特別権力関係論の放棄
永塚校長は、茨城県立古河第三高校の全教員に『新学校管理読本』のコピーを配布し、そこにわざわざ「校長見解ではなく文科省見解」と記入した。舌足らずだが、「校長見解であるだけでなく文科省見解でもある」との趣旨だろう。しかしながら、札幌高裁判決の引用を中心とする188–190ページの記述を単純に「文科省見解」と言えるかどうか、少々検討が必要である。話は簡単ではないのだ。
永塚校長がその一部をコピーして配布した『新学校管理読本』第三次全訂版(1997年)を初版(1969年)や第二次改訂版(1978年)とくらべると、構成が大きく異る。初版と第二次改訂版は、「営造物としての学校」と題して、「特別権力関係論」について16ページを費やして詳細に論じている。すなわち、「営造物の利用関係は〔……〕原則として私法関係なのである」(初版、39頁)としたうえで、「学校教育が、一般住民の教化及び人格育成活動という強度に倫理的な性格を有するものであることにより、〔……〕一種の公法上の特別権力関係を形成すると解されている」(40頁)という。
さきに見たとおり、「特別権力関係論」においては、国公立学校や国立病院などにおける営造物利用関係は民法などの「私法」の適用されない「公法」上のものとされ、学校・病院は学生生徒・入院患者に対して法律上の根拠なしに特別な権力を行使しうるとされるのであるが、『新学校管理読本』は、「営造物の利用関係は〔……〕原則として私法関係なのである」とする。これでは前提条件が否認され「特別権力関係論」の成立の余地はないのだが、『新学校管理読本』はそんなことはおかまいなしに、別の論拠をつくりあげる。
すなわち、学校教育は「倫理的性格」を持つので「一種の公法上の特別権力関係を形成すると解され」るのだという。奇妙な説である。そのほか、教育委員会は「営造物」である(28頁)とか、「児童生徒が学校内に持ち込んだナイフやパチンコの玉などを取り上げて保管する」場合のように営造物権力は「物に対して発動される」こともある(42頁)などの珍説を展開する。
『新学校管理読本』の「特別権力関係論」における支離滅裂な主張の数々はまことに興味深い。このようなことを言う行政法学者がいるのであれば是非とも勉強したいのだが、出典や引用文献が一切示されていないためこれ以上調べようがないのが残念である。
それはともかく、永塚校長がコピーした『新学校管理読本』第三次全訂版では、この珍説「営造物としての学校」全16ページは全部削除された。それ以外の部分に「特別権力関係論」を前提とする主張が散在しているので、文部科学省が「特別権力関係論」についてきちんと検討して全面的に整理したというのではないようだが、すくなくとも露骨な「特別権力関係論」を16ページにわたって延々述べるのはいくらなんでもまずいと判断したのだろう。
とりあえず、『新学校管理読本』は当初の少々ユニークな「特別権力関係論」を放棄したとみて差し支えない。
しかしながら、この『新学校管理読本』第三次全訂版に札幌高裁判決が引用されているので少々話がややこしくなる。『新学校管理読本』は、時代錯誤の「営造物としての学校」全16ページを削除して、一応特別権力関係論を清算する一方で、特別権力関係論のうえに立って独自に研修承認要件を追加した札幌高裁判決を掲載している。首尾一貫しない編集方針である。
執筆した文部省地方課の職員らは、一応は判決の全文に目を通したのだろうが、特別権力関係論が主たる論拠になっていることには特段留意しなかったとみえる。「羈束」を「拘束」に書き換えたうえで(さらに一か所写し間違って)、本文中に引用することにした。
文部大臣の国会答弁
「特別権力関係論」をめぐって、裁判所と行政機関が共同してつくりあげた混乱状況に、さらに国会も参加する。
1999(平成11)年8月13日、参議院の「国旗及び国歌に関する特別委員会」における審議の過程で、江田五月議員(民主党)が特別権力関係論について有馬朗人文部大臣に質問した。「君が代」の歌詞を解釈する権限はどこにあるのかを問題にする質疑の中でのことである。
さて、文部大臣、最終的に国民の解釈、そして学校現場ではということになるんですが、学校現場の校長と教師とか、あるいは教師と子供とか児童生徒とか、この関係について、よくこれは特別権力関係なのだからというような説明がなされることがある。文部省はそういう説明をしたことはないというふうにも聞くんですが、特別権力関係、これはおとりになるのかとられないのか、端的に答えてください。
江田五月は、(1)校長と教師との関係、(2)教師と児童生徒との関係を、それぞれ「特別権力関係」としてとらえるのか否かを質したものである。しかし、それをいうなら(1́)行政当局と公務員たる教員との関係、(2́)営造物たる学校と利用者である児童生徒との関係というべきである。
また、前述のとおり文部省が戦後の一時期まで「特別権力関係論」を吹聴していたことは明らかで、文部省はそういう説明をしたことはないと聞いていると江田が言っているのは、わざとトボケているのかもしれないが、事実に反する。それはともかく、「特別権力関係論」の立場にたつのか否かと、端的に質問された有馬朗人文部大臣は次のとおり答弁した。(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/145/0044/main.html)
文部省といたしましては、公立学校の校長と教員、あるいは教員と生徒の関係を特別権力関係とはとらえておりません。
裁判官出身の江田五月(その後法務大臣)にしてこの程度の厳密さを欠く質問をおこない、物理学者および俳人の有馬朗人が不正確な用語をそのまま使って答弁する。さきに見たように札幌高裁判決は、官吏の雇用関係と営造物利用関係を混同・合成したうえで、さらに、営造物たる学校の本属長と、営造物の人的要因たる教員との間の特別権力関係という新説を打ち出したが、それと同一の錯誤である。日本国の「三権」が揃いも揃って同じ誤りに陥っていることになる。
そうはいってもまさか有馬文相は、(1)公立学校の校長と教員、ならびに(2)教員と生徒の関係は特別権力関係ではないが、(1́)行政当局と公務員たる教員との関係、ならびに(2́)営造物たる学校と利用者である児童生徒との関係は特別権力関係であると言っているわけでもないだろう。ここでは一応、1999年の時点で文部省(現在の文部科学省)がはっきりと「特別権力関係論」を否定したと受け取っておこう。
永塚校長が「校長見解ではなく文科省見解」と注記した札幌高裁判決の引用を中心とする『新学校管理読本』の該当箇所の記述は、単純に「文科省見解」と断言べきではなかったと結論づけるのが妥当だろう。
特別権力関係論に関連する問題
以上、茨城県内の一校長が「自宅でなければならない理由」なる奇怪な要件を持ち出して、結局のところ真剣に研修にとりくむ教員の熱意に水をさした事例をきっかけにして、教育公務員特例法第22条の規定する「勤務場所を離れて行う研修」に関する法令解釈について、ひととおり検討してきた。
今回、一校長の言動を機会に改めて検討することになり、「特別権力関係論」はじつは学校教職員が現在直面している諸問題に幅広く関連していることに気付かされた。行政当局は今もさまざまの場面で、「特別権力関係論」でしか説明のできない誤った主張、たとえば行政機関の「自由裁量権」というまやかしの論理をふりかざし、みずからの違法不当な行政行為を正当化したつもりでいるのだ。
(おわり)