後、9月19日には、ヴィチェンツァにはいり、オリンピコ劇場、バジリカ、ロトンダなどを見て回りました。下の写真(これもGoogle Earthに投稿された写真の引用です)は順に、半円形観客席をもつギリシャ劇場様式だが有蓋で周囲を列柱式回廊が取り囲んでいるオリンピコ劇場バジリカ〔議事堂を囲むように後付けされたアーチとギリシャ風円柱による重層挟廊、ロトンダと呼ばれる四方にギリシャ神殿風玄関をもつ郊外の別荘ですが、いずれもこのヴィチェンツァで活動したルネサンスからマニエリスムの建築家、アンドレア・パラディオ(1518-80)の作品です。

この人〔パラディオ〕が近代のすべての建築家と同じく征服しなければならなかった最高の困難は、市民の建築術における柱列の適正なる応用である。なぜならば円柱と囲壁とを結合することは、何と言っても矛盾であるからである。しかるに彼はどんなにこの両者をうまく調和せしめたか。

 

ゲーテがオリンピコ劇場のどの部分をさしてこう言っているのかはっきりとはわかりませんが、ゲーテは、「最高の困難」「矛盾」である「市民の建築術における柱列の適正なる応用」という課題をパラディオが「うまく調和せしめた」、と賞賛しているのであって、それが「困難」「矛盾」であることをやめたなどと言っているわけではありません。下手に柱を組み込んで失敗した例は掃いて捨てるほどあるのです。数日前には、ヴェローナのフィラルモニコ劇場で前庭左側の建物の一層目の「貧弱」なドーリア式円柱や二層目の「壁にはめこまれた」イオニア式円柱を見た時には、これを笑い飛ばしていたのです。たしかに、「ドイツの建築(1772年)」は、壁と柱の結合を全面的に否定しているような印象を与えないでもないのですが、訳注のように図や写真もなく説明不十分なままで、のちに撤回したかのごとく断定してしまうのは性急です。ゲーテが、パラディオのどの作品について言っているのかについての指摘さえありません。そもそも『イタリア紀行』のどこにそういう記述があるのかも示されていないのです。根拠も十分に示さないで、図や写真もないまま重大な意図を秘めて訳注を付すのは不適切でしょう。ゲーテの読者は何が何だかわからないまま、なんとなく納得させられていたのです。

 サン・ピエトロの前庭(いわゆるサン・ピエトロ広場)の回廊については、該当する記述が見当たりません。到着から3週間後、はじめてそこに行った11月22日の記述はこうです。

 

私はティッシュバイン〔ローマで友人となったヘッセン生まれの画家〕と一緒に聖ピエトロ寺院の広場へ出かけ、まずそこをあちこちと歩いたが、あまり暑くなると大きな方尖碑〔エジプトから運ばれて前庭中央に立てられたオベリスク〕の、二人を十分に宿す影のなかを逍遥し、近くで買い求めたぶどうを食べたりした。それから私たちはシックストゥス〔システィナ〕礼拝堂へ入ってみた〔略〕。

 

偉大なるゲーテも、現代の観光客と同じような行動をみせるのですが、それはともかく、広場のベルニーニの回廊については、この時はじめて見たはずなのに一切言及していません。4か月も滞在したのですから、このあともサン・ピエトロには何回も行っているはずで、『イタリア紀行』でも数回触れているのですが、訳注のいうような記述は見当たりません。

 ゲーテは、ローマをたつとナポリを経てシチリアに行き、またナポリを経てふたたびローマに滞在します。前回は4か月の滞在でしたが、こんどは10か月以上の長期滞在です。1787年6月30日の書簡に、前日の夜の大祭で、サン・ピエトロの円蓋と正面のファサードが「提灯」によってライトアップされ、サンタンジェロ(下の写真の上部やや左に見えます)から花火が打ち上げられたことが書かれています。

 

柱廊や教会やことに丸屋根の美しい格好が、最初のうちは輪郭をあかあかと燃えあがらせているが、時がたつと一つの焔の塊りとなって見えるのは無比の美しさである。この瞬間には巨大な建築物が単なる足場となってしまうのであることを考量するならば、これに似通ったもののこの世にあり得ないことを人は容易に理解するであろう。空は清く澄みわたり、月が輝いて提灯の光をよわめ、和やかな光となしていたが、最期に第二回目の照明が一さいを白熱化すると、月光さえかき消されてしまうのだ。


これもまた、ベルニーニの柱廊について「考えを改めることになった」と読むことはできません。

 ゲーテは、50年以上たってから書いた「ドイツの建築(1823年)」で、こう言っています。

 

私はそれ〔「ドイツの建築(1772年)〕を、あとになって読んでみて恥じる必要がなかった

 

訳注の指摘は、建築史の常識に丸め込まれたうえでの勇み足というほかありません。

 

高さ130mほどのサン・ピエトロの円蓋の頂上展望台から見た前庭

ベルニーニの柱廊が取り囲む中央にはオベリスク 画面一番奥にティベル川のほとりに茶色く見えるのがのサンタンジェロ

(28mm広角レンズで撮った画像の周辺部をトリミングしたので少々歪んでいます)