鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因

 

10 地表氾濫流と地下浸透流❷

 

Mar., 4, 2021 (ver. 1.)

Mar., 6, 2021(図面修正)

 

 前ページにひきつづき、三坂における堤体と堤内地の崩壊メカニズムについて検討します。

 三坂における破堤について提出された従来の分析は、ほぼすべてが、〈越水による破堤という単純なメカニズムで説明するものです。そうしたなかで、関東地方整備局の内部組織(第三者機関ではありません)である「鬼怒川堤防調査委員会」は、「浸透」が「決壊」(破堤のこと)を「助長した」としています。水理現象に関して「助長」とはいかにも珍妙な用語法です。破堤メカニズムの説明は具体性に欠け、しかも矛盾だらけです。「浸透」に言及してはいるものの、破堤のメカニズムについては結局のところ「越水」だけで説明してしまっています。

 水害前はもちろん、水害後におこなわれた関東地方整備局による地質調査などの現地調査は方法も妥当とはいえず、最悪なことに調査範囲・箇所はごく限られたもので、到底全貌があきらかになるようなものではありません。しかも調査結果はそのごく一部しか公表されていません。

 本項目〈鬼怒川堤防の特性性と崩壊原因〉においては、既存の分析の不十分性や矛盾を指摘したうえで、堤体と堤内地の崩壊の全体像についての仮説を提起します。前ページにおける地下浸透流による盤割・噴水や陥没のメカニズム、ならびに、本ページと次ページにおける地下浸透流による堤体と高水敷の崩壊のメカニズムについては、これまでも部分的・断片的な分析例はありますが、総体的な分析は存在しません。本仮説は、前例のない総合的因果関係論として提起するものです。

 根拠となるべき既知の事実は限定的・断片的ですし、とくに地下水の挙動にかんする理論的裏付けはいかにも不十分です。これについては、今後検討を進めることにしますが、従来鬼怒川水害の分析をしてきた方にあっては、本仮説を素人の愚考として無視するのではなく、本仮説を無用とするような、堤体と堤内地、さらに高水敷の崩壊状況の全部を説明できる新説を提起くださるよう、願います。

 

三坂における堤体と堤内地崩壊の概要

 

 〈地表氾濫流と地下浸透流〉全3ページで、鬼怒川水害最大の原因地点である三坂で何がおきたことの全体像を概観するのですが、ここで全域の航空写真に堤体および堤内地崩壊の概要を描き加えたものを示しておきます。(当サイトの画像は、クリックすると独自ウィンドーが開き、さらにクリックすると拡大表示します。ウェブサイトの規格により、多少の解像度低下はあるものの、十分な画質は確保してあります。元画像を国土地理院等から入手することもできます。)

 最初は、水害から3日後、9月13日午前の国土地理院の航空写真です(CKT201510-C4-14、コントラスト等を補正してあります)。描き加えは、これだと小さくてよくみえませんから、このあと部分拡大することとしますが、まずは全域をごらんください。

 三坂に関する当サイトの主張は、ごくかいつまんでいうと、越水による破堤などという説明は端的に誤りであり、ほんとうの破堤原因は水害前年の高水敷と砂州における8万立方メートルの土砂採取によって引き起こされた高水敷と堤体地盤の脆弱化だった、というものです。そのことを、一目瞭然、端的に示すのがこの航空写真です。青線の河道側が砂州(side bar)だったところです(青線が掘削前の高水敷の河道側辺縁で、実線は段差の上の高水敷面、破線が段差の下の砂州面、その間が崖面です)。高水敷だけでなく砂州もかなり掘削されました。

 この青線と緑線の間は元は高水敷だったところで、2013-14年に下館河川事務所によって最大で約4mの深さまで掘削されました(実線は残った高水敷面の辺縁、破線は段差の下面、その間が段差4mの崖面です)。

 掘削された元の高水敷と砂州は、9月13日になって洪水の水位がかなり下がったのに、まだ水面下に沈んでいます。掘削したうちの下流側の半分くらいは水面から草が見えるようになりました。このとおり、高水敷は異常に狭くなり、堤防の基礎地盤と堤内地は、洪水の浸透水圧によりひとたまりもなく破綻したのです。

 

 少し拡大します。掘削後の高水敷の辺縁と破堤した堤防の間の、かろうじて残されていた高水敷部分が黒く見えるのは、緊急復旧工事によって運び込まれた土砂です。ブルドーザーの軌跡がよくわかります。

 堤内地に引いた2本の赤破線の間が地表氾濫流の主流部です。そして上下流側それぞれの赤破線と赤一点鎖線までの範囲は、地上氾濫流の威力はそれよりは小さかったのですが、地上氾濫流による被害に加えて地下浸透流による盤割や陥没により家屋がおおきく傾斜するなど甚大な被害を受けています。家屋が残っているために陥没の様子がよくわかります。

 描き込みのない画像も示します。

 

 さらに寄ってみます。こんどは、水害翌日の9月11日に、国交省がヘリコプターで撮影し、水害直後に公表していた航空写真です。俯瞰撮影なのですが、画像操作により垂直撮影画像のように修整してあります。

 堤内地の2本の赤破線の間は、氾濫流の主流部分です。この範囲にあった家屋はすべて地盤ごと流されました。例外は地下に埋設された頑丈なタンク構造物の上に乗っているガソリンスタンド部分(中山石油)と、それが下流側の支えとなった倉庫とLPG倉庫、それと鋼管の基礎杭に乗っていた住宅8(話題になった「ヘーベルハウス」)だけです。

 主流部の外側では氾濫流の威力が少々弱かったようです。それでも基礎地盤が約1.5m洗掘されてその場に落ち込んだり(住宅2)、陥没によって大きく傾いたり(住宅9は北側=画面左へ、住宅12は東側の県道357号線側=画面下へ、住宅14は北側=画面左へ)しました。

 陥没には、大きく3つのタイプがあります。

 マゼンタ(赤紫)の1から5は、堤防から離れた箇所で、表土が直接陥没しています(〈堤内地における陥没〉で住宅9・13と丁字路部分について検討しました)。

 堤防のすぐ近くのサーモン色の1から6は、押堀の中で起きた盤割によるた穴の中でさらに陥没が起きています(〈浸透による堤内地盤崩壊〉参照)。

 紫の1から5は、堤体が流失したあと堤体基礎地盤が盤割を起こしたうえ、そこでさらに陥没が発生し、大小の穴が開きました(1と2については、〈浸透による堤体崩壊〉参照)。

 青の1から3は、地下浸透流の通り道、いわゆる「水みち」のようです。これについては、本ページでこの後、はじめて検討します。

 

 ここまでは、氾濫水が一連の水面をなす巨大な水溜りになっていて、水面下がどうなっているのかほとんどわからなかったり(9月11日の「きんき号」)、排水ポンプ車による排水がおこなわれて水位がすこし下がったものの、解像度が極度に低かったり(9月13日の国土地理院)と、非常に条件の悪い写真を背景写真として用いてきたのですが、それというのも、これ以降、堤体があった範囲は仮堤防建造のために埋め立てられてしまって様子がまったくわからなくなってしまうからです。

 次は、9月15日の国土地理院の航空写真(CKT201511-C4-14)です。(コントラストを強めるなど画像補正してあります。「開口1」「開口2」の周辺など画面右側の暗い部分は、土砂の色味もありますが、雲の影です)。

 

 ふたたび9月11日と13日の航空写真にもどり、B区間からG区間までをさらに拡大します。

 C区間における川裏側法面崩壊(一部B区間に連続)と、E区間における川裏側法面崩壊(一部F区間に連続)を白で示してあります。紫の1から4は盤割を起こしたうえさらに陥没した穴、青の1から3は地下浸透流の通り道、いわゆる「水みち」です。黄線は、水害後に残った堤体基礎地盤の辺縁です。

 堤外側には、2013−14年に国交省が実施した高水敷掘削によって形成された落差約4mの崖面(緑線)において、水位低下時に河道方向に砂と水が噴出して形成された開口を、白で示してあります(開口3・4と連続開口は仮堤防建造工事に際して埋め戻されていますが、開口1・2はその後もしばらく残ります)。

 (以上のうち、紫の3・4と青以外については、〈鬼怒川水害まさかの三坂〉〈三坂における河川管理史〉、そして本項目〈鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因〉の8ページまでで具体的に示しました。)

 

 

 紫の3・4の、盤割を起こしたうえさらに陥没した穴と、青の1から3地下浸透流の通り道、いわゆる「水みち」は、9月13日以前は地下に隠れていてまったく見えず、それ以降は、堤体直下やそれに沿った堤外地に大量の土砂が搬入され積み上げられて隠れてしまったことで、状況がまったくわからないのです。

 

一度だけ明らかになった堤体直下の状況

 

 しかし、たった一回だけそれらを確認する機会があったのです。すなわち、この仮設堤防を撤去し、本復旧堤防に置換する際に短期間だけ、それまで隠されていて、それ以降はふたたび見えなくなる堤体基礎地盤が一時的に姿をあらわしたのです。この間隙を縫って、2016年2月18日に何箇所かの掘削調査が実施されています。その結果、それまでの地質構造に関する記述は、まったくの虚偽であったことが暴露されたのです。この調査結果の図と写真が1ページだけ、「鬼怒川堤防調査委員会」の「報告書」の末尾近く、本筋から外れた余談のような項目中に記載されているのですが、関東地方整備局河川部の上層部職員の誘導のとおり、委員会の委員らはこの調査結果は漫然と見ただけのようで、破堤の原因分析ならびに本復旧堤防の設計評価が根底から覆ることになる調査結果を完全に無視しています(6〈堤内地盤崩壊の諸相〉iv)。

 下は、9月13日の航空写真に陥没地点等を描き入れたものに、その図を重ね合わせたものです。P-1からP-6の青丸が掘削調査地点6箇所ですが、P-1とP-2はもっとも深い陥没穴の地点、P-4からP-6までは川裏側法面に穴が開いたE区間を調べたものです。調査結果以前に、このような掘削調査箇所の選定状況からして、一面的で単純な「越水破堤」論の宣伝に終始する関東地方整備局河川部上層部とは、まったく見解を異にする技術系職員の存在を窺わせます。

 

 この仮堤防を撤去し本復旧堤防に置き換える時期に、下館河川事務所鎌庭出張所(「鎌庭」〔かまにわ〕は、かつての所在地名であり、現在は三坂からほど近い常総市新石下〔しんいしげ〕にあります)と鹿島(かじま)建設と大成(たいせい)建設の現地事務所の共催による住民説明会が、2016年3月12日、4月10日、5月8日、5月29日の4回開催されました(https://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate00390.htmlhttps://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate00389.html.)。

 その際配布された資料はじつに興味深いものです。従来関東地方整備局河川部が作成したすべての広報文書は、「鬼怒川堤防調査委員会」の報告書を含め、客観性・厳密性に欠ける、それどころか敢えて虚偽を並べ立てて誤解へと誘導することを目的とする、悪質な作為にみちたものでしたが、それらとはまったく違って、重要な図や写真が改竄なしに多数掲載されているのです(第1回から第4回までの配布資料は、https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000648802.pdfhttps://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000648803.pdfhttps://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000648804.pdfhttps://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000648805.pdf。なお、リンク切れ・削除に備えて、reference5に第1回の資料のpdf.を掲載してあります)。

 全体の体裁や言葉遣いは、これまでの関東地方整備局お手製資料に芬々とする、真相を誤魔化そうとする素人くさい誘導的記述や慇懃無礼さとはかなり印象が異なります。高橋伸輔河川調査官ら関東地方整備局の広報担当者の干渉の及ばないところで、実務に携わる職員と、鹿島と大成の技術者が、邪心なく(!)作成したのでしょう。

 まず、本復旧堤防の構造図です。従来は基礎地盤も全部置換した、すなわちもとの基礎地盤を全部撤去し、あらたに基礎地盤を造成したかのように説明されていたのですが、どうやらそうではなかったようです。もとの基礎地盤のうち、水害後に残った部分はそのまま残したようです。

 右の上の断面図で「置換盛土」とあるうち、ピンク部分が水害前の基礎地盤の一部がそのまま本復旧堤防の基礎地盤として残されたようです。B区間を含む約200m区間において、地点により残存具合はかなり異なります。この断面図はL 21k地点だろうと思われます。G区間の上流端であれば、基礎地盤がかなり残っていますし、そのやや下流側のガソリンスタンド倉庫のすぐ近くだと、陥没による深い大穴が空いているはずです。L21k地点はなにかにつけ、使われていますから、ここでもそうでしょう。

 さらに重大な事実があります。

 仮堤防の建造は9月10日のうちにすでに始まっていたのですが、堤体近くの高水敷から堤体基礎地盤にかけて、地下浸透流の通路、いわゆる「水みち」が3箇所あったようです。その抉れは周囲よりも一層深くまで達していて、しかも細長く続いていたのですが、そこにも砕石が投入されていて、その上に仮堤防が積み上げられていたのです(右の写真は、

https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000633539.pdf)。

 そんなものの上に本復旧堤防を乗せるわけにはいきませんから、堤体直下の基礎地盤にあたる地点ではその砕石を取り除き、穴を粘性土で埋め戻したようです。それが、さきほどの平面図の青の1です。

 下の写真は、現場説明会パンフに掲載されているもので、仮堤防のうち、堤内側の土堤(「荒締め切り」)とその基礎地盤を撤去した際の写真です(2016年2月25日)。

 青の1は、本復旧堤防の川表側法面の真下にあたるので、仮復旧時に投入された砕石を掘削してできた細長い深穴です。周りにコーンと渡し棒をめぐらせてあります。

 鋼矢板を2列に打ち込んで砕石を充填した二重締まりの、河道側と堤内地側を貫通して色味のことなる土砂が見えます。それが青の2と青の3です。二重締まりを壊すことになるので、この時点で青の1同様に掘削と埋め戻しをおこなうわけにはいきません。

 というより、本復旧堤防の基礎地盤にはかからないので、この時点では砕石撤去の必要はないわけです。このあと、本復旧堤防が完成して二重締まりが撤去される時点で、青の1と同様に砕石撤去のうえ埋め戻しされたのか、そのままにされたのかはわかりません。


 

 次は、同じパンフレットの「置換盛土基盤の掘削整形状況(3月4日)」という写真です。俯角が多少違いますが、さきほどの写真と同様にUAVで撮影した動画からの切り出しでしょう。

 

 2枚を見比べてみます。C区間から一部D区間にかけての堤体基礎地盤(橙四角)と、F区間からG区間上流部にかけての堤体基礎地盤(黄四角)が、縁を整形したうえで、そのまま残されているのがわかります。3月4日に相対的に高くなったように見えるのは、周囲をかなり掘り込んであるせいです。

 このあと掘削撤去したとも思えませんから、このまま堤体基礎地盤になり、今もなお三坂の破堤区間の復旧堤防の地下に埋まっているのでしょう。


 このうち橙四角の方は、〈3 浸透による堤体崩壊〉で検討した基礎地盤です。

 右上は、関東地方整備局が9月12日におこなった現地調査の際の写真で、B区間の堤防断面の手前、水面から1m以上出ているテーブル状の地形がこれです。画面右下隅は黄四角の基礎地盤です。(中央の大樹が欅、その陰が加藤桐材工場、右の茶壁が住宅1、灰壁が住宅2)

 右下は9月13日に防災科研が撮影したもので、上の写真の左隅の緑のバックホウのあたりから撮ったものです。(左が住宅2、奥が下流側破堤断面、その左が中山石油の倉庫、それらの手前が黄四角の基礎地盤)

 この13日の昼まえに、「鬼怒川堤防調査委員会」や「土木学会」のお歴々がこの地盤の上に立って、周りを見回し、「しっかりした地盤がある」という意味不明のコメントを発したうえ、早くも破堤原因は越水であると断言しています。

 下右写真で、土木学会会長(当時)の山田正先生とその向こうの調査委員会委員長代理の清水義彦先生らが立っているのがこの基礎地盤ですが、足下にはまったく関心がないようです。



 

 「水みち」については、〈4 浸透による堤内地盤崩壊〉で、土木研究所の資料(『河川堤防の浸透に対する照査・設計のポイント』2013年、https://www.pwri.go.jp/team/smd/pdf/syousasekkei_point1306.pdfにより検討しました。2ページの図2.1.2に「パイピング」のでき方の説明があります。「川裏から河川に向かってパイプ状に水ミチが形成」とあるとおり、洪水の水圧を受けた透水性地盤において、出口側から入口側へと伸張するわけです。これこそが、2016年2月25日の写真に写っている青の1・2・3です。



 

 

 

III  地下浸透流による堤体崩壊

 

 ここで本題に戻り、いよいよ堤体崩壊の実状と崩壊原因について検討します。

 2015年9月10日、12時50分ころにまずF区間が破堤し、翌朝までにそこから上下流側に破堤断面が移動しました。こうして側方からの侵食によって、上流側はE区間、ついでD区間、さらにC区間が破堤したのです。B区間は、川裏側法面(のりめん)がかろうじて残ったので、堤体基底部からの喪失という定義上「破堤」しませんでした(決壊区間には含まれるが、破堤区間には含まないということです。国交省はじめ「専門家」のほとんどが誤っています。曖昧なのではなく、明白に誤っているのです)。同じく側方からの侵食によって、下流側はG区間が破堤しました。C・D・E・G区間のうち、E区間とC区間では破堤前に越水が起きていましたが(黄矢印実線区間)、それが直接的な破堤の原因となったのではありません。B区間は越水が起きていたのに破堤していませんし、D区間とG区間(黄矢印破線区間)は越水は起きていません。(以上の点については、〈鬼怒川水害まさかの三坂〉で具体的に示しました。)

 

 まずC区間における堤体と堤体基礎地盤さらに堤内地の崩壊メカニズムについて、ついでEF区間における破堤のメカニズムについて、仮説を提起します。


 

III-1 地下浸透流によるC区間堤防の断裂と堤体基盤の盤割・陥没 

 

 次の画像は、C区間のすぐ近くの住宅1の住人の方が、F区間の破堤から数分後の13:00直前に、2階ベランダから撮影したVTR画像の1コマです(https://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/river_bousai00000101.html)。画面下が堤防の川裏側法面基部の生垣で、左に木戸とそこに枝垂れかかる百日紅の紅い花が写っています。対岸の将門(しょうもん)川が鬼怒川に合流する地点の篠山(しのやま)水門も見えています(その上流側螺旋階段中心軸上のCCTVカメラによる13:23以降の画像が残されています)。

 

 この何カットか後のコマからトリミングしたものが、「鬼怒川堤防調査委員会」資料に掲載されていて、越水によって川裏側法面がほぼ垂直になるまで洗掘され、天端(てんば)のアスファルトから氾濫水が、ほぼ垂直に、滝のように落下している段階の写真だとして示されています。すなわちこれが破堤にいたる「STEP3、川裏法面・天端洗掘段階」だというのです(第2回会議資料、27ページ https://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/river_bousai00000101.html なお、「報告書」3-37ページには多少改変して記載 https://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/index00000040.html)。

 「撮影時間不明」とあるとおり、委員の先生方や局の広報担当者らは時刻の特定すらできていないのですが、より重大な問題は、前述のとおりこの地点の破堤はこの「越水」が原因ではなく、F区間の破堤による破堤断面の洗掘が上流側に進行する、側方侵食(という用語があるわけではありませんが)によって起きるのであって、あたかも越水が原因で起きる破堤の「STEP3」であるかのようにいうのは不適切なのです。

 さらに、右に添えられた断面図が重大な事実誤認を引き起こすのです。

 

 

 堤防の川裏側(堤内側)の法面が、越水した氾濫水により、堤体基礎地盤面まで洗掘されているのを、2階ベランダから見ている、と、この写真を見るすべての者が思いこんでしまったのです。水害直後にはじまり、完全に定着してしまった、とんでもない誤解です。 この「誤解」を断面図として表現すると下のとおりです。

 委員会資料の右欄の図の「T」とは、堤内地の表土(Top soil )のことです。右欄の図は、川裏側法面が完全に洗掘され、それどころか、堤内地がかなり深くまで(約2m)侵食されていることになります。それだと、写真の段階をはるかに超えてしまっていて、写真と図とでは齟齬があることになるのです。いつものことでいまさら驚きもしませんが、広報担当の高橋伸輔河川調査官(当時)が作成する図は、すべて国民を瞞着するための騙し絵であり、事実と相違するのはもちろん、フィクションとしても支離滅裂かつ荒唐無稽です。話がすすまなくなるので、写真と図の矛盾についてはこれ以上立ち入らないことにします。

 

 しかし、これはまったくの事実誤認です。

 「鬼怒川堤防調査委員会」資料の写真は、か画面下部をトリミングしているため、たいへんわかりにくくなってはいるのですが、最初に掲げた写真のとおり、そこには川裏側法面の法尻(のりじり)付近に生垣があるのです。画面左地点では、生垣に木戸が設置されていて、そこに百日紅が枝垂れています。

 上の断面図に、この生垣を描き加えると下のようになります。川裏側法面部分の堤体基礎地盤面は、生垣の上端の線より下になるはずなのです(生垣によって遮られるので向こう側はよくは見えないのですが、見えるか見えないかが問題なのではありません。別ページで詳述してあります)。ところが写真では、堤体基礎地盤面は生垣の上端の線より上なのです。おかしな話です。

 

 誰もが不用意に信じているデタラメな位置関係認識から脱却し、実際の位置関係を考え直さなければなりません。

 川裏側法尻に大穴はできていません。「鬼怒川堤防調査委員会」資料の断面図のとおり、大穴ができているとすると、生垣などとうの昔になくなっている筈です。それどころかその手前の堤内地地盤も抉られ、住宅1も基礎地盤ごと流失している筈です。2階ベランダからのビデオ撮影は到底不可能になっている筈です。

 川裏側法面の基礎地盤面だと思っていた水面は、法面の中段の水面なのです。「滝のように落下する氾濫水」は、天端アスファルトから基礎地盤面まで2mないしそれ以上の落差で落水しているのではなく、法面中段までのせいぜい1m少々の落差で落水しているだけです。

 もう一度写真を示します。堤体基礎地盤面まで落差2m以上を落下しているのだ、と誤解すると、位置関係や距離感が全部狂ってしまいます。(そうではないと言う方は、ぜひ断面図を描いてみてください。天端から基礎地盤面まで完全に見通せているとなると、堤防はかなり遠くにあることになるのですが、結局辻褄があわなくなります。無矛盾的な作図は不可能です。)

 

 手前の生垣、堤防の法面(だった面)や基礎地盤面、天端、堤内地の地盤面、そして撮影者の視点の位置関係を矛盾なく図示すると、こうなります。

 

 「鬼怒川堤防調査委員会」資料にあるような、越水によりまず法尻が洗掘され、徐々に法面全体が洗掘されて、天端アスファルトから越水が落下している、という図式とはまったく異なる状況です。

 「越水による破堤」論によれば、越水してきた氾濫水は、川裏側法面を流れ落ち、まず法尻部分を侵食する、そして徐々に法面を遡上するように侵食が進み、ついには法面全体がなくなり、天端から垂直に滝のように氾濫水が落下する、というものです。しかし、この「越水による破堤」論では、この写真の状況、すなわち侵食が法面の頂上部、つまり法肩からはじまり、徐々に下方に進んだ状況は、到底説明がつかないのです。

 こうなると、苦し紛れに別の説明をもちだす人が出てきます。すなわち、これは越水してきた氾濫水による洗掘が法尻から始まりそこから上方に向かったのではなく、洗掘が法肩(のりかた=法面の最上部)から始まった状況なのだ、という取ってつけたような説明です。しかし、こんなアドホック(ad hoc)理論は到底許されません。そんなことをいうなら、今までの「越水による破堤」の図式は全部撤回しなければなりませんし、越水におる洗掘を防ぐための川裏側法尻の補強などという手法は何の意味もないことになります。(以上については、本項目2ページの〈越水による法尻洗掘の仮象〉で詳述しました。ここでは概略だけ摘記しました。)

 

 

III-1-i C区間の横断面

 

 越水による川裏側法面の侵食ではないのだとすると、どう考えればよいのでしょうか。

 考えられる原因は、浸透による堤体内部の変性に起因する崩壊です。以下、この仮説を模式図によって段階的に示します。

 

 次は、2013−14年の高水敷掘削による標高差4mの崖面から、C区間堤防、さらに堤内地までの横断面図です。

 おそらく旧河道を横断する形であらたに左岸堤防を建造するにあたり、まさか砂が厚く堆積している旧河道に直接堤体を載せるわけにはいきませんから、遮水性土壌による堤体基礎地盤を設置し、そのうえに堤防を築いたのです。

 

 

 ただし、この遮水性土壌は高品質の粘土による均質で強固なものだったのではなく、不均質で、シルトや砂、さらには礫まじりのものだったようです。(これらについては、本項目5ページ6ページで詳述しましたので参照ください。)このため、次のように堤体基礎地盤の崩壊が起きることになります。

 

III-1-ii 地下浸透流・堤体浸透流によるC区間堤防の断裂

 

 2015年9月10日、水位が上昇し、おそくとも11:00ころまでには、越水が始まっていましたが、高水敷から、とくに2013−14年の掘削によってできた段差4mの崖面から、堤体基礎地盤の下を潜(くぐ)って堤内地へと浸透し、地下水の圧力を高めます。同時に、堤体基礎地盤の上側へも浸透し、堤体の川表(かわおもて)側法面からの浸透水を一体になり川裏側法面を断裂させます。

 ただし、このあと見るF区間のように、堤体崩壊がさらに進行してそのまま破堤にいたることはなかったのです。つまり、このC区間はF区間が破堤してできた破堤断面が流入する洪水によって侵食され、E区間からD区間、そしてC区間が順に流失した(破堤した)ということです。

 

III-1-iii 破堤断面の縦断方向への波及によるC区間堤防の破堤

 

 F区間にはじまった破堤が上流方向に波及してC区間が破堤しました。

 こうして地上氾濫流がC区間とD区間に相当する堤内地に流入し、とくに堤防と住宅2の間にあった住宅1宅の車庫の基礎地盤、および住宅2の基礎地盤、さらに私道部分の表土をほぼ押し流します。なお住宅2の建物は、基礎地盤が全部失われその下の遮水性土壌面に落下しますが、東側の住宅9との間の地盤はほぼ残ったために、押し流されることなく、真下に落ち込んでその場にのこりました。

 

 写真は、防災科学技術研究所(国立研究開発法人、茨城県つくば市、https://www.bosai.go.jp)が、前日に続いて2015年9月12日におこなった三坂の現地調査の際に撮影したものです。C区間とD区間の境界付近の天端があった地点から東方向を見たところで、左が住宅1(2階ベランダがさきほどのビデオの撮影地点)、右が住宅2で、もとは住宅1と同じ高さの敷地上に建っていたのですが、地上氾濫流により基礎地盤が約1.5m流失し、その場に落ち込んでいます。1階窓に突入しているコンクリート板は、堤防との間にあった車庫(住宅1宅の所有)の床面です。画面中央奥から続いていた住宅2の採石敷私道は全部流失し、向こうまで見通せます。その左、住宅1の前庭と、住宅2の私道と並行していた住宅1の私道は、基礎地盤がかなり流され、残ったコンクリート舗装面が割れて落下したり、捲れ上がっています。左にさきほどのビデオに映っていた百日紅が立っています。

 

III-1-iv 地下浸透流によるC区間堤防基礎地盤の盤割

 

 C区間の基礎地盤が、その下の地下浸透流の圧力を受け、盤割が生じました。地下から噴出した砂が基礎地盤の破断面などに付着・堆積しました。

 住宅9の西側=河道側では地下からの噴水現象が起きました。下の篠山水門のCCTV画像に記録されているように、F区間の破堤の約1時間後の13:50ころから約30分間続きました。(詳細は、前項目の9〈堤内にたちのぼる噴水〉)

 

III-1-v 地下浸透流によるC区間堤防基礎地盤の陥没

 

 洪水の水位が低下すると、地下浸透流は流向が逆転し、河道方向へ流出しはじめます。このため、これまで地下からの水圧によって上向きの力が働いていた堤内地や堤体基礎地盤面が、地下水の圧力低下によってあちこちで陥没します。

 住宅9の北側、すなわち住宅2に続く砕石敷の私道と住宅1に続くコンクリート舗装の私道部分で、かなり大規模な陥没が起きています(サーモン1)。住宅9の傾斜具合、住宅1の私道のコンクリート舗装の破壊の具合は、住宅13の傾斜と県道357号線の舗装の破壊具合と、極めてよく似ています。(この2か所の陥没については、前ページ参照)


 以上の各段階の結果が1箇所に全部あらわれているのが、ここです。正面の断面のうち一点鎖線の左側までは、ちょうど法尻の線です(一点鎖線の右は東側に角度をかえています)。つまり断面の手前が失われた堤体地盤と堤体があった場所です。地下からの水圧によって盤割して流失し、あとに噴出した砂が残されています。

 水平の線は、次のとおりです。

 住宅1の前庭のコンクリート舗装面がもとの地表面

 地上氾濫流によって表土=住宅の基礎地盤が流失し、住宅2が達磨落としのように陥落した1次侵食面

 堤体基礎地盤で起きた盤割による2次侵食面

 陥没によってできた穴に湧出・滲出した水が溜まっている3次侵食面

 

 同じく9月12日の防災科研の写真です。画面中央の陥没穴に落ち込んだ平屋寄棟屋根の建物は住宅9です。画面右の住宅2は住宅9との間の地盤が残ったために、押し流されずにその場にとどまたのですが、基礎地盤が全部なくなったため、その位置で約1.5m落ち込んでいます。

 住宅2と住宅9のすぐ脇=北側に砕石敷の住宅2の私道がありましたが、全部流されました。その左側=北側に平行している住宅1の私道は、地盤が洗い流され、舗装のコンクリート板が残って割れ(鉄筋は入っていないので簡単に割れます)、落ち込んだり、あるいは捲れて裏面をみせていたり、雪庇のように張り出して宙吊りになっています(3人は、下がどうなっているかわからないので、上に乗っているのでしょう)。

 

 この逆浸透、すなわち、洪水位低下段階における堤内地側から河道側への地下浸透流の一部が、2013−14年の掘削でできた高水敷の段差において噴出したことについては、次の III-2-v と合わせて、次ページの IV において検討します。


 

III-2 地下浸透流によるE区間とF区間の法面断裂

 

III-2-i E区間・F区間の横断面

  

 次は、2013−14年の高水敷掘削による標高さ4mの崖面から、EF区間堤防、さらに堤内地までの横断面図です。

 おそらく旧河道を横断する形であらたに左岸堤防を建造するにあたり、まさか砂が厚く堆積している旧河道に直接堤体を載せるわけにはいきませんから、遮水性土壌による堤体基礎地盤を設置し、そのうえに堤防を築いたのです。ただし、この遮水性土壌は高品質の粘土による均質で強固なものだったのではなく、不均質で、シルトや砂、さらには礫まじりのものだったようです。これらについては、本項目5ページ6ページで詳述しましたので参照ください。

 下のE区間・F区間の横断面図は、III-1-i C区間の横断面図と同じものを掲げます。多少の差異はあるに違いありませんが、水害前後ともに、十分な地質調査は実施されていませんから、詳細はまったくわかりませんから、概略を示します。

 

III-2-ii 地下浸透流・堤体浸透流によるE区間・F区間堤防の開口

 

 2015年9月10日、水位が上昇し、おそくとも11:00ころまでには、越水が始まっていましたが、高水敷から、とくに2013−14年の掘削によってできた段差4mの崖面から、堤体基礎地盤の下を潜(くぐ)って堤内地へと浸透し、地下水の圧力を高めます。同時に、堤体基礎地盤の上側へも浸透し、堤体の川表(かわおもて)側法面からの浸透水と一体になりE区間から一部F区間にかけての川裏側法面を断裂させます。

 

 

 

 下の写真は、12:04ころに撮影された川裏側法面下部の開口です。これは、「越水による川裏側法尻の侵食」の映像だとされているのですが、よく見ると川裏側法面の中程に開口部ができ、そこから土砂が流出しているのであり、法尻は侵食されていません。定義上、法尻の線は、イコール、河川区域境界線です。そこには、一列に丸く刈り込まれた植栽が一列にならんでいます。「越水による川裏側法面の侵食」だとすれば、真っ先に侵食されている筈の法尻は、まったく侵食されていません。侵食されていれば丸い植木は全部流失し、そこに堤防に沿って抉れた穴が連続していなければならないのに、越水してきた氾濫水が植木の根本を洗っている程度です。越流した氾濫水が川裏側法面を流れ下り、法尻付近に当たってそこを侵食している様子はまったくありません。

 それではいかなる現象かというと、堤体内部からの堤体土の吐出現象と考えるほかありません。他にこうした状況をもたらすであろう原因は考えつきません。とくに画面中段左端を見ると、焦茶の停滞土が流れ出ています。均質な粘土ではなく、砂まじりかあるいは端的に砂がドロドロと流れ出ているように見えます。

 かと思うと、この大穴の下流側は、法面がそのまま残っていて、手前の大穴との境界は、徐々に変化するのではなく、スパッと切り立っています。

 

 この開口の位置・形状を、カメラの画角や背景物の位置・角度から推測し平面図に描き込むと、右の白輪のようになります。E区間から、下流側はF区間の上流端にかけてです。上流側は写真の画面から外れているので不明です。〈まさかの三坂〉の4〈越水の進行〉で検討したので、結論だけ記します。

 E区間とF区間の区分について、確認しておきます。F区間は、12:52ころに最初に破堤した区間です(〈まさかの三坂〉の2〈破堤・決壊した195mを6分割する〉)。その上流側をE区間、下流側をG区間と呼ぶことにしたものです。

 そしてこのE区間が、もっとも激しく越水していた区間です。それに対して、F区間は法面の草がだいぶ見えていて、それほど激しい越水は起きていません(右写真の赤楕円。〈越水の進行〉参照)。

 E区間が激しく越水した理由は単純です。ここの堤高がその上下流側にくらべて、一段と低かったからです。別に測量データを持ち出すまでもありません(見たとしても測量間隔が空きすぎていてよくわかりません)。水害前の衛星写真(GoogleEarthProの2014年3月22日撮影の写真)のとおり、E区間の天端のアスファルト舗装面には泥だまりができています。この部分がその上下流側にくらべて凹状に窪んでいて、土砂混じりの水が流れてきて溜まるからです(おもに、2013−14年にかけて行われた高水敷掘削による砂の採取のために、G区間で天端を横断するヘアピンカーブが作られていて、そこの土砂やダンプカーのタイヤから落ちる砂でしょう。〈まさかの三坂〉の3〈越水開始直後〉参照)。そして、アスファルト舗装面に川表側に向けて雨勾配(規格では1.5%、幅4mで6cm)がつけられていて、さらに川表側の法肩が少々アスファルト面よりすこし高くなっているために水捌けが悪く、二等辺三角形の水溜りができるのです。そして、乾燥するとそこにそのままの形の泥のあとがつくのです。

 なお、右の水害前の写真のとおり(「鬼怒川堤防調査委員会」資料)、上流側のD区間(下流端近くに21k距離標石とポール)は川表側に堤防補強のために腹付してあって、幅3m近く、高さ30cmほどの草地の天端があり、越水は起きていません。

 〈越水の進行〉の9月10日12:05ころの「写真12」のとおり、人物が立っているのがD区間、その向こうが越水しているE区間です。橙円の箇所に開口があるはずですが、見えていません。

 「越水破堤論」のとおりだとすると、もっとも激しく越水していたE区間がまっさきに破堤するはずなのですが、12:52ころに最初に破堤したのはE区間ではなく、F区間なのです。「鬼怒川堤防調査委員会」のような雑なお見立てであれば、すぐ隣なのだからどちらでも構わない、そもそも区別する必要すらないとでもいうのでしょうが、そんなことはありません。

 E区間が激しく越水していたのに対し、真っ先に破堤したF区間の越水ははるかに弱かったのです。

 越水が起きていたことと、この川裏側法面の中下段の開口には、直接的因果関係はないと見るほかありません。(いささか迂遠な関連性はありますが、唯一の直接的な原因と結果の関係ではありません。)そんなことをいうと、根拠なく「越水破堤論」を信奉する人たちは眼を剥くことでしょう。


 しかし、「越水破堤論」には、決定的な反証があるのです。C区間の場合は、法肩から断裂していたのですが、このE区間では、法面の中下段に開口ができているという差異はありますが、C区間でもこのE区間のいずれにおいても、写真のとおり法尻の侵食は起きていないのです。「越水破堤論」は成り立ちません。開口の原因は越流してきた氾濫水ではなく、堤体内部にあると見るべきでしょう。

 「越水破堤論」の短慮ぶりについてさらにいうと、越水していたB区間が破堤しなかったこと、川表側法面や天端はかなり崩壊したが、川裏側法面、とりわけ法尻はほとんど無傷だったことの説明がつかないのです。これこそ「越水破堤論」最大の弱点であり、「鬼怒川堤防調査委員会」委員長代理の清水義彦教授などは、トンチンカンな推測を披露して馬脚をあらわしたのでした(本項目1〈越水破堤論の破綻〉)。

 

 

III-2-iii F区間堤防の破堤

 

 12:50ころ、F区間が破堤しました。

 

 

 これについては、関東地方整備局は対岸の篠山水門のCCTV画像によって確認した、と言っているのですが、下館河川事務所でモニター画面を見ていたが録画はしていないとのことです。動画の録画は13:23から始めたそうで、その間は時々気の向いた時に静止画像を何枚かスクリーンショットし、それだけは保存したそうです。にわかには信じ難い失態です。というのも11:00ころ、たまたま堤防天端を上流方向から下流方向へ走行していた国交省の車両によって三坂の21k付近の越水が発見されていて、おそくともその10分後くらいには近くの鎌庭出張所(名称は移転前の現在の下妻〔しもつま〕市「鎌庭〔かまにわ〕」ですが、すぐ近くの常総市新石下〔しんいしげ〕にあります)に飛んで帰って一報を入れているはずで、そこから連絡を受けたに違いない下館河川事務所で、CCTVのモニター画面をただ眺めていただけというのです。下館河川事務所の仕事ぶりは一事が万事この調子なのです。

 ともかく、12:52:53の静止画像は次のとおりです。左岸21km地点の距離標石とポールを示す「21k」と、「決壊幅約20m」の赤字ふたつは、関東地方整備局による書き込みです。それ以外は引用者の描き込みです。なお、「決壊」とは堤体の一部損傷であり(B区間がこれにあたります。したがって、三坂の「決壊」区間は195m、そのうち「破堤」したのはB区間の30mを除く165mです)、「破堤」が基礎地盤まですべて流失した段階のことです(〈まさかの三坂〉の1〈決壊と破堤〉参照)。関東地方整備局の用語法はおおむね曖昧、ときにデタラメであり、常々困惑させられるのですが、一応ここでは「決壊」ではなく、「破堤」のことと受け取っておきます。

 土木学会のオタク専門家らは、iRICというシミュレーションソフトで氾濫量の模擬計算をするのですが、流入幅と深さというもっとも基本的な初期条件を入力するにあたって、これらのことに無頓着なのです。いずれ、堤防と河道断面は250mおきという粗雑なデータなのですし(250mmとか250cmではありません。途中を全部無視し、とびとびの250メートルです。破堤幅より大きいのです!)、そもそも若宮戸の24.75k(正確には24.63k)での大規模氾濫を完全に無視しているのですから、話にもならないわけです(〈若宮戸の河畔砂丘〉の1〈シミュレーションとは何か〉参照)。

 

 篠山水門、画面に映り込んでいる住宅4・6、遠景の住宅、アグリロードが関東鉄道常総線をまたぐ高架橋の位置関係は次のとおりです。

 

 以上の各地点・目標物を勘案して、関東地方整備局のいう破堤範囲を衛星写真上にプロットすると、次のとおりです。黄実線はCCTVと21kポールを結んだ線、赤実線はCCTVと破堤区間両端を結んだ線です。E区間からF区間にかけての川裏側法面の白線は、さきほどの12:04ころ撮影された開口です。

 これが破堤した範囲だとされる区間はそのまま信用して作図すると、「約20m」は少々鯖読みで、実際は約14mです。(以上については、〈まさかの三坂〉の5〈対岸から撮影された破堤直後の画像〉参照)

 

III-2-iv 地下浸透流によるF区間堤防基礎地盤の盤割

 

 まだまだ高い水位をたもっている洪水は、一方で、地上氾濫流となって堤体や堤内地の表土を一気に洗い流しますが、他方でとりわけ前年までの掘削によってできた高水敷の4mの段差から、堤体直下や堤内地の地盤に甚大な水圧を及ぼします。こうして地下浸透流は、堤体直下や堤内地の各所で揚力を生じますが、地上氾濫流が堤体や堤内地の表土を洗い流したことで、この揚力に対抗する要素は減退・消滅し、各所で盤割を生じます。

 下は、GoogleCrisisResponse (グーグル・クライシス・レスポンス)の9月12日9:01の航空写真です(DSC01502、閲覧方法はreference4B)。D区間とE区間の堤体基礎は完全になくなっています。F区間では川表側=堤内側法面の下の部分は残っていますが、天端から川表側=堤外側法面の下の部分はなくなっています。G区間は上流端は天端から川表側法面にかけてかなり残っていますが、下流側はF区間と同じように川裏側法面下だけが残っています(右図のコバルトの区間区分矢印は、天端の堤内側つまり川裏側法肩に沿って記入してあります)。G区間上流端では、その置き重ねられたもののうち、下層と上層が段々になっています。

 この堤体基礎地盤は基本的には粘性土を何層かに重ね置いたもののようです。つまり、自然地形なのではなくて、河道付け替えにともなって旧河道上に築堤するにあたって、砂地の上に粘性土で地盤を作ったということです。ただし均質で上質のものではなかったようで、前述の仮堤防から本復旧堤防への置き換えの際の土質調査のとおり、砂や礫すらまじっていたようです。

  問題は、とりわけF区間直下の部分で、何が起きたのかです。従来のすべての分析は、このあたり一帯の地表面の侵食は、ことごとく押堀であると(誤った用語では、「落堀」であると)、こともなげに断定するのです。この項目の二分法でいうと、地上氾濫流による侵食だというわけです。

 しかし、地上氾濫流という単一の原因によって、このような複雑な形態を生ずるのはなぜなのか、まったく説明がつかないのです。この堤体直下の線は、地上氾濫流がもっとも激しく、しかも最大の水深で、流入していたのですが、そこにこのF区間のような“入り隅”ができるのは、いささか不可思議です。残存した地盤の辺縁が、このように鋭角になっているのも、不自然です。D区間やE区間は(最初、どのように堤体や基礎地盤の崩壊が始まったにせよ)、地上氾濫流が堤内地へと一気に走り抜けていていて(黄矢印)、このF区間のように基礎地盤がその流れに立ち塞がり、氾濫流の只中に残ったりはしていません。

 となると、写真では水面になっているこの入り隅部分は、地上氾濫流によるのではなく、地下浸透流による盤割であると考えるのが妥当です。もちろん、そう断定するにはいささか根拠が十分ではありませんが、それをいうなら、これが地上氾濫流による押堀(「落堀」)であるとする断定だって、根拠不足の誹りは免れません。

 

 

III-2-v 地下浸透流によるF区間堤防基礎地盤の陥没

 

 洪水の水位低下が進行すると、地下浸透流は流向が逆転し、河道方向へ流出しはじめます。このため、これまで地下からの水圧によって上向きの力が働いていた堤内地や堤体基礎地盤面が、こんどは地下水の圧力低下によってあちこちで陥没します。

 

 この段階については、 III-1-v とあわせて、次ページの〈IV 地下浸透流による高水敷崖面崩壊〉において検討します。堤内・堤体基礎地盤における陥没は、高水敷崖面崩壊と一連の現象であるからです。