若宮戸における河川管理史

3 新河川法の河川区域

24.63kの氾濫地点に設置された仮堤防(2015年12月15日) 

仮堤防の端部は、Ridge1の削り残された丘です。

そこに1947年に延伸された堤防(仮堤防の向こう側)が「山付き」になっていました。

 

Oct., 17, 2021
revised, Nov., 8, 2021

 

 1964(昭和39)年10月の東京オリンピック開催時までは、若宮戸においては砂州(大字若宮戸地先)において砂の採取が大規模におこなわれていたものの、河畔砂丘本体部分(結城〔ゆうき〕郡石下〔いしげ〕町大字若宮戸)での採取はほとんどおこなわれていませんでした。

 この1964年に河川法が改正され、「河川区域」の定義が根本的に転換したことを確認します。

 つづけて次ページで、若宮戸河畔砂丘における「河川区域」指定の基本的過誤を明らかにします。

 


1964(昭和39)年5月16日 国土地理院 MKT643X-C9-11

 

 (前回の)「東京オリンピック」が開催されたのは1964(昭和39)年10月ですが、その5か月前に撮影された航空写真です。

 1961(昭和36)年の写真(前ページ)は増水期の7月9日のものでしたが、これは5月16日でまだ水位が低い時期であり、水面の幅がかなり狭くなっています。

 

 

 左岸の第2クォーターから第3クォーターにかけての寄州( side bar )や、右岸の第1クォーターの寄州に、引っ掻き傷のような直線的な模様が見えます。自然地形ではなく、手当たり次第の砂の掘削です。紫や茶の河道に入り込んでの採掘は、水面下の砂の採取すなわち浚渫です。青は左岸から河道を通り越して右岸まで掘削したように見えます。水面から離れた寄州中央部(赤)でもある程度まで採掘すると河川水が浸透してくるので掘削した部分が黒く写っています。

 

 

 現代のグーグルなどの衛星写真・航空写真だと重機やダンプカーまで写り込むのですが、この写真だとそこまではわかりません。しかし、左岸の寄州での掘削・浚渫のための運搬路として市道東0272号線が使われていた可能性もあります。その場合、ダンプカーを通すためにRidge1にある程度横断的な切り下げをおこなっているかもしれません。「に」地点(前ページ)のかなり広い砂地は、それと一体のものかもしれませんが、これらについては判断材料が足りません。市道東0272号線がRidge2を横断する地点にも樹林の切れ目が見えますが、これは1961年やさらに1947年の写真でも同様でした。2015年の時点やさらに現在もその状態が維持されています。これ以外の搬出路についてはわかりません。

 注目すべきは、寄州ではなく、若宮戸河畔砂丘における掘削、具体的にいうと〝畝 ridge 〟それ自体の切り崩しがおこなわれていたのか否か、おこなわれていたとすればどの程度だったか、ということです。1961年の写真と照合して違いがあるのは、次の3箇所です。

 

 

(1)第2クォーターの市道東0272号線わき、上述の「に」地点が河道側にさらに掘削されています(赤丸)。ここは若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟であるRidge1を直接切り崩しているわけですから、きわめて重大です。一番の注目点です。

(2)第3クォーターの、L24.50kで堤防が60度屈曲点する地点のすぐ脇(緑丸)、すなわちRidge2の主筋とそこから分岐した筋との間です。そこは2015年にL24.63kから氾濫した際に下流側から河畔砂丘を遡上するようにして洪水が押し寄せた地点ですが(別ページ参照)、長方形に掘削されています。堤防を挟んで堤内側でも細長い区画が掘削されています。堤内外の土地は同じ地主の所有地でしょう。

(3)若宮戸河畔砂丘の最北端(上流側、画面右方)で白く砂丘の地肌がでています(橙丸)。ここは迅速測図の図示ではRidge1の外ですが、現地で地形を見るとRidge1の内で、その末端です。

 右の写真は道路を挟んだ北側の鹿島神社境内から南方向を撮影した現地です(2021年10月)。右奥に見えている激特事業による新造堤防(L26.00kの天端高〔設計値〕はY.P.=24.120m)から坂路を降ったところにある住宅の敷地は、まだ標高がかなり高いことがわかります。その住宅敷より一段低い左側(東側)の空き地(鳥居の向こう。次の次の写真参照)は、Y.P.=20.399mです(2000年代初頭、次ページで見るかつら測量による測量値)。

 この場所には1947年の米軍撮影の航空写真にすでに建物が写っていました。1964年の国土地理院の写真は解像度が低いのでまだ建物があるのか、それともいったん取り壊されて整地されているのかはわかりません。

 現在の住宅建築は1947年の写真に写っていた建物の2代目か3代目のものでしょう。右の写真(2020年3月)は堤防から降ってくる坂路の途中からこの住宅と、その先の迅速測図でのRidge1の北端あたりを見たところです。標高差がよくわかります。

 この建物の南側(下流側)を新造堤防から見下ろしたところです(2021年10月)。

 緑のフェンスが堤防から離れるにしたがい奥の方(東側)で段付きになっています。一段低くなっているこの住宅の敷地でも、東側の空き地よりまだ1m以上高いのです。この住宅の敷地がRidge1の最北端とみてよいでしょう。瑣末なことのようですが、のちのち注目すべき地点になります。

 右に竹林が見えます。樹木を伐採後、荒れるに任せてあるのです。

 

 

 これら3箇所を除いて、1964年時点までには若宮戸河畔砂丘の本体の掘削、すなわちこのあと実行されたような大面積を一挙に掘削するような掘削はおこなわれていません。

 それにしても、1947年、1961年、1964年の3枚の航空写真の他に、地上写真とか目撃証言などの具体的材料が欲しいところです。三坂についても同様ですが、若宮戸についての客観的で具体的な判断材料は少ないのです。そのため、体験談の過大評価という由々しき問題が起きることになり、事実確認を混乱させているのです。すなわち、このような「証言」です。

 

 「若宮戸での砂の採取は、東京オリンピックの前におこなわれた。」

 

 この「証言」は、又聞き、それの又聞き、さらに又聞きの又聞きの又聞きも含めて、しばしば聞かれるものであり、疑う余地のない事実とされているようです。(前回の)「東京オリンピック」は、1964(昭和39)年10月に開催されたのですが、それをひとつの機会として、東海道新幹線や首都高速道路をはじめとする建設工事や、オリンピック関連施設とそのほかの建築工事が集中的におこなわれました。そのための砂が若宮戸河畔砂丘から供給されたというのです。

 (前回の)「東京オリンピック」は、まさに「高度経済成長」(1960−73年)のまっただなかでの、社会構造の変化を象徴するできごとでした。2021年に、COVID-19の蔓延状況の中、強行開催された2回目の「東京オリンピック」が、日本社会に些かの高揚感も与えない空疎な催事でしかなかったのとは、くらべものにならない画期的なできごとでした。

 (前回の)「東京オリンピック」の心理的インパクトの大きさゆえに、若宮戸河畔砂丘における砂の採取が、その準備のためのものだったとする勘違いが生じたのかもしれません。

 右の井口隆(いのくち・たかし。防災科学技術研究所職員=当時)のツイートは前ページでも見ましたが、「もしかしたら……かも」という無責任さで、「東京オリンピックの直前」の「自然堤防」(若宮戸河畔砂丘のつもり)の掘削という噂話を流布しています。

 地図がないどころか採掘箇所や程度については確実なことは何も述べていないのに、それとは対照的に「東京オリンピック」という具体的な日時がピンポイントで断定されているのです。事実の提示としてはアンバランスなのですが、この「東京オリンピック」だけが決定的な説得力を発揮し、判断を誤らせるのです。

 


1966(昭和41)年12月28日 建設大臣による河川区域告示

 

 若宮戸河畔砂丘の掘削時期に関して、(前回の)「東京オリンピック」との関係に拘泥する特段の理由はないように思われるかもしれません。「東京オリンピック」の前だろうが後だろうが、本質的差異はないとも言えます。しかし、この1960年代の中葉には、「東京オリンピック」の時期に近接する、重要な画期があったのです。1964(昭和39)年に「河川法」(昭和39年法律第167号、正式名称)が制定され、1896(明治29)年制定の河川法(旧河川法)にかわって、翌1965(昭和40)年4月1日から施行され、これにより、国(建設省)による鬼怒川の「直轄管理」が開始されました。

 形式上は栃木県知事(栃木県内区間)と茨城県知事(茨城県内区間)から建設大臣へと管理主体が変更になったとはいえ、鬼怒川の実質的な管理は、これまでも国がおこななっていたのですから、しばしば吹聴されているような大転換が起きたというわけではありません。それまで無関係だった国が突然鬼怒川の管理一切を任されることになった、逆にいうと、国・建設省=国土交通省は1965年4月1日以前のあらゆることについて何も責任がない、というわけではありません。たとえば鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)の立案から施工の一切は、内務省が取り仕切ったのであり、茨城県庁の出る幕はありませんでした。前ページで見た若宮戸河畔砂丘南部(24.10-24.63k)の築堤も、内務省の設計に基づいて戦後になって建設省が実施したのであり(推定の根拠は前ページの「第4クォーターのRidge1の掘削時期)、これもまた茨城県庁が設計施工したわけではありません。実質的には国の管理が継続するという点ではなんの変更もなかった、というべきです。

 しかし、一見形式的にみえて結果的には重大かつ本質的な変更があったのです。河川区域の意味内容が大きく変わったうえ、指定権限が知事から建設大臣に移りました。河川区域とは、管理権限の及ぶ範囲を定める単なる線引きであるに過ぎず、土地所有を画する境界線ほどの重要性すらない単なる形式だとみなされるかも知れないのですが、そうではありません。河川区域境界線は、国の権限の及ぶ範囲を限定するだけの話だと考えるのは、あまりにも一面的で空疎です。「河川区域」とは、とりもなおさず河川の実質を定めるものです。河川区域内は河川(例:鬼怒川)であるが、河川区域外は河川(例:鬼怒川)ではない、ということです。

 重要なのは、河川法改正によって、「河川区域」の意味内容が従来とは大きく転換したことです。旧河川法が「河川区域」としたのは低水路だけで、堤防は河川付属物として管理の対象となりますが、高水敷は河川区域には含まれません。低水路(低水敷)と堤防敷(堤防の土地区画)は国有地ですが、水路と堤防との間の高水敷は国有地でないのはもちろん、河川区域でもありませんでした。それが新河川法では高水敷も河川区域に含めることに転換しました。左岸堤防の川裏側(堤内側)法尻から、右岸堤防の川裏側(堤内側)法尻までが、途切れることなく全部河川区域となったのです。高水敷は、国有地の場合もあるし民有地の場合もあるのですが、河川区域であるのでたとえば建築物の設置、土砂の採掘などはすべて規制の対象となります。

 堤防がある区間については話は簡単ですが、堤防のない区間については、俄然複雑になります。普通はここで、河川法と河川法施行令の規定が持ち出されて判ったような判らないような抽象論が始まることになります。しかし端的に言って、法律と政令の規定から若宮戸河畔砂丘における河川区域の範囲を演繹的に導出することはできません。法律と政令を無視すべきだというのではありませんが、法律と政令の規定内容をいくら眺めたところで、河川区域をどこまでとすべきかは判りません。かつて国(建設省)が定めた河川区域が妥当だったか否かについて、法律と政令の文言だけ見て判断するわけにはいきません。若宮戸河畔砂丘における河川区域の設定は、若宮戸河畔砂丘の地形構造を把握したうえではじめて可能になります。根本的には全地点の標高ですが、土質や植生も考慮しなければなりません。当然、計画高水位が前提条件になります。

 河川法施行(1965〔昭和40〕年4月1日)に遅れることおよそ1年9か月、建設大臣は1966(昭和41)年12月28日になって鬼怒川の河川区域を告示しました。河川区域は法施行と同時に、同時が無理だとしても施行後ただちに、告示してしかるべきものです。河川の範囲が定まらなければ、河川管理などできるはずはないのです。河川区域を定めていなかったということは、その間は河川の直轄管理をしていなかった、ということに他なりません。河川法制定は1964(昭和39)年であり、法制定の翌々年の年末にやっと河川区域を告示したというのですから、異常事態です。河川法の法案は建設省で起草したのでしょうから、きたるべき新法のもとでの河川区域の設定については、あらかじめ準備するのに何年間もの余裕があったはずです。それを法制定の翌々年の年末の「仕事納め」の日に告示するまで数年の空白があったということです。じつに驚くべきことです。

 この遅滞ぶりは一般論としても論外ですが、ここ若宮戸河畔砂丘についていうと、まさにこの時期こそが寄州の掘削から河畔砂丘本体の掘削に重点が移り、若宮戸河畔砂丘最大の畝であるRidge1の、第2クォーターと第3クォーターのほぼすべてと、第1クォーターの東側3分の2が消滅しようとする時期だったのです。この時点での1年とか2年、それどころか数年もの遅滞は、重大な結果につながるものでした。若宮戸河畔砂丘本体の掘削という事実行為が先行し、河川区域の指定という法的行為が遅延したのです。それどころか事実行為に合わせて法の執行を意図的に遅らせた可能性も否定できないのです。

 河川区域を告示した図です。赤実線が河川区域境界線です。左岸(東岸・画面下方)の赤実線と右岸の赤実線との間が河川区域です。

 


1966年大臣告示による河川区域の当否の検討

 

 大臣告示による河川区域と2つの対案

 1966(昭和41)年に告示されたこの河川区域は、まったく不適切です。詳細は次ページで検討しますが、なによりも当然考慮すべき計画高水位を完全に無視しています。始点から終点までの全部の区間で、河川区域境界線と低水路との間に計画高水位を超える地形ないし構造物が連続していなければならない、もしくは河川区域境界線が計画高水位を越えたところに連続的に引かれていなければならないのですが、そうはなっていません。これでは洪水のたびに氾濫するのは当然です。現在見ることのできる文書記録によると、2001(平成13)年と2002(平成14)年に中程度の氾濫がありました。そして、必然的に起きたのが激甚な2015(平成27)年の大氾濫です。

 ソーラー発電所を設置するために、Ridge2を大規模に掘削したことが若宮戸での氾濫の唯一の原因だったという認識が一般化しています。25.35k地点付近でのRidge2の掘削がなかった場合には、その地点からの氾濫量はかなり少なくなりますが、ゼロにはなりません(どの程度かは誰も推測していません。初期条件の設定が難しく想定が難しいこともありますが、そもそもそういう発想がないのです)。さらにそれとは無関係に24.63k(誤って24.75kとされています)での氾濫が起きています。1966年の大臣告示の誤りによってRidge1が破壊された時点で、2015年9月の大氾濫は不可避のものだったのです。

 この1966年の告示(赤実線)に代えて、建設大臣は現行河川法施行にあたりいかなる線引きをすべきだったかを提示しておきます。すなわち、1965(昭和40)年の河川法施行の時点で、若宮戸河畔砂丘のうち堤防がなかった区間、すなわち24.63kから26.00k付近までの河川区域境界線は、Ridge1の東麓に引くべきだったのです。これが当 www.naturalright.org の主張です。

 茄子紺実線が1952(昭和27)年に24.63kまで延伸された新造堤防、茄子紺破線が若宮戸河畔砂丘外の既設の堤防、そして赤挟み緑線が新河川法の施行の時点で引くべきだった河川区域境界線です。「は」は、迅速測図における最高地点(T.P.=32.25m)、「ほ」と「と」が、Ridge1の残った孤丘です。

 

 

 これからあと4ページほど費やして、どうして1966年の大臣告示の線では不適当で、Ridge1の東麓でなければならないかについて述べます。すでに別ページでもある程度検討しましたが重複を厭わず記述することにします。図を改善し、もうひとつの案を含めた3つの方針の当否について一括して検討します。

 もうひとつの案とは、鬼怒川水害訴訟(水戸地方裁判所平成31年(ワ)第100号)において原告代理人が主張しているものです。原告代理人は、「砂丘林を河川区域に指定すべきだった」と主張しています。「砂丘林」という呼称は不適切ですから「河畔砂丘 river bank dune 」と正しく呼称すべきですが、それはさておくとしても、地図で示されていないので具体的にどこに河川区域境界線を引くべきだと言っているのか判明ではありません。また、それをいつ、あるいはいつまでに引くべきだったのかも具体的に示されていません。2021年8月18日の「原告ら準備書面(9)」の12、13ページと説明図(図4)は次のとおりです。(赤アンダーラインは引用者。ウェブサイト「 call4 」の「鬼怒川大水害訴訟」ページ https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000053 内の「訴訟資料」タグに訴状・準備書面等が掲載されています。)

 


  精細な平面図上に明示すべきなのにそうせず、不適切なことに国交省のポンチ絵をわざわざ使っています。この下手なポンチ絵に示されている1966年告示の「河川区域」の赤線はずれているうえ、例によって「いわゆる自然堤防」などとおかしな記述があります。しかも、図の範囲は第2クォーターだけなので、上流側の第1クォーターと下流側の第3クォーターについてはどうすべきだったというのかまったくわかりません。

 さらにいただけないのは、「堤防に隣接している土地」を「いわゆる山付堤」と言っていることです。「山」に接続している「堤防」が「山付堤」であるのに、その「山」の方を「山付堤」だというわけですから、支離滅裂で何のことかわかりません。これは、「河川法令研究会」と称する国交省の役人らが「編著」している『よくわかる河川法』(第三次改訂版、2018〔平成30〕年、ぎょうせい)に引き摺られているのでしょう。能動的にとり付いている「堤防」のほうではなく、受動的にとり付かれている「山」のほうを「通常『山付堤』と呼ばれるもの」としている(21ページ)のですから、この官許解説本を真に受けたりすれば混乱は不可避です。「自然堤防」もそうですが、「いわゆる」だとか「通常」だとか言ったところで、全然別の意味だったり、ふたつしかないものを取り違えたりしてよいはずがありません。このような業界の隠語、しかもそれを誤用する不正確な用語をわざわざ使ったりすれば、一般の人はもちろん裁判所の担当判事や事務官に事実と主張を理解してもらうことは不可能でしょう。それどころか、言葉を正確に使うことに無頓着であっては、他人を説得するどころか自分自身が地形の具体的分析や法令の解釈に失敗することになるのです。

 このような次第で具体的に示されていないのですが、どうやら、1972(昭和47)年ころまでにRidge1の掘削が完了したそのあとに残されたRidge2の東麓に線引きすべきだった、と主張しているようです。すなわち、上流側は26.00k付近で鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)の左岸堤防に接続し、そこから半身になった第1クォーターのRidge1の東麓、第2クォーターから第3クォーターのRidge2の東麓を経て、水管橋直下24.50k付近の堤防の60度屈曲点に接続する線です。

 これを大臣告示図と、もう一枚1972(昭和47)年の航空写真(次々ページで検討)に描き入れたものを示します(赤挟み黄線)。

 

 

 以上の3つの河川区域境界線(ひとつは現実のもの、他は主張されているだけのもの)を次のとおり呼称することにします。

1 1966年の建設大臣告示によるものは、第3クォーターの24.75k前後ではRidge3の西麓だったり、さらには市道0280号線に沿って河道に垂直だったりと地形にほぼ無頓着で支離滅裂ですが、一応第2クォーターから第3クォーターにかけてはRidge3の東麓に引かれています。「大臣告示」ないし「Ridge3型」ということにします。

2 原告準備書面から推測したものは、Ridge2の東麓に引くものなので、「Ridge2型」とします。

3 当方が新河川法施行時に設定すべきであったと主張するのは、Ridge1の東麓に引くものなので、「Ridge1型」とします。

 

 

 無堤区間における河川区域設定という難問

 法律と政令の規定から若宮戸河畔砂丘における河川区域の範囲を演繹的に導出することはできません。法律と政令の規定をいくら眺めたところで、河川区域をどこまでとすべきかは判りません。1964(昭和39)年の河川法改正により、低水敷だけが河川区域であり、それと堤防など附属施設だけを県知事が告示していた時代が終わり、それまで河川区域ではなかった土地、河川を構成する要素とはみなされていなかった土地、法的には河川とはみなされていなかった土地が、あらたに河川区域として告示されることになったのです。原則が根本的に転換したのです。

 ところが、鬼怒川水害をめぐる議論においては、この点が理解されないまま徒に時間だけが経過しているのが現実なのです。

 2016(平成28)年に水害の被害者団体から1966年大臣告示による若宮戸河畔砂丘における河川区域について問われた国土交通省(霞ヶ関の本省)の役人が、「茨城県知事が指定し告示した河川区域を踏襲したものである」と回答したとのことです。旧河川法と新河川法とでは、「河川区域」の意味がまったく異なる、原則がまったく異なる、要するに定義が異なるのですから、「踏襲」することはおよそあり得ないのです。堤防が設置された区間であろうが、無堤区間であろうが、意味・原則・定義が違うのだから、踏襲するも踏襲しないもなく、まったく新たに決定しなければならないのです。そんなことは、法改正の趣旨を考えれば明らかであるし、なにより茨城県の『県報』で告示されていた旧河川法時代の告示の付図(別ページ参照)と、1966年の大臣告示の付図を見くらべれば、一目瞭然なのです。

 霞ヶ関の素人官僚の出鱈目な説明は、そもそも50年ほど前の新河川法施行にあたっての「河川区域」告示の出鱈目に起因するのです。法律や政令・省令に、無堤区間における「河川区域」設定の原理原則が明記されているわけではありません。とりわけ河畔砂丘となると、鬼怒川の茨城県内区間や、埼玉県の利根川水系の旧河道沿いにはよくある(あった)地形ではあるものの、全国的にも比較的珍しい地形であるせいか大学の土木工学科でも教えないようで、関東地方整備局(当時は関東地方建設局)/下館河川事務所(当時は下館工事事務所)が何の定見もないまま出鱈目に線を引いたものが、霞ヶ関の建設省河川局の形式的チェックを受けただけで、訂正・修正・是正もされずそのまま建設大臣名で告示されてしまったのです。

 新河川法施行時点で若宮戸河畔砂丘における河川区域決定にあたり、慮すべきであった事項は多岐にわたります。堤防を築造するとなれば、第一に準拠すべきは「計画築堤高」でしょう。しかし、河畔砂丘の場合はどうなのかは一概に言えません。土木工事によって築造する堤防と天然自然の河畔砂丘の〝畝〟を同一視するのはいかがなものでしょう。人工の堤防だって天端幅、法面の形状と傾斜角、護岸の有無、浸透防止策の内容等によって区々ですが、自然地形は一層複雑です。河畔砂丘の場合、その形状、標高のほか植生によっても違いが生じます。植生のない砂が剥き出しの場合、マツ・スギなどの針葉樹林の場合、クヌギなどの広葉樹林の場合では、水をかぶった時の耐性は大きく異なります。若宮戸河畔砂丘の多くの区域で燃料用に植林されたクヌギは根が複雑に絡み合い地盤の土を支える力が強いのですが、全域がクヌギ林というわけでもありません。いずれにしても、河畔砂丘の場合は、堤防の場合のように「計画高水位」に1.5m(鬼怒川の場合)の「余裕高」を加えた「計画築堤高」で単純に判断することは不可能でしょう。 ところが水害後の論調を見ると、堤防と河畔砂丘の違いなどまったく度外視して、洪水位と境界線の河道側の砂丘の標高を比較し、氾濫を防ぐ標高があったとかなかったとか議論するのが当たり前になっています。諸条件すべてを勘案することはできないので、当面河川の水位と若宮戸河畔砂丘の標高データ、ならびに部分的に植生などの諸条件から検討することにするとしても、その水位と標高についてさえ無堤区間では根本原則が定まっているわけではありません。

 しかし当項目では、若宮戸河畔砂丘の洪水抑止力を評価するにあたっては、複雑な要因を度外視して、河畔砂丘の各地点の標高を見ることにします。「複雑な要因を度外視」し、単純素朴に洪水の水位と境界線の河道側の標高とを比べるのは駄目だと言ったばかりなのに随分おかしな話ですが、Ridge3型とRidge2型については、それで足りるのです。すなわち、あらかじめ結論を先取りしてしまうと、Ridge3型にあっては、河川区域境界線ならびにその河道側のほとんどの地点において、計画築堤高どころか計画高水位や実際の洪水の水位を大きく下回っていましたし、Ridge2型にあっても、河川区域境界線自体ならびにその河道側の少なからぬ地点において、計画築堤高どころか計画高水位や実際の洪水の水位を下回っています。ですから河畔砂丘の特性を考えるまでもなく、洪水をおしとどめる働きをもつかどうかは、容易に判別できるのです。河川区域境界線ないしは河道と河川区域境界線の間の土地が計画高水位に遠く及ばず、実際の洪水時の水位を大きく下回るとあっては、それ以上の複雑な諸条件については検討するまでもなく、そして堤防との違いについて考慮するまでもなく、失当であると断定できることになります。裁判所がよく使う、「その余のことについては判断するまでもない」、という論証方法です。

 

 寿限無寿限無「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、

 堤防に隣接する土地又は当該土地若しくは堤防の対岸に存する土地

 具体的に若宮戸河畔砂丘の標高を見る前に、河川法(昭和39年7月10日法律第167号)および河川法施行令(昭和40年2月11日政令第14号)の規定を一瞥しておきましょう。

 まず河川法第六条第一項です(第二項以下略)。

 

(河川区域)

第六条  この法律において「河川区域」とは、次の各号に掲げる区域をいう。

一  河川の流水が継続して存する土地及び地形、草木の生茂の状況その他その状況が河川の流水が継続して存する土地に類する状況を呈している土地(河岸の土地を含み、洪水その他異常な天然現象により一時的に当該状況を呈している土地を除く。)の区域

二  河川管理施設の敷地である土地の区域

三  堤外の土地(政令で定めるこれに類する土地及び政令で定める遊水地を含む。第三項において同じ。)の区域のうち、第一号に掲げる区域と一体として管理を行う必要があるものとして河川管理者が指定した区域

 

 ついで河川法施行令第一条第一項です(第二項略)。 

 

(堤外の土地に類する土地等)

第一条  河川法 (以下「法」という。)第六条第一項第三号 の政令で定める堤外の土地に類する土地は、次の各号に掲げる土地とする。

一  地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地又は当該土地若しくは堤防の対岸に存する土地

二  前号の土地と法第六条第一項第一号 の土地との間に存する土地

三  ダムによつて貯留される流水の最高の水位における水面が土地に接する線によつて囲まれる地域内の土地 

 

 河川法第六条第一項の第一号は河道(低水敷)のことで、旧河川法でも河川区域でした。同様に第二号は堤防敷(堤防のある土地)などのことで(河川管理施設は河川法第三条第二項で規定)、これも旧河川法でも河川区域でした。問題は次の第三号です。河川法の条文だとよくわからないのですが、高水敷はこの河川法第六条第一項の第三号に該当し、河川区域とされることになるとのことです。高水敷は、旧河川法では河川区域ではなかったのが、新たに河川区域とされることになったわけです。

 高水敷以外に河川法第六条第一項の第三号に該当するものを規定するのが施行令第一条第一項第一号ですが、複雑な規定です。ここで、先述の『よくわかる河川法』はあれこれ説明を加え不出来な図まで示すのですが、肝心の「山付堤」について支離滅裂で間違いだらけの説明をしているので、読むと余計に意味がわからなくなります。政令の条文を解読すると、次の3つです。「何々のうち、何々の土地、又は何々、若しくは何々云々」などと錯綜した言い回し(これが法律用語の「公式」なのだそうです〔吉田利宏『法律を読む技術・学ぶ技術』2004年、ダイヤモンド社、61ページ〕をせず、最初から個別に列挙すればよいのです、次のように。それでもわかりにくいのですが。(あ)(い)(う)と符号を付します。

 

(あ)地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち「堤防に隣接する土地」

 「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」はそれだけで河川区域になるわけではなく、「堤防に隣接する」場合に河川区域として指定する、というのです。隣接する防(これが「山付き」)の内側法尻に河川区域境界線が引かれているわけですから、それを「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」(これが「山付き堤」が接続する「山」)のどこかを通る河川区域境界線に連続させることができるということです。

 「山」(=「丘陵地」)の方を「山付き」と言ったりすると、そこに隣接する防と区別がつかず、混乱するどころかまるで出鱈目な話になるのですから、「いわゆる」だとか「通常」だとかの言い訳をつけて使い続けることは、やめるべきです。

 『よくわかる河川法』では「丘陵地」と言っていますが、いささか雑な説明です。「丘陵地」といってもいろいろあるのですから、きちんと説明すべきでしょう。 鬼怒川の場合は河畔砂丘と更新世段丘(いわゆる洪積台地)がこれに該当するはずです(「はず」とした理由は次ページで詳述します)。もちろん自然堤防は該当しませんが、これまで大半の報道・分析・主張においては河畔砂丘を自然堤防と誤称するので、「山付き堤」の取り違えも加わって話が落語の「蒟蒻問答」になってしまうのです。

 

(い)「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち、《「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち「堤防に隣接する土地」の「対岸に存する土地」

 「当該土地」とは、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地」すなわち、上の(あ)ですしたがって、2つ目は(あ)の対岸の土地です。すなわち、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち、〔対岸の〕「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち〔対岸の〕「堤防に隣接する土地」対岸〔つまり対岸の対岸であるこちら岸〕に存する土地」です。

 

(う)地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち、「堤防の対岸に存する土地」

 長々とした文のなかに紛れ込んでいるのでややこしいのですが、3つ目を抜き出すと、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち、〔対岸の〕堤防の対岸〔つまり対岸の対岸であるこちら岸〕に存する土地」です。

 

 つづいて施行令第一条第一項第二号です。「法第六条第一項第一号 の土地」とは低水路(低水敷)のことです。上の第一号の(あ)と低水路の間の土地、(い)と低水路の間の土地、(う)と低水路の間の土地、この3つです。先に、低水路と堤防敷との間の高水敷が河川区域に繰り入れられたのと同趣旨です。

 それにしても(い)と(う)は難解です。「『よくわかる河川法』は、「これらの土地は自然河岸のままであっても、堤防としての機能を果たしているものといえ、この部分を規制してその効用が妨げられないようにする必要があります」と、意味不明の世迷言を並べています。おそらく、堤防が此岸にしかない場合とか、此岸には山付堤が取り付いている「山」としての河畔砂丘や更新世段丘があるが彼岸には堤防も何もないという場合には、彼岸河川区域境界線を低水路の縁に引くことになり、此岸は新河川法の時代の河川区域になっているのに、彼岸は旧河川法の時代の河川区域のようになってしまう、そういうチグハグを回避するために、彼岸は「自然河岸のままであっても」「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」があることにしてしまう、すなわち、あたかも「堤防としての機能を果たしているものといえ」ることにしてしまう( as if, als ob )、ということです。よくいえば「みなし」でしょうが、有り体にいえば、仮構、ありもしない作り話です。「河川法令研究会」を名乗る国土交通省河川局の職員たちは、じつのところ政令の規定の意味がわかっていないようなのですが、わからないからといって正直にそう書くわけにもいかず、自分でも納得できないまま平気で出鱈目を書いているのです。それを読んでいる官僚や法曹も、自分には理解できないとは間違っても白状するわけにもいかないので、わかったふりをしているのでしょう。

 先述の「山付堤」の誤用もそうですが、この『よくわかる河川法』は、中学生が読んだとしてもおかしいと思うような記述が目立つ書き物なのですが、いまや大成出版社の『逐条解説 河川法解説』が品切れとなっていて古書にも法外な値がついているのをいいことに、ちゃっかりと基本文献として通用しているのですから困ったものです。

 その『逐条解説 河川法解説』の来歴を辿ると、新河川法制定直後の1966(昭和41)年に出版された『逐条 河川法』、そしてそれを継承する『河川法逐条解説』に至ります。とりあえず、建設省河川法研究会編著・全国加除法令出版株式会社発行の『河川法逐条解説』(第7版、1985〔昭和60〕年)を覗いて見ることにします。「第三号の区域」についての説明は次のとおりです(47−48ページ)。

 

 丘陵等が河川に迫って、その一部の土地が堤防と同様の効用を有している場合において、その土地が、現実に、堤防に隣接して一連のものとして効用を果たし、又はこれらの対岸にあって共に堤防の効用を果たしている場合には、このような土地及びこれらと河状を呈する土地との間にある土地は、洪水のはん濫を防止し、又は洪水を疎通させる役目を果たすことになるので、河川区域として管理することができるものとしたのである。

 

 「山」が「現実に、堤防に隣接して一連のものとして効用を果たし〔……〕ている場合には」、それを「第三号の区域」に指定するというのです。なお、「山」の方を「山付堤」だとする出鱈目な説明はありません。

 そして「対岸」問題です。『よくわかる河川法』が「これらの土地は自然河岸のままであっても、堤防としての機能を果たしているものといえ」ると、仮定をいつのまにか現実に掏り替えるような、根拠不明の作り話を主張するのとは異なり、あくまで「現実に」「効用を果たしている場合」にそれを「第三号の区域」に指定するというのです。現実に効用を果たしていないものについてまで、まるで果たしているかのようにみなして「第三号の区域」に指定することなどありえないわけです。当然の条文解釈です。

 以上のとおり、『よくわかる河川法』は、言葉を間違って使ったり、法律・政令のどこにも書いていないこと、しかも意味不明のことを捏造して、“よくわかる”などと吹聴しているのです。そんなものにもとづいて議論するのはやめるべきでしょう。

 

 地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地又は当該土地若しくは堤防の対岸に存する土地」の抽象性

 一応条文を見ましたから、実際例ではどうなるかを検討します。若宮戸河畔砂丘について条文を当て嵌めるとどうなるでしょうか。

 河川法改正(1964年)の時点の若宮戸河畔砂丘は、河川法施行令第一条第一項にいう「三号地」のうち、このページで(あ)とした「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」に該当します。すなわち「山」としての若宮戸河畔砂丘に、上流側では26.00k付近で鎌庭捷水路の堤防がRidge1の北端に取り付き(ただし次ページて見るとおり「山付き堤」としては不十分な点があった可能性があります。その場合には補修の必要がありました)、下流側では24.63k付近で1952(昭和27)年に延伸された堤防がRidge1に「山付き堤」として取り付いています。そこまではよいのですが、その上流端と下流端の2点を結んで河川区域境界線を引く段になると、どこにどうやって引くべきなのかは単純ではありません。これが堤防であれば一本の線として弁別できる堤内側法尻に引けばいいわけですから、選択の余地はなく一義的に決まります(それでも法尻が曖昧な場合もありますが)。しかしひろがりのある地形である河畔砂丘や更新世段丘の場合、どこに線引きすべきかを、法律・政令の条文から演繹的に導出できるわけではありません。

 さらに若宮戸河畔砂丘は、(う)とした堤防の対岸に存する土地」にも該当するのです。省略しないで言えば、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち堤防の対岸に存する土地」ですかつてそんなことを言った人はいませんが、政令の規定上はそう言ってもよいはずです。仮に若宮戸河畔砂丘に山付堤が取り付いていなかった場合には(あ)ではないことになりますが、対岸(右岸)には堤防があるので、(う)として「三号地」になります。(次ページでの検討結果を今言ってしまうと、1966年の大臣告示においては、若宮戸河畔砂丘は(あ)としての「三号地」ではなく、一部区間を除いてこの(う)として「三号地」とされていた可能性があるのです。(あ)でなかったことはほぼ確実ですが、本当に(う)としていたかどうかは、もはや誰にもわかりません。)

 (う)として「三号地」の場合にも、どこに線引きすべきかが法律・政令の条文から演繹的に導出できるわけではありません。

 

 河川区域境界線の2つの様態

 河川区域境界線には2つの様態があります。ひとつは、河川区域境界線の河道側に計画高水位までの洪水を押しとどめる人工物または自然地形があるものです。もうひとつは、河道からやってくる計画高水位までの洪水が到達する地点が河川区域の外縁になっているものです。(なお、堤防の「余裕高」も含むものとします。)

 下は、ある地方整備局の広報資料中の、河川法第六条第一項にいう「一号地」「二号地」「三号地」についての説明図です(近畿地方整備局高田河川国道事務所、https://www.hrr.mlit.go.jp/takada/river/senyou/pdf/link.pdf)。

 

 

 

 上の近畿地方整備局の図で言うと(いずれも上流側から下流側を見ているものとみます。つまり図の左右岸がそのまま左岸・右岸となります。アラビア数字はもとの漢数字に戻します)、上段の図の左岸・右岸の堤内側法尻が河川区域境界線ですが、いずれも計画高水位より標高は低くなります。下段右の図の左岸も同様です。要するに河道との間に計画高水位より標高の高い人工物としての堤防が二号地として存在し、河川区域境界線の標高は計画高水位より低いということです。これを仮にアルファ型とします(数字や仮名だと、実際の条文の記号のように見えて紛らわしいので、こう呼びます)。

(堤防が計画断面〔天端高・天端幅・法面勾配〕を満たしていない場合、つまり暫定堤や暫々堤の時はどうなのだということになりますが、その場合でもあたかも計画断面を満たす堤防があるかの如く〔 as if, als ob 〕看做すということのようです。そうでもしないと河川区域境界線は引けないということです。おかしな話ですが、これが河川法の運用実態です。)

 これに対して、下段左図の右岸は要するに掘り込み式堤防であり、二号地である護岸の縁が河川区域境界線になるようで(どのくらいの幅をとるのかは不明ですが)、この場合には河川区域境界線の標高は計画高水位より高くなります。下段右図では、右岸は計画高水位に余裕高を加えた地点までが三号地になっています(左岸堤防の天端高との関係は不明ですが)。河川区域境界線は同様に計画高水位より高くなっています。これをベータ型とします。

 ただし、これで全ての場合を網羅しているかどうかは別の話です。たとえばアルファ型で人工物としての堤防でなく、何らかの自然物がある場合もありうるでしょう。ベータ型で右岸の「山」がこの図のように大きなものでなく、余裕高を加えた計画高水位に近いものである場合もありうるでしょう。そうなると、ベータ型とすることはできず、アルファ型すなわち自然物により計画高水位までの洪水を防ぐものとしなければならないことになります。ただし、その自然物は河川法第六条第一項にいう「河川管理施設」としての「二号地」とはみなせないわけです。


 河川法と施行令についての抽象論はここまでにして、若宮戸河畔砂丘について具体的に適用するとどうなるかの検討に入ります。このまま続けたいところですが、長くなりましたので、ページを改めます。