Apr., 6, 2020
前ページでは、2015(平成27)年9月10日の水害の翌日から、仮堤防完成後(次の写真・上、2015年10月9日、GoogleEarthPro)までをみました。このページでは、その仮堤防を撤去し本堤防に置き換えてから現在までの状況を見ます(写真・中、2018〔平成30〕年5月15日、GoogleEarthPro)。2013(平成25)年から2014(平成26)年にかけての、国交省による採砂によって形成された高水敷の第2の段付き(緑線)における、開口(開口1、2、3と連続開口)の痕跡、ならびにあらたに形成された開口4などの状況変化を追います。
衛星写真の前に、本復旧堤防の概要を見ておきます。
(衛星写真・航空写真中の決壊堤防の6区間の距離数、ならびに復旧堤防との位置合わせを訂正しました。もとの堤防と復旧堤防の天端位置を一致させていたのですが、これは誤りでした。堤内側法尻が一致するよう直し、あわせて他の構造・事象の位置も修正しました。Aug., 28-29, 2020)
仮堤防建造工事は、9月11日にすでに始まったのですが、上流側半分を鹿島(かじま)建設、下流側半分を大成(たいせい)建設が分担しました。本堤防への置き換えも同様に、上流側を鹿島、下流側を大成が担当しました。堤内側法面がかろうじて残った(つまり破堤しなかった)B区間を含めた決壊区間の約200mに、上流側A区間、下流側H区間との接合部分を合わせると、おおむね280mですが、それを2社が独立して施工したのです。2区間の境界線は、仮堤防の時より数メートル下流側に移っています。
現在、それぞれの工区だったところに鹿島・大成による仮堤防・本堤防工事の概要を記した掲示板が立てられています。写真・下は、21k距離標石のあたりの天端に立っている鹿島のものです。左の掲示板が仮堤防について、右が本堤防についてです。その向こうの堤内に少し見えている住宅は、画面左端の陸屋根が建て直された住宅2、そのすぐ右に寄棟屋根が少しだけ見えている平家が同じく建て直された住宅9です。
次に、本復旧堤防についての掲示板を見ます。最初が鹿島、次が大成です。
2つの工区を、両社が独立して施工したとはいえ、当然ながら堤防の基本構造は同一です。断面寸法や土量も書かれていますから、現地の看板による堤防の構造の説明としては随分と踏み込んだものと言えます。三坂における決壊・破堤原因について、関東地方整備局がどのように認識していたかを推測するうえで、きわめて重要な資料です。
水害から3日後の9月13日に、まだ水も引かない現場をちょっと見ただけで、基礎地盤がしっかりしているから越水が破堤原因だと無責任なコメントを発した「鬼怒川堤防調査委員会」は、広報用のマヌーバーだったことは明白です(別項目参照)。また、越水対策として堤内側法面の遮水シートによる被覆がないことだけに拘泥する見解もありますが、もっと重要な点を見逃しているのです。今ここでは、1点だけ指摘しておくことにします。
堤外側法尻に、「②遮水鋼矢板」が打ち込まれています。図では途中で切れていますが、「工事諸元」のとおり、長さ9m(大成区間の一部は7.5m)です。堤体高5.4mをはるかに超え、「置換盛土」の底部より深くまで達しています。2015年9月10日にここ(堤体ではなく基礎地盤)を「水」が通ったこと、それが破堤の根本原因であること、今後の破堤を回避するためには、その「水」の通りを「遮」る構造物を地下深く設置する必要がある、というのが関東地方整備局の判断だったに違いありません。
ついでに、「本復旧」の脇の「緊急復旧」の掲示板の写真も載せておきます。(本サイトの写真はすべてクリックして拡大表示できます。)
前ページで見た、仮堤防完成から約1年後の、「本復旧堤防」完成後の写真です。
この段階では、決壊区間の上流側(A区間)と下流側(H区間)は、水害以前のままですから、本復旧堤防とは、高さと水平位置の違いがあるので、そこをうまくつなぐ移行部分が必要になります。
すなわち、堤外側に白いコンクリートブロックがある部分です。垂直写真だとわかりにくいのですが、さきほどの鹿島の説明書のとおり、山折りではなく、谷折りです。そこまでを含めて、鹿島と大成それぞれの施工範囲として図示しました。
開口2を埋めた白い土砂がよくわかります。
連続開口があった部分は、段付きの崖面が不安定なようで、崖下の道路に沿って、27個の大型土嚢が置かれています(コバルト、1個あたり1mなので幅27m)。
開口3があったのはその中央あたりです。
崖下土嚢の上流側も一帯には草がなく、状態は不安定のようですが、はっきりした開口4はまだできていないようです。
住宅2と住宅9があったところが、更地になっています。一体的に土を入れて水平に均したようで、画面上方部分は周囲より盛り上がっています。かなりの量の土砂が必要だったでしょう。堤防の法尻下にあるのは住宅1の物置です。
ガソリンスタンドは廃業し、残った倉庫も撤去されました。倉庫のあった場所の上流側には新しく医院が開業しました。
上の写真から1年2か月経過し、決壊区間の上流側(A区間)と下流側(H区間)も、嵩上げと拡幅が終わったようです。その上下流側の天端の両側の白い線が目立ちますが、法肩の縁石の規格が異なるためです。
拡幅は、堤外側に広げる形でおこなわれたようで、堤内側法尻の線、すなわち河川区域境界線はもとのままで、排水用の「箱型水路」の蓋が白く見えます。あらたな用地取得をするとなると、「激特事業」期間内の5年では間に合わないためです。
大成区間の下流端付近(茄子紺四角)は、堤内側法面下部が垂直に近い擁壁になっています。その下流側の墓地付近は、天端幅が広くなっています(緑四角)。
赤楕円をつけたあたりは、第2の段付きから第1の段付きにつながる部分です。草が枯れた北向き斜面が日差しの陰になっていて、段差の状況が、よくわかります。
住宅2と住宅9が再建されました。
4か月経過して、草が繁茂していますが、大きな変化はないようです。
開口4はまだできていないようです。
ここだけではありませんが、高水敷や砂州(だったところ)で、「鬼怒川緊急対策プロジェクト」による茨城県内区間の堤防の拡幅・嵩上げ工事のための、土砂のブレンド作業がおこなわれています。
三坂では、下流側のアグリロード常総きぬ大橋の手前(左岸上流側)とこの地点が作業場になっています。この写真では3箇所に土砂が積みあげられています。堤外側法尻に沿ってダンプカーが往来するので、そこがアスファルト舗装されました。
このダンプ道路下の段付きは、2013−14年の採砂によってできた段付きよりさらに堤防側に寄っています。とくに上流側ほど大きく移動しています。
2014(平成26)年1月19日の衛星写真を見ると、当時の段付きはこの位置にありました。その後土砂を盛り戻して崖面を河道側に移動したのが、今回もとに戻っただけのようです。
この崖面で、赤四角と黄四角のような崩れが生じています。このあとできる開口4と同様の現象かもしれません。
斜面はバックホウのアームで突き固めてあるはずですが、それでも高水敷を破壊して形成された標高差約4mの破断面へ、堤防側の地下地盤から大量の水を含む砂が吐出するようです。
本復旧堤防建造時にさらに掘削したことも助長してはいるでしょうが、本質的には2013−14年に8万㎥、15万トン前後の砂を採るために高水敷を掘り下げて、4mもの破断面を形成・露出させたことが、このような現象の根本原因でしょう。
さきほどみたとおり、復旧堤防の堤外側法尻には深さ9mまで鋼矢板が打ち込まれ、そこで堤体下・堤内側の地盤とは一応縁切りされているはずですが、その鋼矢板までの最大で約30m幅の地盤の不安定性だけでも崖面の変化として現れるのでしょう。
2015年9月10日の時点では、この深さ9mの鋼矢板による縁切りもなかったのです。そこで、河道・高水敷・砂州(だったところ)側と、堤体直下さらに堤内地側の地盤がどのように関連していたかを考察すべきです。
なお、ここの地盤が深さ9m以深で突然堅固になるかどうかもわかりません。今からでも調査できるのですが……。
他地点の堤防改修のためのブレンド作業は終わったようで、巨大な土壇もすべて撤去されました。
開口4はまだできていないようです。
グーグルの衛星写真で、2016年10月から2019年4月までの状況を見てきました。2013−14年の採砂によって形成され、さらに移動したこの段付きは、きわめて不安定な状態にあるのです。水害後においても、崖面の崩壊現象が進行しているのです。開口1、開口2、開口3は埋め戻されて一応落ち着いているようですが、連続開口があった範囲では、崖面が不安定なため、大型土嚢が一列に設置されました。
先ほど見た2019年4月13日の衛星写真(右上に再掲)では、開口4はまだ出現していませんでした。ところが、約1年後の2020(令和2)年3月に現地に行ったところ、開口4が出現していました。
三坂には何度となく行ったのですが、水害直後はもちろん仮堤防完成時でも、とても素人が歩けるような状況ではありませんでしたし、本堤防完成後は天端や堤内地にばかり気を取られ、堤外地は上から眺めるだけだったので、何も気づかずにいたのです。ダンプ道路やさらにそこから第2の段付きの下段面に降りてはじめて、崖面の崩れ、下層の砂の流出による上層の粘土層の崩落に気づいたのです。
グーグルの衛星写真はまだ公開されていないので、地上写真でこの高水敷の段付きと、その崖面の崩壊現象を見ることにします。以下の地上写真は2020(令和2)年3月に撮影したものです。(上述のとおり、この段付きは水害時のものと復旧堤防完成時のものでは位置がずれるのですが、概略同じものとして記述します。)
まず、対岸(右岸21.0〜20.75k付近、常総市篠山から蔵持にかけて)の堤防上から撮影した写真です(右下)。全体が見渡せるように右岸高水敷の樹木を避けたため、かなり下流に寄って斜めに見ています。
ダンプ道路から第2の段付きを斜めに降ってくる坂路が、衛星写真の黄文字「あ」、地上写真の白文字「あ」です。ダンプ道路を下流方向に進み、第1の段付きを斜めに降る坂路が、衛星写真の黄文字「い」、地上写真の白文字「い」です。
両写真ともに、緑実線が第2の段付きの上段面、緑破線が下段面です。あとで見ますが、段差は約4mです。2013−14年に、この地点の高水敷をこの深さまで掘削したということです。
坂路「あ」を降りきったあたりに崩落防止のために崖下に並べられた27個の土嚢があるのですが、草の陰になっていて見えません。
上流側に移動し、望遠レンズで寄ります。
21kの線を赤線で示します。左岸の21k距離標石から、27個の土嚢のちょうど中程を通り、岸辺の目印の赤リボンまでです。
岸辺の赤リボンは、2019年7月7日に実施された水防訓練の際に、自衛隊がピッタリ21k地点で両岸を結ぶ船橋を架けた時のものです。また、その時の草刈りのおかげで、地表面の形状がきわめてよくわかります。
堤防の高さは、最初に見た鹿島の説明看板によれば5.4mです。第2の段付きは約4mです。(土嚢は写真のとおり、横幅1mになるように置かれています。測量しなくても対岸から水平に撮影した写真で崖の高さがわかります。)
水防訓練の際の赤リボンが立てられている、砂州だったところの端部です。
もともとここには分厚い砂の層が堆積していたのです。河床も水位(水深ではなく水面の標高)も現在よりずっと高かったのです。ところが、上流にダムを設置したために砂の供給が絶たれたのに、高水敷と砂州における大量の掘削がおこなわれ、とりわけこの左岸21k付近では2013−14年の徹底的な採掘のためにほとんど砂の層がなくなり、その下層の沖積粘土層が露出しています。
渇水期にぎりぎりまで寄って見下ろすと、水面下数10cmまで透けて見えるのですが、ストンと切り立っているのが見えます。
赤リボンと、対岸の篠山水門です。外装の補修工事中です。その下流が右岸堤防の21k地点です。
この写真だと、一見砂が堆積しているようにみえますが、ほんの表面だけです。2013−14年に採れるだけ採り尽くしたのです。
本項目の1ページで見た1948年に占領軍が撮影した航空写真です(1948〔昭和23〕年1月5日、国土地理院・USAR793102)。
下に、中央やや右の21k付近を拡大したうえで、左岸の赤リボンが立っている地点に黄丸をつけました。砂州のど真ん中だったところです。(砂利ではなく、砂です。)
現状からは、到底想像もつかない景観です。
右岸で合流する小さな川は将門(しょうもん←平将門)川です。篠山(しのやま=地名)水門はまだありません。
2019(平成31)年4月13日のグーグルの衛星写真にはなかった開口4です。2020(令和2)年3月の状況です。
パイプが差し込んであるのは、吹き出してきた水を排出するためのものです。河道側から洗掘侵食を受けてできたのではなく、堤内側から水が吹き出し、あわせて下層の砂が流出し、表層の粘土・シルト混じりの土が崩れ落ちてできた開口です。測定棒は白と黄それぞれ1mで全長5mです。
なお、道路上の分厚い泥(砂混じり粘土)は、2019(令和1)年10月13日の台風19号による洪水が残していったものです。段付きの上のダンプ道路などの泥は撤去したのですが、ここは残っているものです。開口4から吐出したものではありません。
以上の4ページで、航空写真・衛星写真の残っている1948(昭和23)年から現在までの、三坂の高水敷と砂州の変遷を一覧しました。
以上の予備作業をふまえ、前項目「まさかの三坂」で注目した住宅9脇の水煙現象を手掛かりにして、2015年9月10日に三坂21k付近で起きた現象の意味するところについて、総合的に推測することにします。
鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因