若宮戸における河川管理史

2 河畔砂丘南部の掘削と水害

 

Sept., 23, 2021

 

若宮戸河畔砂丘の4つの Ridge と4区域

 

 これから近代における若宮戸河畔砂丘の人為的改変、具体的には森林伐採と砂の採取のための砂丘掘削、端的にいえばその全面的破壊の様子を通覧します。便宜的に、縦断方向をいくつかの区画に区分し、さらに横断方向に特徴的な地形を示したうえで、分析することにします。

 迅速測図から読み取った若宮戸河畔砂丘の範囲は、左岸のおおむね26.00kから24.00kまでです。下図の黄線は河道の中心線に利根川への合流点を起点とする距離を記し、そこから引いた垂線上に設置された左右両岸の距離標石を結んだものです。その黄線を仮に河畔砂丘の東側外縁まで延長し、縦断方向の約2kmを約500mごとの4つの領域に区分します。上流から順に26.00kから25.50kを〝第1クォーター〟、25.50kから25.0kを〝第2クォーター〟、25.00kから24.50kを〝第3クォーター〟、24.50kから24.00kを〝第4クォーター〟とします。もちろん、キッパリと区分できるわけではなく、大体の傾向です。

 そして、迅速測図から読み取ったうえで歪みを補正した〝畝〟が、河道に並行に4列並んでいます(前ページ参照)。緑が最大の第1の〝畝〟で、以下黄の第2の〝畝〟、青の第3の〝畝〟、紫の第4の〝畝〟と順に規模が小さくなります。定まった用語はないようで、〝尾根〟あるいは〝峰〟というところですが、それだとかなり大規模なものを想像してしまうので、〝畝〟あたりでちょうどよいと思います。以下では、それぞれRidge1、Ridge2、Ridge3、Ridge4と呼称します。

 

 

 そのうえで、1952(昭和27)年に第4クォーターに築造された堤防、河畔砂丘内の常総市道のうち3つ、1966(昭和41)年に建設大臣が告示した河川区域境界線を記します。市道東0272号線は、河道近くで90度屈曲し26.00k付近まで続くのですが、河道に垂直の部分のみ記します。

 「いろは」記号は重要地点を示したものですが、2、3摘記しておきます。「は」は、迅速測図にあった三角点、つまりRidge1のたぶん最高標高地点、すなわち若宮戸河畔砂丘の最高標高(おそらくT.P.=32.25m、ということはY.P.=33.09m)です。現在そのあたりに、Ridge1の残丘があります。同様に「ほ」と「と」もRidge1の残丘ですが、この2箇所は「は」と異なりかつての標高をそのまま保っています。国交省の測量結果には敢えてその数値が記されていないのですが、「と」はそこに取り付いている堤防のY.P.=22.453mよりかなり高く、「ほ」にいたってはY.P.=27m以上あります。それというのもそこが墓地だったために、さすがに掘り崩して砂を売り飛ばすのが躊躇われたようです。もっとも「宗教心」からではなく、共同墓地ゆえの土地所有ないし占有関係の複雑さによるものかも知れません。現在でも、道路や鉄道が墓地を回避しそのすぐ脇をかすめているのをしばしば経験するのですが、これも同じ理由によるのでしょう。「ち」は、このあと注目することにな十一面観音堂です。ここも「宗教施設」だったために伽藍は掘削されることなく保存され、それにより2015年9月10日の氾濫の際にも堂宇は浸水を免れることになります。

 以下、各時期の航空写真・衛星写真にこれらの要素を重ね合わせます。背景画像の色調によっては読み取りにくくなるのですが、その都度色や記入位置を調整するとかえって混乱するので、同じ色調で重ね合わせることにします。ここでの背景写真例は、背景が黒一色で記号・文字が目立つ1961(昭和36)年のものですが、水管橋はまだありません。同様に各時期の写真により、描き込み内容が実物と一致しないことがあり、とくに砂丘の〝畝〟の存否・形状は激変しているのでご注意ください。

 

 

 ここから航空写真・衛星写真を見ていくことにします。同じ重ね合わせ画像を基準点にするので、垂直撮影のもの(衛星写真の場合は斜めに撮影した画像を補正しているものも含む)に限定します。この地域のもっとも古い航空写真は、アジア・太平洋戦争後のものです。それ以前にも他の地域では大日本帝国陸軍が撮影した航空写真がありますが、大都市圏などに限られ、茨城県は南部の一部地域だけで鬼怒川流域の写真はありません。

 最近のものはGoogleなどの衛星写真、航空写真を利用します。

 現存する航空写真は、国土地理院のウェブサイトで閲覧・ダウンロードできます。国土地理院(https://www.gsi.go.jp/tizu-kutyu.html)の「地図・空中写真閲覧サービス」(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)で目的地を拡大表示し、時期、種類等を特定して検索すると、一覧表と撮影点が表示されます。

 ウェブサイト「今昔マップ」(https://ktgis.net/kjmapw/index.html)で、各種地図を表示中に任意の地点をクリックするとリンクが現れ、国土地理院の個々の写真に直接アクセスできるのでたいへん便利です。

 グーグルは、MacOSあるいはWindowsの「GoogleEarth Pro」で2010年代以降の衛星写真・航空写真写真を閲覧できます。

 

 これから見る米軍や国土地理院の航空写真は、同緯度で(つまり東西方向に)飛行しながら、連続的に地表面を垂直撮影します。こうして得られた隣接する画像を「立体視」して地形図を作成するのです。すなわち、同一被写体を異なった方向から写しこんでいますから、となりあった2枚の写真の立体視により地表面の起伏も読み取ることができるのです。

 右は、国土地理院(茨城県つくば市)に展示されている立体図化機です。


1947(昭和22)年10月26日 アメリカ合州国軍 USA-R388-101

 

 この地域のもっとも古い航空写真は、アジア・太平洋戦争後に占領軍のアメリカ合州国軍が日本全土を撮影したもので、驚くほど精細な画像です。自国の全国土の撮影すらできなかった敗戦国の大日本帝国と、占領後ただちに日本全土を撮影してしまったアメリカ合州国の力量差をまざまざと見せつけるものです。

 

 

 河道形状の変更

 鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ。1928〔昭和3〕年2月着工、1935〔昭和10〕年3月通水))の開削によって、若宮戸河畔砂丘の上流部(北側)は河道のカーブ内側から外側に転換し、堆積ではなく侵食力が作用するようになります。左岸の寄州( side bar )は消退し、逆に右岸側に形成されるようになっています。第二クォーター以降、すなわち中間部から下流部は、カーブ内側のままなので広大な寄州が存在します。

 迅速測図では二葉の継ぎ目より左側(下流側)には砂州が描かれていませんでした。存在しなかったのか、それとも描画しなかったのか、そのいずれであるかは明確にはわかりませんが、ここにもどうやらこの二葉での描画法に違いがあり、下流側の地図は砂州を省略してあるようです。というのも、明治期に存在しなかった砂州がアジア・太平洋戦争後の地図では大規模なものとして存在することについては、そう解釈するのが自然だと思うからです。増水期と渇水期では砂州の見え方も大きくことなるわけですから、「迅速」図としての測量時期の差異もあり、かならずしも同一の描画法で示されないこともありうるように思われるのです。

 

 樹林の更新

 河畔砂丘の内部に注目すると、地点による植生の差異が目立ちます。河畔砂丘の東側(画面下方)の自然堤防地帯に広がる耕地(主に畑、一部稲田)の四角の区切りと同様の四角い区画があります。土地所有の境界ですが、区画により状況が区々です。樹高の高い部分と樹高が低い部分が接すると、この時刻だと南からの日射により北縁に黒い影ができています。このあと見る1960年代後半から70年代のように、樹木が完全に伐採されて白い砂地が露出しているところはなさそうです。一見裸地になっているように見えるところもありますが、次の1961年の地図では周囲と同じ樹林になっています。それを含めて樹高の低そうな区画は、いったん樹木を伐採したあとすかさず苗木を植えたところなのでしょう。迅速測図では、若宮戸河畔砂丘には松の樹林が広がっていました。現在でも鬼怒慰霊塔(へ)の周囲などは松林のままですが、それ以外の地点は燃料用にクヌギを植林し一定期間ごとに伐採と植林を繰り返していたものと思われます。

 

 第1クォーターでの耕地化

 すでに25.75k地点で、Ridge1 の掘削がおこなわれています。破線で示したT.P.=30mの等高線(前ページ参照)のとおり、かなり高い〝畝〟があるので、この程度の掘削であれば、氾濫のおそれはないと見做していたのかもしれません。本当の理由・動機はわかりませんが、いずれにせよこれ以降は第1クォーターでは河道側からの掘削はおこなわれなかったようです。

 

 第4クォーターの大規模な掘削

 大規模で標高の高いRidgeが聳える第1クォーターとはうってかわり、第4クォーターは相対的に低くて小規模の複数の Ridge が並んでいたのですが、どういうわけか軒並み樹林が伐採されています。垂直写真なので地面の起伏はわかりにくいのですが(上述の「立体視」をしたとしても、この程度の起伏の読み取りは困難でしょう)、耕地化がかなりすすんでいることから、砂丘の掘削と低平化もおこなわれたようです。畝の間の谷の伐採・整地だけでなく、畝それ自体の掘削・低平化もおこなわれたということです。

 赤破線が、Ridge1(緑)とRidge3(青)が完全に掘削されたところです。第4クォーターではRidge1(緑)とRidge3(青)はほぼ消滅し、耕地になっています。「山付き堤」になっていたかどうかは別として、このRidge1は、迅速測図が〝畝〟の一部として描出したのですから、それ相応の標高を持っていたことは確かです。また、複列構造をとる海岸砂丘や河畔砂丘の場合、内陸側ほど大きな〝畝〟になるのですから(前ページ)、第4クォーターにおいても、Ridge3よりはRidge2の方が規模が大きく、Ridge2よりRidge1の方が規模が大きなものだったでしょう。そしてこのRidge1が南端近くでRidge2と合流したうえで堤防と接続していたわけです。その接続点でのRidge1と堤防の標高はわかりません。今のところは立証のしようもありませんが、そこで「山付き堤」の状態になっていた可能性が高いでしょう。かりに「山」であるRidge1の方が低かった場合には、「山付き堤」状態にはなっていなかったことになりますが、その場合でもRidge1の方が極端に低い、たとえば1mも低い、などということはないでしょう。

 

 掘削後の第4クォーターのRidge1

 これは、2015年9月10日16時55分に、防災科学技術研究所が撮影したものです(鬼怒川Reference4)。

 詳細なデータはありませんが撮影時刻の16時55分の水位はピークをやや過ぎていると思われます。写真のとおり河畔砂丘東側の自然堤防地帯は一面冠水していますが、掘削された第4クォーターのRidge1部分の上流側半分は、浸水を免れたようです。

 さらに十一面観音堂(黄緑)に注目します。この時刻にすでに前庭は水が引きはじめ残った泥が茶色に見えています。堂宇は河道側の樹木のあるところにあり、後述のとおり1m以上高いので、最高水位の時点でも浸水していません。

 掘削された第4クォーターのRidge1だった地点(黄)は、東側の自然堤防地帯よりかなり標高が高かったこと、それが現在も変わらないことがわかります。このあと見る若宮戸一帯の掘削が、その砂の採取と販売を主目的とするものだったために、かなり深く掘り下げているのとは対照的です。第4クォーターのRidge1の掘削の目的は採砂ではなく、耕地化だったようです。耕地の拡大を追求した時代と、砂の販売による金銭的利益獲得が至上目的となった時代の違いです。

 

 

 下は、2015年10月27日の金椿山泉蔵寺、いわゆる十一面観音堂の境内です。敷地は東側の道路を隔てた稲田より約1m高く、さらに緩やかな雨勾配のある敷地の奥、一段22cmの石段を5段上ったところに鐘楼と本堂があります。多少の整地はしてあるでしょうが、これが掘削される前のRidge1の辺縁部のようです。

 

 

 この十一面観音堂について取り上げて論じている人がいます(抄録 https://www.risktaisaku.com/articles/-/3788)。「自然災害のノンフィクションや人物評伝」を30冊出版している元NHK記者です。あちこちから切り貼りして記事を書くのが得意なようで、つい若宮戸河畔砂丘を「自然堤防」と言ったりするなど、支離滅裂です。自分の脚で調べた唯一の具体的事実が、「十一面観音堂の前〔の〕石段最上段まで濁流が押し寄せた」というものです。

 

 


 2015年10月27日に、鐘楼の向こうの集会室で地元の人たちから伺ったところ、9月10日には石段の2段目まで冠水したとのことです。向かって左の斜面の泥跡とも一致する、たしかな証言です。石段は一段あたりの段差が22cmですから、高崎さんの記事のとおりだと、この地点の浸水深が60cmほど過大になってしまいます。

 上は同じ2015年10月27日の、伽藍裏の畑です。奥に見えているのが1952(昭和27)年に建設された堤防です。管理基平面図(Reference5)によると、この地点の堤高はY.P.=23.3mです。L22.25kの最高水位は22.0mとのことなので(別ページ参照)、ここではおそらく洪水位を1.5m程度上回っていたでしょう。堤防の向こうは、Ridge2の樹林です。Ridge2はこのあたりではさらに複列になっていて東側の〝畝〟はこの堤防の堤体として埋め込まれてしまったので、これは残った方の西側の〝畝〟です。画面右に少し写っている畑は一段高くなっていて、撮影位置の伽藍と同じくらいの標高です。

 右の写真は2021年9月の同じ場所です。奥は2015年水害後に「激特事業」で嵩上げされた堤防です。

 下の写真は、その堤防天端から見た十一面観音堂です。西側から東方を見たところで、緑銅板屋根が本堂、右の集会室との間から見えているのが鐘楼です(2019年10月)。

 

 上の写真で、十一面観音堂の右側(南側)に小さな土手が見えます。右の写真は東側から見たところです(2021年9月、次も同じ)。小さな祠があり、この土手の左の方(南側)に灯籠が2基見えます。

 この土手は1947(昭和22)の米軍の写真にもすでに写っていて、樹木の植え替えか枝祓いがされている以外は、現在までまったく変わっていません。Ridge1の残丘でしょう。右下の写真は、南寄りの堤防天端から見たところです。

 小さな祠とそこへの参道として残されたのかもしれません。

閑話

  先人たちは神社や墓地などを災害防止上の重要地点に設置し、一時的な利得勘定に気を取られた者たちでさえ決して手を付けられないようにしておいたのだ、と言う人がいます。Ridge1の残丘であるこの十一面観音堂(ち)や2つの墓地(ほ)(と)を見ていると、まさにそのとおりと思えます。ただし、それらが所在するその狭い場所だけでなく、それらが点々と立地する一連の地形、すなわち若宮戸河畔砂丘のRidge1の全体を、そのまま連続的な〝畝〟として保存しなければならなかったのです。そこだけ孤立峰のように残して、間を全部掘り崩してしまったのを見ると、まさに老子荘子の「無用の用」を想起します。Ridge1が存在していれば、1938(昭和13)年の水害も、1949(昭和24)年のキティ台風水害も、そしてなにより2015(平成27)年の大水害もすべて防げたのです。まさに神仏の加護です。

 しかし在地の地主あるいは不在地主たちは、この先人の知恵に思いを致すことなどなく、神仏をも畏れぬ傲慢さをもって墳墓と堂宇だけを残してRidge1を完全破壊したわけですが、それを正当な財産権の行使であるとして是認することはできません。ちいさな金銭的利得を追求したことで、その数千倍、数万倍の人たちの財産(プロパティー)を毀損したわけです。こうした行為は人々の財産権を蹂躙・侵害・破壊する愚行に他ならないのです。しかもこの場合の財産(プロパティー)は、外的事物だけを意味するわけではなく、人の身体・自由をも含むことに留意すべきです(別ページ参照)。

 しかし、さらに考えると、地主たちは他人の財産権を侵害しその財産を毀損はしたものの、自分自身の財産権を行使することで自分の財産は守ったと言えるかどうかも怪しいのです。

 地主たちによる財産権の行使とは、自分の財産たる若宮戸河畔砂丘を破壊することに他ならないのです。砂丘の樹林を伐採し、砂丘を掘り崩し、その砂を売り飛ばすことで、若宮戸河畔砂丘はその片鱗を残すのみとなり、それ自体はもはや存在しないのです。つまり財産としては消滅してしまって存在しないわけですから、それを保有し利用すること、つまり財産権を行使することは、完全に不可能になっているのです。これが、「財産権の行使」の残酷な本質です。

 若宮戸河畔砂丘は、一部の地理学者や中学生程度の地理の知識のある人たちは別ですが、誰からも河畔砂丘と呼ばれることなく、誤って「自然堤防」と呼ばれ続けています。それはなぜかというと、もはや河畔砂丘としての実体をほぼ喪失しているからにほかなりません。若宮戸河畔砂丘がそのまま今も存在していたとするなら、その姿をみて「自然堤防」などと的外れに呼ぶことは到底ありえないでしょう。高いところでは比高15m以上の丘が南北2kmにわたって連なり、しかも3列も4列もあり、間の谷も含めて、10mから20m以上の鬱蒼とした樹林に覆われ、見渡す限りの平坦な自然堤防や後背低地のなかにあって、圧倒的な威容を誇っていたのです。それは、数10cmか、せいぜい数mの比高しかない低平な自然堤防と取り違えるはずもありません。

 もはや成長することをやめ、伐採や採砂も多少はおこなわれたとはいえ、ほぼ河畔砂丘としての姿をとどめている小山戸(こやまど)の河畔砂丘は、地元の人たちによって「砂丘」と呼ばれています。あの鬱蒼とした樹林に覆われた小山は、「砂丘」であり、まさに「小山戸」なのです。若宮戸河畔砂丘を皆が「自然堤防」と呼ぶのは、もはや河畔砂丘としては存在していないことの結果だったのです。

 


 

 第4クォーターのRidge1の掘削時期

 この掘削がいつおこなわれたかはわかりません。迅速測図以降、1947(昭和22)年以前のどこかですが、はっきりした記録はなさそうです。1938(昭和13)年にこの第4クォーター地点の外側、若宮戸河畔砂丘東麓の自然堤防地帯が浸水被害を受けているとのことなので、それ以前だと思われます。

 1938(昭和13)年水害はかなり激甚だったようで、利根川水系全体で破堤や溢水が起きています。河畔砂丘の〝畝〟を掘削したことで起きた水害に対する大日本帝国の対応が、この区間での堤防の建設計画樹立です。

 1938(昭和13)年水害への対応というのであれば、ただちに対応し、1年後の完成は難しいとしても、2年後の増水期には間に合わせる、おそくとも5年以内に築堤するというところだろうと思います。今回の2015(平成27)年水害における「激特事業」が、一応下流部総延長約40km区間でそのペースで実施されたわけです。ところが1938(昭和13)年といえば、すでに大日本帝国の中国侵略が本格的に始まっていた時期ですし、5年後の1943(昭和18)年には戦況ははっきりと不利な状況です。これでは治水どころではないということで、後述のとおり築堤工事開始は1951(昭和26)年まで引き伸ばされることになります。

 ただし、実際の築堤設計は戦後ではなく、米軍が写真撮影した1947(昭和22)年以前には終わっていて、その堤防の線形は定まっていたようです。順当なのは掘削したRidge1の線形を堤防で再現することですが、それだとせっかく(?)掘削・開墾した耕地を全部潰すことになるので断念し、中間部はRidge2に盛り土を被せて嵩上げして築堤のうえ、突如60度屈曲して「と」地点でRidge1に「山付き」にするという設計です。買収が終わっていたかどうかは別として、築堤予定区画は掘削・開墾がおこなわれず保存(放置)されているようです。南端を除いて、線形どおりに樹林が続いています。今日でも、道路の新設予定地で何年も前から新規建築が停止し、空き地や樹林が連続している光景が見られます。とくに航空写真・衛星写真だと明確にわかるのですが、同じ状況です。

 この24.20k付近から24.63kまでの堤防の線形の意味、どうしてこのような形状としたのか、とりわけ24.50k付近で突如60度屈曲させてまで「と」地点につなげたのか、については次ページで検討することにします。

 


1961(昭和36)年7月9日 国土地理院 MKT612-C38-29

 

 米軍による写真から14年後です。敗戦国日本は、全国土の航空測量を始めるのに、敗戦後16年を要したのです。あまりにも長い空白です。

 

 

  第1クォーターから第2クォーターにかけての河道沿いの畑だった部分(あ)はおおきく抉られ河道になってしまいました。1935(昭和10)年の鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)完成から26年が経過し、カーブ内側から外側に転換した箇所ではたらきはじめた浸食作用が原因です。

 第1クォーター右岸の寄州(い)や、左岸の第3クォーターから第4クォーターにかけての寄州(う)では大規模な砂の採取がおこなわれているようです。砂の採取は河畔砂丘の内部ではなく、まずは外側の寄州でおこなわれていたということです。寄州(よりす  side bar )であれば作業のじゃまになる樹木はもちろん草さえも生えていないうえ、当然腐食土などもなくそのまま売り物になる良質の砂が恰も「無尽蔵」に存在し、ダンプカーが乗り越えなければならない地面の起伏もないのですから、寄州での砂の採取が先行したということでしょう。

 河畔砂丘の内部では一部を除いて樹林の伐採はほとんどおこなわれていないどころか、14年前と比べて、樹林はよく成育しているようです。アジア・太平洋戦争中は樹木の需要が多かったようで、植え替えられた幼木ばかりの樹林が目立っていましたが、一転して1960年代にはいると石炭が普及し、クヌギの伐採と植林のペースが落ちたのかも知れません。このあたりの事情はさらに調査する必要があります。

 

 

 そのようななかで、Ridge2の河道側、のちに小林牧場の鶏舎となる地点付近(え)で樹林が伐採されました。この時点では鶏舎を建てるためではなく、まずは畑にするために伐採したようです。多少の整地=掘削もしたかもしれませんが、白い何もない区画が広がってはいませんから、砂の掘削が大規模に始まったのでもないようです。

 

 

 第4クォーターから第3クォーターにかけての橙線は、1952(昭和27)年に完成した堤防です。「と」地点でRidge1にとりついて、いわゆる「山付き堤」となっています。Ridge1が「山」で、それに取り付いている堤防ということです。天端は2015年水害時まで未舗装のままでしたが、それでもY.P.=23m以上あり、完成以降、2015(平成27)年の洪水まですべてを防いだのです。

 これについては、www.naturalright.org ではあちこちに、1945(昭和20)年の「終戦」前に築堤されたと書いてしまいました。さきほどの予定法線に沿って並んでいる樹林の連続をぼんやり見て堤防だと誤認したのです。拡大してよく見ればそういう誤認もなかったはずです。今回できる限り訂正したつもりですが、あちこちに書き散らしたので、まだ誤記が残っているかも知れません。

 正しい築堤年を知るために、下に『石下町史』の年表を引用しておきます(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0821105100 画面右下の「年表」)。1949(昭和24)年9月1日の洪水とは「キティ台風」によるものです。ただし、「十一面地先堤防決壊し」とあるのは曖昧な記述です。「十一面」が若宮戸河畔砂丘全域を指すにせよ、あるいは十一面観音堂を指すにせよ、堤防は存在しませんから、「堤防決壊」は不正確です。おそらく十一面観音堂の背後のRidge 1の第4クォーター区間の掘削された区間から溢水したことを指すのでしょう。

 「この頃若宮戸地先鬼怒川堤防工事のため、十一面山砂丘取りくずされる」とあります。地図が示されているわけではないので、十一面山砂丘」すなわち若宮戸河畔砂丘のどのあたりで砂を取ったのかはわかりません。新たに建設された堤防のすぐ脇、第4クォーターのRidge3とその河道側の部分を掘削したと考えたくなるのですが、1947(昭和22)年の航空写真で、すでにこの部分は耕地になっています。河畔砂丘ではなく左岸の寄州( side bar )での採取のように思われます。

 

 なお、上の『石下町史』の記述を含め、しばしば聞かれる「証言」においては、砂州での採砂と、河畔砂丘を掘削しての採砂とが区別されず混同されるのが通例です。しかも、(前回の)「東京オリンピック」以前と以後が区別されない、とりわけ以後だったのに以前だとされるのがほとんどです。

 まして今となっては、これらの証言のほとんどが直接的体験ではなく又聞き(の又聞きのさらに又聞き)ですから、注意しなければなりません。これについては、次の1964年の航空写真によって結論づけることとします。

 右上に引用した「ツイート」は、2015年水害当時、防災科研の職員だった人が現地調査中に呟いたものです。「石下大橋のすぐ横」の「その付近」とはどこなのかわかりませんし、「もしかして」の意味もわかりません。さきほどの放送局の元記者のような素人ならともかく、防災科学技術研究所に勤務する専門家ともあろうお方が、現地を見たにもかかわらず「自然堤防」などと言って、こういう噂話を拡散しているのですから、気をつけなければなりません。

 

 

 

 第2クォーターにおけるRidge1掘削のはじまり

 判明ではないのですが、河畔砂丘の内部での掘削が始まったかもしれない兆候があります。

 第2クォーターの市道東0272号線がRidge1を横切る「に」地点です。1968(昭和43)年時点になると、第2クォーターにおけるきわめて大規模な掘削の先駆けだったことがわかるのですが、この1961(昭和36)年時点では、はっきりしません。クヌギなどを伐採して植え替えしている可能性もありますが、それにしては他の区画とは様子が異なり、掘削の第一歩だったように見えなくもありません。

 主たる目的が採砂ではなく耕地化だった可能性があります。現在は下の写真のとおり稲田になっています(2020年4月、田植え直前の水が張られた状態。第1の〝畝〟と第2の〝畝〟の間の〝谷〟だったところから東方を見たところ。左奥のビニールハウスや稲田が「に」地点。遠景に小さく筑波山。画面右の樹林がRidge1の残丘のひとつである「ほ」地点。樹木伐採後に放置され荒れ果てて竹林になっているところはあちこちに見られます。青竹の利用とか筍取りもされません)。

 

 

 ただし、耕地化が主たる目的だったとしても、砂丘の〝畝 ridge 〟を全面的に掘り崩した場合、その砂を処理しなければならないわけで、まさか金を払って「残土処理」するはずもなく、良質な砂として結構な高値で売れたわけですから、結果はたいして変わらないとも言えます。深く掘ればそれだけ手に入る砂の総量は増えるわけですし、そうしてできた凹地のもっとも適した用途は稲田です。掘り込み過ぎると水溜りとなり地下水も浸潤してくるので、住宅や工場を建てるのは不都合です。先ほど見た第1クォーターのRidge1掘削跡地が、標高が高めの畑(一部は住宅地に転用)になっているのとはだいぶ事情が異なります。目的によって掘削の仕方もおのずと異なるので、後からでもridge掘削の目的は推測可能です。河畔砂丘だったところのただ中に孤立する稲田の水源は、東の後背低地地帯を南流する江連(えづれ)用水を引いてくるのではなく、井戸水、つまりその場でポンプ揚水する地下水です。

 繰り返しますが、垂直写真だけでは樹林の伐採どまりなのか、ridgeの掘削・低平化まで進んだのかはわかりませんから、この時点ではどうだったのかの判断は保留とします。とはいえ、これがこのあと、1960年代後半に激烈に進行するRidge1の掘削=全面破壊の第一歩だったことは間違いありません。

 

以下、次ページ(近日中)