破堤・決壊した195mを6分割する
Sept., 10, 2019
前ページでは、「鬼怒川堤防調査委員会」のように決壊幅約200mをルーズに一緒くたにしてしまい、破堤と、破堤にいたらない決壊との区別すらせず、あちこちの地点についてつまみ食い的に経過を追う手法ではとうてい事実解明はできないことを示したうえで、これから検討する写真を列挙しました。引き続いてこのページでは、決壊幅約200mを6区間に分割する観点を提起します。
前半では、どこにカメラがあったかにばかりこだわり、どこを撮影したのかをあきらかにしない従来の手法について一瞥します。いささか冗漫な準備手続きですから、飛ばして後半の6区間分割図に進んでいただいても結構です。
この6区間分割を踏まえて、次ページ以降で、具体的な決壊・破堤の進行状況を検討します。
(堤防の6区分の距離はもとより概数ですが、訂正しました。Aug., 28, 2020)
40㎢の市街地・耕地が浸水し、すくなくとも1万棟以上の建物が被災し(少なめにみて1棟あたり1千万円として、これだけで1千億円の損害)、死傷者のほか多数の孤立者が出る大災害となったにもかかわらず、氾濫の過程を撮影した映像がほとんど入手できないのです。堤防決壊の詳しい状況がよくわからない、このため原因がはっきりと確定しない、という非常に困った状況です。
若宮戸25.35k(ソーラーパネル地点)については、事前に(前年の十一面山河畔砂丘掘削工事の時点で。すくなくとも豪雨が続いた前日までには)氾濫が予想できたのですから、国土交通省職員らが現場に張り付いて一部始終を目撃し、かなりの映像を撮影したに違いないのですが、公表されたのはわずか1枚の、撮影時刻をごまかした静止画1枚だけでした。(3年後に、開示請求を受けて開示した21枚については、別ページ参照)
若宮戸24.75k(正確には24.63k)については、当 naturalright.org も長いことまったく気づかなかったのですが、ずっと隠蔽工作をしてきた国土交通省自身も、じつは水害発生後しばらくの間そこから氾濫したことすら知らなかったようなのです。9月10日未明、住民は避難してあたり一帯無人のうえ、国土交通省はノーマークです。警戒していた住民が、自宅裏の24.75k(正確には24.63k)からの氾濫に遭遇し、すでに迫っていた25.35k地点からの氾濫水をも避けてかろうじて脱出したのです(別ページを参照)。数万トンの土砂を抉って巨大な押堀(おっぽり。「落堀」は誤用)を作り、建物を何棟も粉砕して道路の向かい側まで吹き飛ばすような激烈な氾濫だったのに、国土交通省職員は若宮戸25.35k(ソーラーパネル地点)に気を取られ、若宮戸24.75k(正確には24.63k)の氾濫をただのひとりも目撃していないのです。それどころか、若宮戸25.35k地点(ソーラーパネル地点)からの氾濫被害との区別もつかず、単独で起きた事故であればそれだけでも数日間はテレビと新聞が大騒ぎするような大事件であったのに、(住民以外は)日本中が何日間も気づかないという信じがたい経過をたどったのです。当日の写真は一枚もありません。(若宮戸の水害については、「若宮戸の河畔砂丘」を参照)
それに比べれば、三坂町は写真が数枚あるだけまだマシなのです。
閑話
テレビ会社が三坂町の破堤前の越水状況を撮影した映像を、もちろん一部は放映したわけですが、それを含めてほとんどすべてををお蔵入りさせてしまっているのはたいへんに困ったことです。福島第一原子力発電所の爆発映像さえ隠してしまうというのが、我が国報道会社の基本的経営方針なのです。国民がテレビ放送を録画したものを Youtube などで公表すると、著作権侵害の違法行為の共犯だとしてYoutube に圧力をかけて〔正確にいえば、お願いをして〕画像を削除させ〔削除していただき〕、アカウント削除という簡便な最終手段で投稿者を電子的に抹殺 delete する、これが近年の報道企業による言論統制手法です。政府が出てくるまでもありません。これにくらべたら、オーウェルの『1984年』が夢想した手法などは原始的で非現実的な児戯にすぎません。捏造した情報を紙に手書きして圧縮空気式のパイプで送るなど、1948年当時ですら笑止千万の貧弱な手法でしたが、当今は文字列はもちろんのこと、音声や画像であってもコンピュータによって全部の保存・認識・抽出・「利用」がおこなわれているのです。
「ツイッター」だとか「フェイスブック」「ライン」「インスタグラム」などでほとんど意味のない馴れ合いや中傷合戦で無邪気に遊んでいる人たちは、たんに時間とエネルギーを空費しているだけではありません。「自分の」コンテンツの事後確認すら困難であり(=「自己コントロール」不可能)、まして「アカウントの削除」などしようものなら、自分のものだと思っているものが完全に自分の手を離れてしまうだけの話で、運営会社はそれら全部を永久保存して、「作成者」本人への通知や承認獲得などなしに、それらを利用(善用・悪用)したり各国政府を含む第三者に譲渡・販売できる(現にしている)ことを忘れているだけの話です(規約など読まないから最初から知らないのでしょう)。ブログやウェブサイトも大同小異ではありますが(ブログはウェブサイトのログ〔記録〕から派生したもので、「マイクロブログ」と称する「ツイッター」や一応実名主義のフェイスブックもその変型物です)、何千何万の通話(事実上の放送)内容をタイムスタンプつきでリアルタイムに登録先に自動的に撒き散らす点で、質的に異なるのです。巧妙な画面構造設計もあって、感覚的には個人間で私的にやりとりしているつもりになってしまい、電子メールですら書くのを遠慮したほうがよいことを平気で書いたり、どうかと思うような映像を拡散 broad-cast (放送)しているのです。それらのものに手を出すのは、大事なものと引き換えに金銭的利益を束の間手にする商売人や、将来のあらゆる不利益から自由な、老い先短い老人だけにすべきなのです。
閑話休題
三坂町の写真が乏しい根本的要因は、やはり若宮戸にあるのです。土嚢を下段に2個、その上段に1個重ねる「品の字」積みは、紙のお札を貼った「封印」も同然で何の効果もないのは承知のうえですから、そこには数人の決死隊を送り込み本隊は右岸の旧国生(こっしょう)村の堤防上から投光器を煌々と照らして、固唾を飲んで最悪の瞬間を見届けたのでしょう(というのは勝手な想像ですが、「溢水」した左岸25.35kには、本来なら濁流に押し流された国土交通省車両の残骸が多数あるはずなのに1台も見当たらないのですから、案外当たっているかもしれません。常総市役所前駐車場では災害救援に駆けつけた自衛隊車両が何台も水没したというのに(逃げようと思えば逃げられたのにわざと止まったのだと思いますが)、国土交通省は軍隊より自衛能力が高いようです〔この場合の〈自衛〉とは国民を守るという意味ではなくて、〈自分〉を守るという意味ですが〕)。それでなくても「全域にわたり同レベルにできていた」鬼怒川下流東岸と西岸合わせて200kmの全部に目が届くはずもないうえ、何が起きてももう手遅れで拱手傍観するのみなのに、人手と注意力を若宮戸で使い尽くしたのです。
あの三坂町についても、越水が始まっていたのをたまたま見つけてもそこに常駐するわけにもいかなかったのです。市役所・消防署・消防団・警察・自衛隊・国土交通省下館河川事務所、ついでに県議会議員や市議会議員がほとんど若宮戸からの氾濫に気をとられ、それどころでなかったのです。地名を取り違えるくらいすぐ近くの新石下(しんいしげ)の下館河川事務所鎌庭(かまにわ)出張所も同じでしょう。あとは破堤まで別の国交省の車と委託先企業の巡回車が各1台やってくるだけで、破堤の瞬間を見ていたのはヘーベルハウス脇の電柱につかまっていた「電柱おじさん」ほか数名の住民だけでした。
「鬼怒川堤防調査委員会」の第2回会合では、このほか住民が撮影した動画が公表されたのですが、奇跡的というほかない画期的映像です。
ここから何カットか切り出したものを含め、とりあえず入手できる限りのものを、前ページの最後に撮影時刻順に全部配列しました。右上に再掲しました(クリックで拡大します)。
これらの写真を「堤防調査委員会」のように漫然と眺めていては判断を誤りますから、この29枚のそれぞれについて、どの地点を撮影したものかをあきらかにしながら判読することで、時間的経過にしたがって、地点別に決壊がどのように進行していったか、を見ていくことにします。
3年前の「堤防決壊メカニズム」では、それを地点毎に配列したうえで、経過を追っていったのですが、上・下流を除き、5地点にわけてそれぞれみていくと、繰り返しが多くなりあまりにも煩雑になりましたから、それはやめて、一括して見ることにします。各地点がごちゃごちゃになるおそれがありますが、そのつど地図と照合すればをれも避けられるでしょう。
この業界では、どの地点から撮影したかを全体図中に示す、というのが一般的手法のようですが、これはまったくよろしくない方法です。自分のことしか考えていない、その心根の卑しさがとんだところで露見していしまうのです。たとえば若宮戸の2か所の「溢水」についての国土交通省の広報文書のページです(http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000633805.pdf)。
図中の白抜きの丸囲み数字が撮影地点(カメラのある場所)、白抜きの矢印がレンズが向いている被写体の方向です(③では抜けています)。ただしきわめて不正確です。現地に行ったことのない関東地方整備局の役人が作成するからこういうことになるのです。国土地理院のウェブサイトもそうなのですが、航空写真でこれをやられるとまったくひどいことになります。飛行機・ヘリコプターから真下でなく斜め下を撮影した場合には、当然ながら撮影地点(カメラのある場所)と、映像となった場所は、まったく別の場所、それもとてつもなく離れた場所になります。しかもその離れ方が一定ではありません。地図上の同じ地点から撮影しても、飛行機の高度やレンズの焦点距離(画角)・向きによってまったく別のものが撮れるのです。サムネイルもないので何百枚もあるものをいちいちクリックしなければ、けっきょくのところ何が写っているかわからないのです。しかも一度に全部ダウンロードさせてくれないので、途轍もない作業を強いられるのです。(とはいえ、ない、とか、隠している、とかではなく、あるだけ良いのですが……。)
「まさかの三坂」3ページ以下では、どこから撮影したかではなく、被写体となった地点がどこなのか、に注目してみていくことにします。ただし、ほぼ水平にカメラを構えれば1枚の中に多くの地点が写り込むわけですから、きちんと識別しなければなりません。
地点によって大きく異なる侵食の進行状況
さて、その「地点」をどのように設定するかが問題です。「鬼怒川堤防調査委員会」は、そんなことはおかまいなしに、漫然とならべられたサムネイルのように小さな写真を眺めながら、これはすでに始まっていた越水、これが勢いを増した越水、ここで川裏側法尻の洗掘(そうは見えないのですが)、そして最初にこの20mで決壊(破堤の意味)、さらに決壊の進行、はい天端が落ちました、と呟いて、なんとなくわかったフリをしていただけなのです。
それも自分でまとめたわけではなく、現場から遠く離れた埼玉県さいたま市の小綺麗なビルの一室にお呼びがかかって、そこで名札の通りに座らせられらたら目の前のテーブルに紙の束が置かれていた、ということなのです。つまり関東地方整備局河川部の職員が体良く、わざと粗雑に漫画風にコマ割りしたものを眺めながら、担当職員が「ございます調」で慇懃にご説明くださるのを聞いているだけなのです。なにせ、現地を見たのは9月13日に2時間ほどの一回だけで、それだって自分で見て回ったとはいえるようなものではありません。何かが落ちてくるわけでも高所作業をするわけでもないのに、迷子防止のためのおそろいの目印ヘルメットを被せられ、カルガモ行進をしてきただけで、自分では写真一枚撮るでもなく、まして測定棒ひとつあてるわけでもなく、ただぼんやり眺めていただけですから、判断材料は関東地方整備局河川部の職員が前夜おそくまでかけて作ったこの紙の束とそのご説明しかないわけです。
本気で水害の「専門家」を標榜するのであれば、(自前の)ライフジャケット着用のうえ(自前の)ボートで押堀(おっぽり。「落堀〔おちぼり〕は誤用)に漕ぎ出して(自前の)測定器具で水深をはかるとか、(自前の)スコップで土壌を採取してサンプルを持ち帰り、(勤務先の)測定器具で土質を判定するとか、(自前の)ドローンを飛ばすくらいのことはすべきでしょうが、とにかく何一つしなかったのです。写真だってズームレンズ装着の一眼レフカメラで、解像度を最高に設定したうえで、最低でも500枚くらい撮影すべきです。天皇陛下の行幸ほど大掛かりではないにしても、送迎・昼食付きの大名行列では何もわかるはずはありません。
委員の先生方の現地視察はマスコミ向けのイベントなので、新聞・テレビの記者・カメラマンもいるし、さいたま市での会議も同様ですが、すべてがあらかじめ作られたシナリオ通りに進行するのです。記者クラブの会員たちのお相手をするだけでなく、会議そのものの進行を取り仕切るのが、地理学・水理学・水文学・土木工学の素人で、2年ごとくらいにあちこち異動してまわる国土交通省の事務系官僚高橋伸輔(のぶすけ)河川調査官です。実質的な検討審議討論などおこなわれるはずもないのです。会議の目的は、関東地方整備局河川局がつくった筋書きどおりに、記者クラブ会員たちが記事を書き、アナウンサー用のセリフを書き、提供したポンチ絵をさらに簡略化したマンガを掲載・放映してもらうことです。
今回は、越水一本の「シナリオA」で行くつもりが、身内のはずの東京大学沖大幹(おき・たいかん)研究室の若手(芳村圭〔よしむら・けい〕准教授ら)がいささか出すぎたことをしてくれたおかげで(別ページ参照)、浸透というあまり表に出したくない要因にも言及せざるをえないことになりました。9月13日の現地調査直後にマスコミのカメラの前で最初のシナリオどおりに科白を言わされて赤っ恥をかいた安田教授らから、遠慮がちなクレームがつくにはついたのですが、そこは想定済みの「シナリオB」に切り替えて、かろうじて越水主因論を守り通したのです。幸いなことに、自分の眼でみたことではなくて、他人から言われただけの何の根拠もないことをそのまま即座に記事・番組にする能力に長けた記者たちもそのことにまったく気づかなかったうえ、日頃は国策治水・利水を批判している反国策派までが、現地調査もしないうえすでにある写真や地図を検討することすらせずに、極度に抽象的な数値すなわち堤防の縦断方法の寸法表だけに頼る表面的な越水原因論から一歩も踏み出そうとしないのです。こうして関東地方整備局は、鬼怒川水害訴訟の2大主戦場のひとつである三坂については越水破堤論で完全決着させることにまんまと成功したのです。
若宮戸については、堤防がないところでの溢水なので、「堤防調査委員会」の話題にもしないで完全無視です。25.35kのソーラーパネル地点は河川区域の外、つまり定義上そこは「鬼怒川」ではないので、一級河川管理の権限をもつ唯一の行政機関である国土交通省には全然関係ないのだから当然だというわけです。
河川区域境界線が深さ6メートルの押堀で抉られた24.75k(正確には24.63k)は誰も話題にしないから、国交省の方から騒ぎ立てることもありませんし、「たまごっち」遊びに興じた小学生のように氾濫シミュレーションに夢中なパソコンオタクの「治水・利水専門家」たちもそこは氾濫量ゼロにしてくれるので大助かりです(別ページ参照)。
鬼怒川水害にいつまでもこだわる人たちの多くは、どういうわけか本筋を外れた「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」という猫じゃらしの方に行ってしまい、まことに好都合です。
論点先取的になってしまうのですが、途中経過ならびに最終結果の状況の違いによって、決壊幅約200mをBからGの6区間に区分することにします。このうち「破堤」した区間は5区間です。その外側の決壊しなかった区間は上流側をA、下流側をHとします。
区間に区分するにあたっては、関東地方整備局の「鬼怒川堤防調査委員会報告書」(2016年3月)の、3−10ページの図3.8中の破堤幅の時間的経過に関する記述をふまえることにします。すなわち、最初に破堤した区間、および最終的な決壊幅(破堤幅と破堤しなかった決壊幅をあわせたもの)、ならびに途中経過です。
あまりの雑で杜撰なことにはほとほと呆れてしまいます。
1ページの中のふたつの図の間にもけっこうな食い違いがあります。上の図の「L21k」と、下の図の白丸「21k」とは、いずれも左岸21kの距離標(標石の他に、「21km」と記したポールが立っていました)のことなのですが、位置がかなりずれています。上の図の方が現実に近いようです。最終報告書の同じページにこんなものを並べて置く神経は到底理解できません。ほかの図示事項も厳密性を欠くでしょうから、過剰に信用しないようにしなければなりません。とはいえ、破堤を含む決壊区間「200m」を区分する上でのもっとも基本的な図がこれなのですから、全然信用しないというわけにもいきません。
これでも一応平面図と写真ですから、若宮戸の騙し絵(「自然堤防とは何か」「若宮戸の河畔砂丘」参照)ほどひどくはないので、これに多少の修正を加えて謹んで使うことにします。
なお、堤防はこの部分でかなりカーブしているので、破堤・決壊した堤防の延長としては、直線距離ではなく弧の長さをさすことにします。水害後の急造仮堤防については直線距離です。
以下、このページの本題です。
(1)決壊した区間をつぎのように、6区間に区分し、上流側と下流側をあわせ、AからHまでの8区間とします。このうち、F区間が最初に破堤した部分です。誰かがはっきり見ていたかどうかもわかりませんし、見ていたとして破堤の瞬間に距離がはっきりわかるような写真が撮影してあったわけでもないようです。対岸の篠山排水門のCCTV画像も、堤防の手前にある樹木が邪魔をして上流側の破断面がよく見えませんから、いささか曖昧なのですが、それでも「鬼怒川堤防検討委員会」の資料はだいぶ不正確なので、最初の破堤地点は補正します。(2020年8月に数値を訂正しました。B区間からF区間までは1〜3m、G区間は8m)
これもあらかじめ結論を述べてしまいますが、このF区間から下流側のG区間方向へ、同時並行して上流側のE区間、さらにD区間、さらにC区間へ、それぞれ縦断方向に洗掘が進行し、破堤していったのです。(ただし、C区間についてはいささか複雑な事象が起きたようなので、いずれ詳細に検討します。)
各区間の区分は一応のものです。アスファルト舗装は別として、硬い物質ではなく柔軟な土を積み上げただけの堤防ですから、そうきっちりと区画できるものではありませんし、なにより写真がすこししかありません。翌日以降のものはたくさんあるのですが、破堤直前や破堤の瞬間、あるいは初期の進行状況を上空から撮影したものは一切ないので、1割から2割程度の誤差を含むものとして設定することにします。
なお、作図上の基本的問題として、関東地方整備局のように堤内地から見上げた図にするか、それとも河道から見上げた図にするかという重要な点があります。関東地方整備局は一貫して堤内側から見る角度でやっています。これが関東地方整備局が破堤の真の原因に到達できない理由のひとつなのです。というより意図して真の原因を隠蔽するための詐術なのです。当然、河道から見上げる図にするのがよいのです。そうすれば上流側から順に打ったアルファベット(イロハでも数字でもよいのですが)がそれらしく並ぶだけでなく(それだけだったらただのヨーロッパかぶれですが)、洪水がどのように堤防を攻撃したかを認識できるのです。平面図ではあっても、俯瞰したらどうなるかを踏まえて分析し、表現する、ということです。
(1)6区間分割図です。
これを、各時期の衛星写真画像・航空写真画像と重ね合わせてみます。区間表示を消した画像も示します。まず(1)から(5)に、水害の前年から水害後にかけてのもの、ついでに(6)河川平面図と(7)かなり古い航空写真です。
(2)グーグルアースの水害前年2014年3月22日の衛星写真です。タブレットやスマートフォンのグーグルアースではこの機能はありませんが、Windows、MacOS、Linuxなどのパーソナルコンピュータ用のグーグルアースで、画面上方のアイコンの中央の時計マークをクリックすると、画面左上にスケールがあらわれるので、それをスライドして時期を選びます。
水害の1年半前です。堤防に擦りつけるように盛り土と土嚢で急造したダンプ道路がヘアピンカーブで堤防を乗り越えています。写真のとおり鉄板が敷かれています。砂地にダンプで乗り入れるとあっというまに埋没してしまうからです。橙の線は網フェンスでしょう。
(3)Yahooマップの衛星写真です。時期が明記されていませんが、近くの若宮戸では「品の字」土嚢設置後なので、それと同じ頃とすれば2014年7月以降です。ダンプ道路の鉄板や土嚢がありませんが、茨城県道357号線への取り付け部の土の色の違いから判断して、設置前でなく撤去後でしょう。ケヤキが落葉しているようですから、2014年の秋から2015年の春の間でしょう。
(4)グーグルアースの、氾濫翌日9月11日午前10時ころの衛星写真です。最初に破堤したF区間の残った地盤の様子がその左右と違うのがわかります。粘土まじり土の層が浅かったのです。
(5)グーグルアースで選択表示した、水害からほぼ一か月後の10月9日の衛星写真です。二重の仮堤防完成後です。コンクリートブロックで覆った土堤と、浸透防止のためにその河道側に鋼矢板を2列に打ち込み、間に土砂を充填したものの二重体制です。このあと、鋼矢板による締め切りは、本堤防再建のために土堤を撤去する時のために、河道側にもう一列作っておくということもありますが、浸透防止という意味もあるのです。「堤防調査委員会」の場などでは噯にも出さないのですが、関東地方整備局がいかに浸透を怖れているかがわかります。設計着手はおそらく水害当日でしょうから、初めから、というより昔から判っていたことなのです。
ブロックの色が真ん中で違っているのは、上流側(画面左側)半分が鹿島(かじま)建設、下流側(画面右側)半分が大成(たいせい)建設によるものだからです。地盤の埋め戻しや整地の具合まで違います。写真の継ぎ目ではありません。
(6)国土交通省作成の「鬼怒川平面図」(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinugawa-heimenzu1.pdf)と重ねたものです。ダンプ道路のとくに堤内側からの登り方は、(1)とは全く違いますし、このあとの(7)とも一致しません。
標高の数値は、Y.P.値で、一般的な地図のT.P.値より0.84m高くなります。一点鎖線は土地所有上の境界線なのでしょうが、どういうわけか一部しか描かれていません。とくに堤防沿いや堤外地については全く描かれていません。また、河川区域境界線は絶対描かないというのが国土交通省河川局の至上命題です。G区間上流端の堤防が堤内側にポコっと膨らんでいるところなど、どこまでが河川区域なのかわからないようにしているわけです。
(7)「地理院地図」(https://maps.gsi.go.jp/)の「トップ〔画面左上の〝情報〟ボタン〕>空中写真・衛星画像>単写真」の中にある、1980年11月5日撮影のCKT902-C5B-17.jpg と重ねたものです。水害の35年前ですが、この時期にもダンプ道路があり、砂の掘削がおこなわれていたようです。ただし、ダンプ道路のコースどりは水害直前のものとは、だいぶ違います。
以上のとおりの区間に分割した上で、前ページで列挙した写真を順にみてゆくことにします。