5, Nov., 2015
鬼怒川左岸の25.35km地点は、前年にソーラーパネル業者(「B社」)が200mにわたって砂丘を掘削して整地してしまったのですが、国土交通省関東地方整備局は、そこに大型土嚢を2段(下に2個、上に1個を「品の字」)に積んだだけで放置していました。台風18号による豪雨で水位が上昇し、9月10日午前6時には激しい氾濫が始まりました。国土交通省は当初「越水(えっすい)」としていたのを、のちに「溢水(いっすい)」と言い換えたのですが、堤防がない場所なので定義上「越水」とか「決壊」とは呼ばないだけで、実態は堤防の決壊に匹敵する激烈なものでした。4km下流の三坂町で越水が始まる午前11時までに(決壊は午後12時50分)、東側の八間堀川(はちけんぼりがわ)流域、北側の下妻(しもつま)市方向、南の新石下(しんいしげ)地域にいたる広大な地域が浸水しました。
この若宮戸(わかみやど)を、水害発生からほぼ7週間後の10月26日と27日に三坂町とあわせて撮影してきましたので、ご報告します。
まず、ソーラーパネル業者が砂丘 Sand dune としての「十一面山」を掘削したのを国土交通省関東地方整備局が拱手傍観し、激しい氾濫が起きた25.35km地点、そして1か月以上も内緒にしていたもうひとつの氾濫が起きた24.75km地点、それら2地点を含む「十一面山」の、荒れ果てた状況をご覧ください。
2015年9月11日 11時25分
(GoogleCrisisResponse https://storage.googleapis.com/crisis-response-japan/imagery/20150911/full/DSC02810.JPG)
(1) 25.35km地点
氾濫翌日の航空写真では、落堀(おちぼり、おっぽり)がいくつもでき、国交省が「品の字」に置いた土嚢が破れて、ソーラーパネルが散乱していました。しかし、若宮戸の現地は、やっと仮堤防ができただけの三坂町とことなり、いまや当時の状況はほとんど窺い知ることができません。落堀は埋め戻され、完全に平坦に整地されたところに今度は大型土嚢を3段(1段目に3個、2段目に2個、その上に1個)に積み、遮水シートをかけた「土嚢の堤防もどき」が設置されていました(9月16日完成)。この「堤防もどき」と、その河道側に積み上げられていた「A社」のソーラーパネルの残骸は、以前に対岸から見たとおりですが、驚いたことには、「B社」が無傷で残っていた8割ほどのパネルを取り外す工事をせっせとおこなっているのです。他に持って行ってまたどこかを削って設置するのでしょう。工事現場にあるはずの、工事名・事業者名・労働基準法や労働安全衛生法関連事項などを記した掲示板も見当たりませんでした。人影がないのは、着いたのがたまたま正午で昼休みになったからです。作業中だったら、日本国政府も手を出せなかった畏れ多い私有地内に立ち入り、ウロウロしてパチパチ撮影などできなかったかもしれません。
「堤防もどき」の両端には、ざっくりと削られた砂丘の断面が見えます。もとの「十一面山」砂丘がどんなものであったかがよくわかります。なお、この断崖は氾濫水が洗掘したのではなく、前年の整地作業の際に、重機で乱暴に削ったものでしょう。こんなところにも、今回とんでもないことをしでかして、何の反省もしないこの業者の本態がよく現れているのです。
なお、あちこちに測定ポールが立っていますが、紅白それぞれ、1目盛り20cm(たとえば、赤3つ、白2つで1m)です。
(その後わかったのですが、じつは他の場所に持ち出すのではなく、この同じ場所に、もう一回ソーラー発電所を作るのだそうです。2014年に6億円ほど投入したのが1年後の氾濫で半壊状態となったものの、パネルの大部分が無傷で残り再利用可能であること、再建費用も損保で大半が補填されるので少しの実損で済むようです。砂丘を掘削して氾濫をおこしたわけですから、故意または重大な過失による損害なので当然保険金は支払われない事例だろうと思うのですが、こういう時には損保もずいぶん甘い査定をするものです。パパに買ってもらったフェラーリを無謀運転で壊したドラ息子が、どうせ保険で補填されるのでちっとも困らないのと同じですが、社会全体に与えた損失の大きさは比べものになりません。ソーラーの「B社」は損失の大半を補填してもらい、損保は他の加入者に負担を転嫁し〔一般住宅の水害時の損保による補償額は実損に遠く及びません〕、国土交通省は知らんふり、報道企業はもう飽きてしまってこんなことは取材もしない、泣かされるのは一般の国民だけなのです。 5, Dec., 2015 追記)
(2) 24.75km地点
国土交通省関東地方整備局が、若宮戸でもう1か所「溢水」が起きていたことを発表したのは、10月13日の記者発表文書がはじめてです(おそらく)。(この件については、別ページで検討しましたので参照ください。)
じつは、この場所に大型土嚢を3段に重ねた「堤防もどき」をつくったことは、9月25日の完成当日、24.75kmという一番重要な情報を隠し、説明も地図もなしにひっそりと「公表」していたのです(http://www.ktr.mlit.go.jp/bousai/bousai00000111.html)。写真は、目印になる紅白の鉄塔(航空法第51条の2により60m以上の鉄塔に設置を義務付けられた昼間障害標識としての彩色)と慰霊塔(次の「十一面山」参照)が写り込まないようにしてありました。上の25.35km地点の「土嚢の堤防もどき」は、どこからでも見えるのですが公表はされず、どこからも見えない24.75km地点の「土嚢の堤防もどき」の方は、その25.35kmのものと勘違いするように変なアングルをつけたアップの写真にして公表したのです(現場がよくわかっていれば、25.35km地点でないことには気付いたはずですが。対岸の紅白鉄塔は写っています)。
前日の9月24日の三坂町の「仮堤防」の完成の際には、笛(新聞)や太鼓(テレビ)が打ち鳴らされて、ほとんどお祭り騒ぎのようだったのですが、こちらはあとで言い訳(「ちゃんと公表しました。25.35kmなんて書いてません。誤解した人が悪いんです。僕は悪くないもん!」)ができるようにしたうえで、場所も明記せず人知れず処理していたのです。
(三坂町での仮堤防完成を大々的に取り上げる9月24日の記者発表資料〔http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000632707.pdf pp.1, 4.〕には、「溢水」が起きていたことと、「土嚢の堤防もどき」をつくっていたことはほかの数十か所に紛れ込ませて書いてあったのですが、つい見逃すような小さな扱いでした。直下の家屋を破壊するような激烈なものであったことはいまだに秘密にしています。別ページにまとめましたので参照ください。)
という次第ですので、こちらの「土嚢の堤防もどき」は、ラッピングのクリスト(http://christojeanneclaude.net)のお株をうばう異様な威容を、周囲からはまったく見えない砂丘の林に隠しています。
次は、ページ冒頭のGoogleCrisisResponseの写真の右上部分を拡大したものです。他の場所ではかなり水が引いているのに、ここでは大量の氾濫水が滞留していることや、左上方向への濁流の流路跡から、この場所でも独自の氾濫が起きたことがわかります。
「土嚢の堤防もどき」は、このあと紅白鉄塔と慰霊塔の間の水没した部分の対角線上に設置されることになります(9月25日完成)。その次のスライドでは、画面右上に見えている堤防上を、鬼怒川水管橋をくぐって右折し鉄塔下へと進みます。
2015年9月11日 11時25分(GoogleCrisisResponse https://storage.googleapis.com/crisis-response-japan/imagery/20150911/full/DSC02810.JPG 右上4分の1程度をトリミング)
(3) 十一面山と十一面観音堂
明治初頭の「迅速測図(じんそくそくず)」では、この地にかつてあった「十一面山」の様子がよくわかります。別ページで検討したように、河畔砂丘 Sand dune です。最高地点は32.25mに達し、標高17mないし18mの東側一帯の自然堤防 Natural levee より約14〜15m、標高16m前後の小保川(おぼかわ)や八間堀川(はちけんぼりがわ)の流れる後背湿地(後背低地)より約16mほど高かったのです。鬼怒川の水流が運んできた砂を冬の北西季節風(「日光おろし」)が吹き寄せ、東岸に幾筋かの砂丘を形成したものです。延長約2km、最大幅400mほどで、おおきく3筋の砂丘列があったようです。同様地形が多い埼玉県南部の古利根川(ふるとねがわ)流域の加須(かぞ)低地から中川低地にかけての例とくらべても群を抜く規模です(澤口宏『利根川東遷』2000年、上毛新聞社、pp. 51-57.)。良質の砂は、東京オリンピック(前回の)景気にわく東京に運ばれ、この地には一部を残すのみです。
南端に、その名の由来となった金椿山泉蔵院十一面観音堂(常総市本石毛〔もといしげ〕字西原〔あざ・にしはら〕)があります。毎月9日には近隣のひとびとが集っての祭礼がおこなわれるのですが、2015年9月9日の祭礼の夜、日付がかわった午前2時20分に若宮戸に避難指示が出され、6時には激しい氾濫が始まりました。観音堂は本殿前石段の2段目まで浸水したそうです。
スライドは、十一面山を北から南へとたどります。ソーラーパネルの場所を過ぎ、アジア太平洋戦争戦死者の慰霊塔(「土嚢の堤防もどき」のある24.75kmの第2の氾濫地点を見ている国土交通省関東地方整備局の人たちの姿を見て、最後に南端にある十一面観音堂にいたります。(「御本尊佛舎利由来」の看板は一時停止してご覧ください。この慰霊塔はストゥーパに他なりません。当ウェブサイトの中国寺院のページもあわせてご覧ください。)
(4) 若宮戸からの氾濫がおよんだ地域
くわしくは別に検討しますが、今回の浸水地域40㎢のうち、すくなくとも北方の4分の1程度、すなわち「豊田(とよだ)城」(地域交流センター)とショッピングセンター「アピタ」がある新石下(しんいしげ、合併前のの石下町の中心市街)の周縁部あたりまでは、おそくとも9月10日午前6時以前にはじまった若宮戸の氾濫が原因で浸水したのです。三坂町での越水(午前11時ころ)・決壊(午後12時50分ころ)以前に、新石下まで広い範囲が浸水したことが決定的証拠です。
さらに、下の浸水地域の地図からもあきらかです。三坂町から氾濫した水が、北東側の新石毛のうち冠水しなかった川沿いの地域(自然堤防のなかでも相対的に標高の高い地区)を反時計回りに迂回し、標高の高い北側の下妻(しもつま)市方面へ遡上することは、ありえません。
三坂町の堤防決壊がなかったとしても、若宮戸からの氾濫水は標高差にしたがってゆっくりと流れ下り、一帯の後背湿地(後背低地)の水田を呑み込みつつ南下し、常総市役所付近まで及んだものと思われます。若宮戸の氾濫だけでも、鬼怒川東岸の広い範囲が浸水したことは明らかです。
こんなことは、簡単にシミュレーションできるはずですが、国土交通省関東地方整備局は貝のようにダンマリを決め込んでいます。
このページは、現地報告ということで写真を何枚か示しただけですので、「若宮戸問題」については、「自然堤防とは何か 若宮戸ソーラーパネル事件」、さらに「鬼怒川水害の真相・若宮戸」のページをご覧ください。
若宮戸の第2地点、24.75km地点については、「10週間後の若宮戸」をご覧ください。