八間堀川問題
26, Jan. - 26, Feb., 2016
このページでは、沖新田・川崎町南端の決壊地点からさらに下流側の、十花(じゅっか)町・中山町さらに平町(へいまち)付近をみることにします。
そこには「水海道市街地氾濫八間堀川唯一原因説」の提唱者たちがさかんに強調する大生(おおの)小学校近くの八間堀川の2つの破堤地点がありますから、当然それについても検討しなけばなりません。
(なお、今更ではありますが、「堤外」が河道側、「堤内」が河川の左右の耕地や宅地のある側です。「輪中」を思い浮かべると内外の意味が納得できます。写真中の「八間堀川排水機場」は「百間堀排水機場」の誤記です。)
(1)十花町から平町へ
八間堀川に沿って並ぶ線状集落は、ここまでは西側に並んでいましたが、破堤地点のあるこの川崎排水機場付近で、東側に移ります。十花(じゅっか)町から平町(へいまち)、そして小貝川の堤防でゆきどまる長助町まで、一直線です。
その道路の北端から南東方向を見たところです。左にすこしだけ、小貝川の旧河道沿いの自然堤防が、奥には大崎町の自然堤防が見えています。9月10日夜、北から押し寄せた氾濫水によって、東西に走る道路の南側のガードレールが全部南側に曲げられています。道路を越えて水田に落ちるときに、大きな力が働くのです(以下、2016年1月11日)。
生垣にも浸水痕や浮遊物が残っていますが、さらに高いところ、建物の窓のところに浸水痕があります。
梁のすぐ下まで浸水したようです。
盛り土の上に建築されている住戸ですが、それでも3mほど浸水しました。あわせて4mほどの浸水です。
「仲新田共有物倉庫」と表示されています。ここはかつて「仲新田」と呼ばれていました。
八間堀川東岸を南北に貫く道を南下し、大生(おおの)小学校の手前から平町にはいります。このあと詳しくみることになる大生公民館の西側に、水害以前にすでに移転が決まっていたJA常総ひかり水海道センター大生支店があります。窓の上に浸水痕がはっきり残っています。比較的天井の高い建物でこれですから、普通の民家では天井裏まで到達します。
国道354号線(バイパス)を南に渡った地点です。浸水痕は何本も残っていますが、奥の方の部屋の窓の上、おそらく天井裏まで達する高さに浸水痕があります。
(2)複雑に流動する南部の氾濫水
これまで扱った地域、すなわち三坂町・曲田(まがった)から中妻町・沖新田町・川崎町・十花町までは、途中の東西幅2kmほどに狭まる区間があって多少撹乱するのですが、概ね北から南へと傾斜にしたがった氾濫水の運動が続いていたように思われるのですが、このあたりから、状況が激変します。
南東部では、まずは一気に広がって氾濫水の南下に影響を及ぼすような障害もないきわめて広大な水田地帯が広がるのですが、突如として小貝川堤防が行き止まりをなし、一方南西部は極度に狭くなったうえで西側の豊水橋(ほうすいきょう)付近の洪積台地と、南側のつくばみらい市の洪積台地が行く手を阻んでいるのです。多少の撹乱要因はありつつも氾濫水が一貫して流下南流してきた中間部とは異なり、この南部ではいささか複雑な動きを示すようになるのです。
堤防と洪積台地によって行く手を阻まれれば、もはや前進は不可能となり、それでもこの9月11日の時点ではあとからあとから氾濫水が押し寄せてくるのですから、たんに前進をやめて停滞するというわけでもないのです。しかも、焼け石に水状態だった排水ポンプによる排水から、9月11日午前8時から新八間堀川からやっと相対水位が低下した鬼怒川への自然排水がはじまったことで、八間堀川右岸、八間堀川河道、八間堀川左岸の相対水位が緩やかに変動し始めたことで(ただし排水量と総氾濫量の比率を念頭におかないと過大評価の危険性があります)、氾濫水面が複雑な動きをはじめたのです。
このグーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真には、三坂新田町や沖新田町ではあまり見られなかった不思議な画像が現れてきます。中間部では氾濫水は大きくは南流しつつ、小さくは道路や八間堀川堤防によって堰き止められたり「越水」したりし、部分的には停滞していたように見えましたが、南部近くになると、どうやらそれまでにあまり見られなかった動きがでてくるのです。中間部とこの南部では同一時刻なのに、地形的条件のちがいによって、まったく違う動きがおきているのです。
小貝川の堤防によって丸く囲まれた十花町・東町・大崎町、箕輪町・兵町には、このような文様が現れています。中央やや左上で八間堀川国道294号線が接近してきて作るY字型の入り隅にたまっている浮遊物は明らかに南流してきた氾濫水によって運ばれてきたものです。また画面右で小貝川にかかる橋の手前の国道354号線の盛り土北側で小貝川堤防手前に浮遊物が貯留しているのも同様の現象でしょう。それらは中間部でもよく見られた現象ですが、問題は国道354号線の南側の巨大な眼のような薄気味悪い不思議な文様です。溜まった浮遊物と同じ色調ですが、この大面積にわたって展開している文様はどのような氾濫水の挙動を示しているのでしょうか? 箒で掃いたような、櫛の歯のような形はあきらかに氾濫水の流動を示しているのですが、これだけではいったいどちら側への動きなのかもわかりません。
下は、若宮戸と三坂での応急土嚢積みと仮堤防の進捗状況から判断して2015年9月20日ころの撮影と思われるグーグルマップの「Earth」表示です。もちろん色調は操作してあるでしょうが、それにしてもこの付近は他とくらべて暗い色です。
さらにその下は、国土地理院の地理院地図中の治水地形分類図(本項目2ページでも参照しましたが(「地理院地図」で常総市を表示し、 http://maps.gsi.go.jp/#14/36.118984/139.993286 〔他の地域でもかまいませんが〕地図画面左上のフローティング・メニュー〔邪魔なら移動できます〕で、「表示できる情報>地図・空中写真>治水地形分類図」を選びます。ここでは「更新版」です)、凡例をみると、「微高地(自然堤防)」と「氾濫平野」を区分した上で後者をさらに薄緑と濃緑の「後背湿地」に区分しています。グーグル・クライシス・レスポンスで9月11日に現れていた色の濃い氾濫水の部分が、この濃緑の部分に相当するようです。ただし、治水地形分類図でとくに「後背湿地」とされている部分について、地理院地図でレーザー測量による標高を調べても、標高が極度に低いというほどではないようです。
(3)破堤口への流入現象
さきほどの八間堀川と国道294号線のY字部、Y字の右分岐外側の八間堀川左岸の破堤地点、その東の大生(おおの)小学校の周辺にズームインしてみます。Y字の交差部の国道354号線の相平橋上に、消防車、救急車、自衛隊車両が多数見えます。国道354号線は水海道市街地を通り豊水橋(ほうすいきょう)で鬼怒川を渡る旧道に対するバイパスとしてつくられた4車線の道路ですが(いずれ旧道は県道に格下げ!になるのでしょうが、今のところ両方とも「国道354号線」のようです)、見えているのはこの相平(あいひら 西の相野谷町と東の平町から1字ずつ)橋だけです。小貝川湾曲部に囲い込まれた不思議な浮遊物の形態はさておき、まずは相平橋東側の線状集落の先に見える「?」の裏返しのような浮遊物が何なのか追跡してみましょう。拡大してみます。
さらに拡大してみます。大生小学校の南東、交差点北西角にあるのがJA常総ひかり水海道地区センター大生(おおの)給油所です(損壊して廃止がきまったそうです)。大生小学校のグランドに波紋が見えます。右下の水面上にいるボートが残したものです(サハラ砂漠の砂のように見えた景観が、水であったことに気づき、一瞬にしてそれまで見ていたものの観え方が転換する瞬間です)。ボートはおそらく中継基地になっている相平橋(あいひらばし 西の相野谷〔あいのや〕町と東の平町〔へいまち〕を結ぶ)上あたりを出発し、小学校の南西角をかすめ、ガソリンスタンドの南からしばらく国道354号線上を航行して、南東端の箕輪町方面に向かっているのでしょう。水面下に何が隠れているかわからないのですから、命がけです。ガソリンスタンドの建物からはね返ったきた波紋がつくる菱形の波形もみえます。左右の波紋のちょうど中間点で浮遊物が途切れたところがボートが横切った部分でしょう(ここには中央分離帯の突起部はありません。次の写真はガソリンスタンドを右手に相平橋方面をみたところです。2016年1月11日)。
グーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真にすこし画像処理をほどこしてみます。コントラストの強い硬めのモノクロームにすると、浮遊物の軌跡が多少はっきりします。
(たいしたソフトウェアを使っているわけではありません。ただのデジタル写真の保存と簡単な修整だけのソフトウェア〔Apple の “Photo”、 和名“写真”〕で、モノクロームにしてコントラストを上げ、暗部を強調しただけです。Adobe の Photoshop のフルセットでなくてもこの程度なら、いろいろ試して1分もかかりません。)
相平橋北の八間堀川の第2、第3の決壊点をさらに拡大してみます。ここは前ページの最後にみた川崎排水機場わきの、実質的には「破堤」直前の「決壊」現場とは異なり、あとでみるとおり一応完全な「破堤」箇所です。
もしこれだけを見たら、下方(南側)が上流で、右岸破堤部分から河川水が流出しているように見えるところです。河川水がS字を描いて堤内へ流出しているように見えます。下側の破堤箇所の(仮の)「下流側」に浮遊物がついているように見えるところなど、じつにもっともらしいのです。
しかし、まったく逆です。上方(北側)が上流で、破堤しているのは左岸です。下流方向に流れている(当たり前ですが)八間堀川へと、よりによってその破堤した部分から、左岸の氾濫水が吸い込まれている場面なのです。撮影時刻(推定午前10時)の2時間ほど前の午前8時、八間堀川の最下流部である新八間堀川の鬼怒川への合流地点で、鬼怒川の水位の低下を受けて水門のゲートが30時間ぶりに上げられて、自然流下による排水が始まったために、八間堀川の水位が左岸の氾濫水の水位をわずかに下回ったのが原因でしょう。
その気遣いはありませんが、もし「水海道市街地浸水八間堀川氾濫唯一原因説」の提唱者らがこの事実を知ったら、ちょっと面倒なことになりそうです。それ見ろ、だから言わないことじゃない、もっと早くゲートを上げればよかったのだ、と早トチリをしそうです。これについてはのちほど、鬼怒川・新八間堀川・八間堀川の水位データ、氾濫水総量、自然流下による水門とポンプ駆動による排水門のそれぞれの排水能力などを踏まえて検討することにして、「逆流」の様子をすこしだけ見ておきましょう。
(ただし、万一の早とちりを予防するため、結論の一部だけ書いておきます。立証は7−8ページでおこないます。)
「水海道市街地浸水八間堀川氾濫唯一原因説」の提唱者は、鬼怒川の水位上昇により、9月10日午前2時に水門を閉じて鬼怒川から(新)八間堀川への逆流を防いだうえで実施していた排水ポンプによる(新)八間堀川から鬼怒川への排水を、豊水橋直下の左岸で鬼怒川の水位が堤防天端まで上昇し、土嚢をつんでかろうじて越水を防ぐ状況になったため、三坂町での破堤直後の午後1時から午後11時30分まで停止したことを問題視して、「もっと早く排水を再開すべきであった」と、非難しているのです。「水海道市街地浸水八間堀川氾濫唯一原因説」の提唱者たちは、若宮戸と三坂町からの氾濫水の総量(国土交通省の中間発表で3400万㎥、2015年12月15日の土木学会速報会での口頭発表データでは5000万㎥。タテ5kmヨコ10kmの土地を、深さ1mで浸水させる量〔実際の浸水面積は40平方キロメートルですし、流動による時間差もあるので、このとおりというわけではありませんが〕)と、毎秒30トン=毎時10.8万トンの能力を持つ排水ポンプを9時間30分間停止したことによる102万6000トンの排水遅滞(ごく単純にいえば1m分に対して2cm分)とを、冷静に見比べることすらせず、恰も国土交通省(鬼怒川の管理者)や茨城県河川課(八間堀川の管理者)、常総市役所(八間堀川への排水管の管理者)をこき下ろすことだけが究極目的であるかのように、児戯にも等しい非難の言葉を放っているのです。東京新聞は、八間堀川本流(事実上の支流)の小貝川への合流部の排水ポンプ3台中2台の運転に失敗して排水が滞ったことを問題しているのですが、その排水ポンプの能力たるや毎秒3トン=毎時1万800トンだというのです。さすがにこれには追随者にして真打提唱者に、桁が違うだろうと一笑に付されたのですが、かくいう真打自身が、さらに桁外れの勘違いをしているのです。もっとも他の追随者たちに至ってはこの程度の雑駁な計算すらしないのですから、毎日新聞が一応見ている一部の水位情報すら入手せずに論じているとはいえ、東京新聞はまだしも立派なものなのです。
次は、グーグルの画像から約5時間40分後の9月11日15時41分に国土交通省がヘリコプター上から撮影した画像です(IMG_1397)。肝心の破堤地点が入っていないのですが、なんせあちこちで水没しているわけですから、このポツリと切れている2か所など目に止まらないはずです。たぶん相平橋上の自衛隊車両、消防車、救急車と、浮遊物の描いた水上の不思議な形象を記録するためにシャッターを切ったのでしょう。これはいい写真です。
これと、さきほどの硬焼きしたグーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真画像を比べてみます。国交省の航空写真には俯角がついているのですが、垂直写真から同じくらいの範囲をトリミングしたうえで、方位を合わせてみました。上の写真の5時間半前の状態です。
ガソリンスタンド東方で5時間半前にモーターボートに突破された逆「?」形の円弧がガソリンスタンドと大生小学校で分断されて漂流し、画面からは切れてしまっていますがおそらく破堤地点に飲み込まれようとしているところです。国土交通省の15時41分の写真だけ見ても、たとえば左上の孤立した樹木で浮遊物が振り分けられている状態や、大生小学校や右上の広い敷地をもつ住宅の塀の中の浮遊物の溜まり具合などから、流れの方向を推定することはできるのですが、複数の写真を並べると確実な推定ができるのです。吸水口に近づくほど流速は早くなるのでしょうが、平均時速100mというところです。カタツムリよりは早いようですが、続々到達する後続水塊の量にくらべたら焼け石に水でしょう。
ついでに見ると、相平橋の北東側入り隅の浮遊物は、開口部近くにあったせいかほとんど吸い込まれていったようです。
氾濫水が河川に氾濫するという、さかさまの世界のような出来事は、右岸側でも起きています。太陽の方位(概ね138度)から時刻(9月11日の午前10時)を計測するサンプルにした自衛隊のヘリコプターの直下、さきほどの相平橋の上流側330m地点にあるその名も「大橋」という小さな橋の上流側右岸堤防です。橋の幅と同じくらいの幅で「越水」(右岸・中山町堤内側から、堤外=河道へ)している様子が見えます。白い波濤も見えます。対岸の堤防も荒れているようにみえます。
右岸のすこし天端の下がっているあたり、枯れ草の明るい色のところが、逆「越水」した地点のようです(2016年1月11日)
(4)八間堀川の破堤による局所的破壊と、堤内を南下してきた氾濫水による破壊と大深度浸水
「水海道市街浸水八間堀川唯一原因説」において、八間堀川最大の事件とされる、平町(へいまち)における破堤についてみてゆくことにします。上はグーグル・アースで「3D表示」にした破堤地点の俯瞰画像です。おそらく「ストリート・ビュー」の立体画像構築アルゴリズムを発展させたもので、「3D表示」とはいっても従来のCGによる人工画像方式とは異なり、実写映像を再構築した実写映像です(2015年12月15日の土木学会の鬼怒川水害速報会で、埼玉大学の田中規夫教授がドローンでこの場所を撮影した映像を見せていましたが、グーグルは40㎢の全域で同じ結果を提供してしまっているのです)。
南(右上)の相平橋と北(左下)の大橋の間に2つの破堤箇所があり、流出した土砂の痕跡がのこっています。すでに大量の氾濫水で満たされている状態であれば、水田にこの時の土砂がそのまま残ることはありえないでしょうから、他の証拠も証言もありませんが、東岸を上流から流下する氾濫水が到達する以前、または到達したがまだ浅かったころに破堤し、その後、大量の氾濫水が到達し、八間堀川の破堤によるものとは思われない数々の作用をおよぼしたとみてよいでしょう。
まず、破堤による影響をみてみます。上流側の大きい方の破堤箇所からの痕跡は大生小学校の西側をやや斜めに直撃し、下流側の小さい方からの痕跡はプールを西側正面から直撃しています。破堤口直下には落堀もできていました。体育館は重量鉄骨造で150m離れていますから損壊はしていません。プールはコンクリートの塊ですからやはり損壊していません。いずれにおいても、直下の落堀、フェンスの倒壊と150mまでの範囲での土砂の堆積が主要な損害です(以上、青矢印)。
次に、堤内を流下してきた氾濫水の影響について指摘します。主として八間堀川東岸を流下してきた大水塊による圧倒的な被害です(黄矢印)。
なお青矢印、黄矢印は、こうなるはずだ、こうかもしれない、という想定ではなく、すべて 以下に挙げた現場写真とグーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真からわかるものです。実体的証拠のないものは一切記入していません。(地上での写真は、2016年1月11日、2枚だけ2015年11月22日撮影です。)
この地上での観察結果をふまえて、次の5ページでは、視点を大きく転換し、ここでの破堤の原因について仮説を提起することにします。
なお、大橋と相平橋の間の右岸堤防についてはここでは保留し、次のページで検討することにします。
(i) ふたつの破堤箇所と百間堀排水機場樋管対岸の洗掘
対岸からみた、上流側破堤箇所の川表側の状況です。
上のグーグル・アースに書き込んだ矢印のとおり、ここからの氾濫水が直撃したのは小学校の体育館、ならびにプールへの通路のフェンスです。
プール東側のフェンスを倒したのは、破堤のあとに左岸を南下してきた氾濫水だと思われます。
下流側破堤箇所です。
ここからの氾濫水が直撃したのは正面のプールの西側のフェンスです。
むこうに見えるのは体育館、左に教室棟。右にJA常総ひかり大生給油所の赤い看板です。
さらに下流側、相平橋手前の洗掘された左岸堤防です。
(次のページで仮説として、右岸にある百間堀排水機場の樋管からの噴出による洗掘と判断します。)
その場所を川裏側からみたところです。国道354号線の相平橋と八間堀川左岸堤防がつくる入り隅の部分です。フェンスが脱落しています。
(ii) 大生小学校の被害
小学校の校舎の西側、離れた場所にあるプールへの通路です。フェンスが北側に倒れています。上流側破堤箇所からの氾濫水の直撃によるものではなく、左岸堤内を南下してきた氾濫水によるものです。
広角レンズなので形が歪んでいますが、プールの西側フェンスです。このフェンスが東に倒れたのは下流側破堤箇所からの氾濫水の直撃によるものでしょう。
しかし、倒れたフェンスの下に入り込んだり、手前に写っている南西の隅の大量の稲わらやさまざまの物体は、破堤地点からの氾濫水によるものではなく、破堤のあとに左岸堤内を南下してきた氾濫水が運んできたものでしょう。
プールの南西隅です。
最初に左奥に見える破堤か所からの氾濫水が西側(左下)のフェンスを東に倒し、ついで北から左岸堤内を南下してきた氾濫水が北側(右下)のフェンスを南側に倒し、稲わらをたおれた西側フェンスの下に押し込んだものでしょう。
南側に倒れた南側フェンスです。正面の下流側破堤箇所からの直撃によるものではなく、左岸堤内を南下してきた氾濫水によるものでしょう。
南側フェンス下に残された稲わらです。下流側破堤箇所から直撃した氾濫水によるものではなく、左岸堤内を南下してきた氾濫水によるものでしょう。
大生小学校の西側のフェンスです。上流側破堤箇所からの氾濫水の直撃により東側に倒された可能性が高いでしょう。
ただし、のちほど見るように奥の大生公民館西側のフェンスは、左岸堤内を南下してきた氾濫水により西側に倒されています。単純ではないようです。
大生小学校の西側のフェンスを北西側からみたところです。北側フェンスが北側に倒れたのは、上流側破堤箇所からの氾濫水の直撃によるものでしょう。
大生小学校の体育館の西側のドアです。
わかりにくいのですが、ドアの上の方、ガラスの真ん中あたりに浸水痕があります。敷地の時盤面から3mほどですが、敷地西側の道路は一段低く、水田はさらに一段低くなっています。
どこから測るかにもよりますが、この付近は4m程度の浸水深があったものと思われます。八間堀川東岸を南下した氾濫水によるものでしょう。
(iii) 八間堀川東岸を南下してきた氾濫水による大生公民館の被害
ここからが大生公民館です。
幾重にも浸水痕がありますが、時計のところまで浸水したようです。
時計は11時45分で止まっていいます。おそらく、その時刻(10日午後11時45分)に氾濫水の水位がここまで上がったということでしょう(もともと止まっていたということもありえないわけではありませんし、さらには水害後しばらくしてから電池が切れた可能性もなくはないのですが、今後他の事実と符合すれば証拠となります)。
「もともと止まっていたということもありえないわけではありません」と書いて、この時きちんと詰めるべきところを、放置してしまいました。3年もたってから文字盤下部の液晶表示が判読できる別のカット(2016年4月4日撮影)を探し出し、「2月19日 土」との液晶の表示があることに気づきました。2月19日が土曜日なのは、2011年です(さらには2005年、2000年、1994年、1983年です)。
この時計はおそらく、2011年2月19日、土曜日の午前か午後の11時44分41秒に何らかの原因で止まったのでしょう。ただし、電池切れだとすると液晶表示も消えるはずですから、アナログ部とデジタル部が別の電池になっているのか、それとも別の原因なのかは、さらに調べないとわかりませんが、いずれにしても2015年9月10日深夜にここまで氾濫水が到達し、その時刻を指したまま時計が止まった、という劇的な事実を立証しているのではないのは明らかです。
以上のとおり訂正します。(29, Apr., 2019)
天井の低い玄関部分では屋根裏まで浸水したようです。
天井板を剥がして乾燥させているところです。
大生公民館の西側ですが、水田に注目してください。手前の道路を北から南に「越水」してきた氾濫水が収穫前の稲を南側に向けて倒しています。
(まだ倒れた稲がそのまま残っていた2015年11月22日の撮影です。)
上の場所を道路側から南をみたところです。向こうの破堤箇所からの氾濫水が、このように稲を破堤箇所に向けて倒すことは到底ありえません。
東岸堤内地を南下してきた氾濫水によるものと考えるほかありません。(2015年11月22日)
さきほどの公民館の西側に見えていたフェンスです。
南下してきた氾濫水が道路を越水した時に勢いがつき、建物とフェンスに間に入ってフェンスを基礎のコンクリートごと、西側の八間堀川側に倒したようです。
ブルーシートを被っている八間堀川の破堤点からの氾濫水ではこういう倒れ方はしません。
フェンスの倒れ方がよくわかるように、向きを変えて撮影しました。
北側のフェンスは南へ倒れ、西側のフェンスは西へ倒れています。しかも同時に起きた現象です。
南側のフェンスです。向こうに見える破堤箇所からの直撃によるものではなく、左岸堤内地を南下してきた氾濫水によるものです。
手前は駐車場で見通し(氾濫水にとっても)がよく、奥は公民館の建物の陰で氾濫水が直撃しなかった場所です。
(iv) 大橋における右岸氾濫水と左岸氾濫水の挙動
以下は、大橋の上流側下流側それぞれの左右堤防に残る氾濫水の痕跡です。
これは、さきほど見たものですが、画面中央上方(欄干の終端のすぐ上)が、右岸堤内側から氾濫水が流入した地点です。
大橋の下流側右岸堤防上から上流方向をみたところです。
2012年11月撮影のグーグルのストリートビューで見ると、フェンスが傾いているのは水害以前からのようですが、その下に残っている稲わらは右岸堤内から河道に流入した氾濫水によるものでしょう。
大橋の東側のたもと、左岸堤防の川裏側法尻を走っている排水路の暗渠の入り口側(上流側、八間堀川でも上流側)です。向こうは用水路です。連絡もとれるようになっているのがわかります。
浮遊物が残っています。
大橋の東側のたもとから下流側の左岸堤防を見たところです。前方は破堤箇所です。
上の暗渠をくぐった排水路と用水路から、氾濫水が噴出して稲を放射状に倒したものです。
左岸堤防に沿っているのが排水路、左に離れていくのが用水路です。
大橋の東側たもとの下流側です。白く残る泥は水害時の痕跡です。
フェンスが傾いているのは、水害によるものと思われます。氾濫水の痕跡と場所が一致します(2012年11月撮影のグーグルのストリートビューでは傾いていません)。
国道354号線(バイパス)の「大生小南」交差点です。右はJA常総ひかりが経営していたガソリン・スタンドです。公民館からは、農協事務所や小学校を挟んだ反対側です。
北から南をみたところですが、標識が南側に折れ曲がっています。コンクリートの基礎とアスファルト舗装と縁石が頑丈だったので掘り起こされることがなく、標識が根元から折れ曲がったのです。当然水位は標識より高かったということでしょう。
次の上段の2枚は、水害から4か月以上経過した2016年1月27日に、大橋のやや上流の右岸堤防上で撮影したものです。右岸堤内を流下した氾濫水が運んできて、ここで右岸堤防をこえて河道に流れ込んだ際に置いていったものかもしれません。3ページで見た五箇排水機場近くにも同様にドラム缶などが天端にあったのですが、たくさんまとまっていたのとほとんど泥をかぶった様子がないことなどから不法投棄と判断しました。こちらもあとから捨てられたゴミの可能性もあるので、ここに掲載するのをためらったのですが、水害直後の9月20日ころに撮影されたものと思われるグーグルアースの映像に写っていたこと、わざわざ捨てに来たものは大抵いくつかまとまっているのですが、これはそうではないことなどから、氾濫水によって運ばれて来た可能性が高いように思われます(水害から数日以内に捨てられた可能性も完全には否定できませんが)。
下段の2枚がグーグルアースの画像(単純な実写でなく、特殊なアルゴリズムによる再構成された立体画像)で、橋に近い方に青いドラム缶、離れたところにプチプチの塊と橙の看板が見えます(プチプチには「送り状」の入った封筒もついていましたので、わざわざ捨てると足がつきます)。
上の写真は、破堤直後、9月14日から17日までの間におこなわれた自衛隊による土嚢積みの様子です(国土技術総合研究センター「台風17号及び18号による鬼怒川被害 現地調査報告(第 2 報)」(http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/reports/disaster/07/20152kinugawa.pdf#search='台風17号及び18号による鬼怒川被害+現地調査報告%28第+2+報%29'、25ページ)。すでに背後の相平橋上の国道354号線も通行できているうえ、八間堀川の水位もかなり低下しています。
次は、首相官邸のまとめ文書中の自衛隊による土嚢積み作業についての記述です。(5ページ下から4行目、http://www.kantei.go.jp/jp/pages/pdf/h27typhoon18/taisakusitujohoh2709240930.pdf)。
3ページまでで見てきたところでは、氾濫水は、基本的には標高差にしたがって一貫して南進していたのですが、この4ページでは、東南部の広大な水田地帯における行き止まりや、八間堀川排水機場の運転(10日午後10時30分)と、さらに八間堀水門の開放(11日午前8時)による八間堀川への流入現象が加わっていささか複雑な動きとなっていました。
また、問題の破堤箇所については、おそらくそのあと左岸堤内を南下してきた氾濫水による大深度浸水の影響が重なり、ここでも複雑な現象が起きていました。
次の5ページでは、ふたたび視点を引き上げて平町から水海道市街地の手前までを俯瞰することにします。この4ページで詳細にたどった現象を、こんどは大づかみにみてゆくことにします。