〈道徳〉教材としての杉原ビザ
小学校や中学校の「道徳の時間」において杉原千畝が取り上げられる場合、教員はまず約600万人に及ぶ犠牲者数や写真資料を示して「ホロコースト」について説明したうえで、杉原が約1か月にわたって二千通以上のビザを発給することで、約六千人のユダヤ人の逃亡を助けてその命を救ったことを示すのが通例である(たとえば、www.page.sannet.ne.jp/tate-y/sugi1sensai.htm)。
領事代理杉原千畝は、外務大臣の訓令に違反し個人としての決断によりビザを発給したことで、外交官としての地位を危うくするだけでなく自らの安全をも危険にさらした。したがって杉原の行為は自己犠牲的な〈道徳〉的行為としてとらえることができるのであり、たとえば「自分であればそのようにするか」と児童生徒に問いかけることが可能となる。こうして杉原千畝の物語は〈道徳〉教材として成立するのである。
〈道徳〉教材においては、題材として提示された状況において道徳的に善である行為をすることも、逆にしないことも、いずれも可能でなければならない。これから為そうとする事柄に関して自由意志にもとづく選択が可能であることが前提となる。もし、ある場面でとりうる行為がただひとつに限られていて、異なった行動をとる可能性がまったくないという場合、当事者がどのような行為をしたかについての物語は〈道徳〉教材にはならない。
選択の余地があったとしても、道徳的に善とされるほうの選択肢には顕著な困難性があり、個人的な不利益が伴うのでなければならない。杉原千畝の例においては、もしビザ発給にいささかの障害もなく、そのことで自分の経歴に疵がつく可能性も皆無であった場合、〈道徳〉教材にはならない。
国粋主義団体「日本会議」の上杉千年が主張したように、杉原千畝は「八紘一宇(はっこういちう)」の国是にしたがってビザを発給したのだとすると、一官吏が国家方針に従って職務を遂行したというだけの話になってしまう。官吏としての義務に反することもなく、個人としての「決断」の入り込む余地はない。これでは〈道徳〉教材とはなりえない。
あるいは、日本に滞在したことのあるユダヤ人マーヴィン・トケイヤーが言うように、外務大臣訓令には違反するけれども天皇の意思には合致すると杉原千畝が判断してビザを発給したのだとすると、すなわちもし天皇がこのような場面に立ち会ったとするならばそうしたであろうと考えてビザを発給したのだとすると、杉原は個人として「決断」したのではなく、天皇の判断(と考えられるもの)に忠実に付き従って行動しただけのことになる。これもまた、〈道徳〉教材とはなりえない。
職務として国家方針(とされるもの)を遂行するにせよ、あるいは天皇の判断(と考えられるもの)に忠実に従うにせよ、そのように行動することを、すでにあらかじめ決定しておく必要がある。それはそれで道徳的選択と見えないこともないが、最初の一回だけの道徳的選択で、以後の全行動方針が決まってしまうような安易な生き方を道徳的なものと看做すことはできないだろう。むしろ、反-道徳的といわざるをえない。
杉原ビザの物語とホロコースト
道徳的には妥当であるけれども自己にとっては不利益となる行為(1)と、自己利益を優先して道徳的に妥当な行為を回避すること(2)とのいずれかの選択を迫られたうえで、道徳的に妥当な行為(1)を選びとるという〈道徳〉教材の枠組みにしたがって杉原千畝の「決断」について考える場合、どのような状況下で行為の選択がなされたのかがきわめて重要である。
ホロコーストはナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺であるが、犠牲になったユダヤ人の大部分はドイツに住んでいたユダヤ人ではなく、ほとんどはドイツが占領した東ヨーロッパ地域のユダヤ人であった。アウシュヴィッツ収容所はドイツ国内にあったのではなく、ドイツが占領したポーランド南部に設置された。
1940年末までに殺害されたユダヤ人は10万人以下である。1941年6月の独ソ戦開始によりドイツは東ヨーロッパの1000万人のユダヤ人を支配下においた。600万人といわれる虐殺の大部分は、それ以降のものである。
ホロコーストはヒトラー政権が成立した1933年に始まるのではない。ホロコーストは1938年11月の「水晶の夜」から始まるのでもない。「水晶の夜」はその後のドイツ国内でのユダヤ人襲撃事件のはじまりとされ死者は100人にのぼるが、ピークの1942年には1年間で270万人すなわち1日あたり数千人を近代的技術と組織により連続的に殺害したホロコーストと同列にとらえることはできない。
杉原が道徳的決断を迫られた1940年7月末においては、600万人のユダヤ人殺戮は、これから起こることであって未だ事実として存在しない。それまでの経緯から見て、事態は切迫しており東欧のユダヤ人が極めて危険な状況に置かれるであろうことは懸念されていたが、東欧のユダヤ人の半数以上が数年以内に虐殺されるであろうことが予想されていたとはいえない。
1940年7月末の時点で杉原千畝が直面していたのは、1933年に国民社会主義ドイツ労働者党(Nazi)が政権について以降、ユダヤ人迫害がはじまったこと、そして1939年9月のポーランド侵攻により、300万人以上のユダヤ人が居住するポーランドのうち西半分がドイツ軍の占領下におかれ、逃亡した一部のユダヤ人が、ポーランドの東半分とともにソ連の占領下におかれたリトアニアに到達し、一部はパレスティナに一部は他の地域への脱出を願っているという状況だった。
〈道徳〉教材としての杉原物語において道徳的「決断」の背景として児童生徒に示されているのは、杉原千畝が1940年7月下旬当時に実際に直面した状況ではなく、ホロコーストというそれ以降のできごとである。〈道徳〉教材における杉原千畝は、あたかも20世紀末以降の視点に立って道徳的「決断」をおこなっているかのごとくである。杉原ビザを題材とする〈道徳〉教材におけるこのような時代錯誤は、ひろくみられる現象である。現在のわれわれが杉原千畝のビザ発給について歴史的に検討する上では、それ以降生起する事象と関連づけることも当然必要である。しかし、〈道徳〉教材において道徳的「決断」の時点での背景事情としてまだ生起していない事象を児童生徒に示すのは妥当ではない。
イスラエル国家による杉原の顕彰
杉原千畝の死去から4年後、事件からちょうど50年後の1990(平成2)年、未亡人の杉原幸子が回想録を出版した(『六千人の命のビザ』、朝日ソノラマ)。杉原幸子は、1940年7月末に日本領事館の前に集まったユダヤ人についてこう書いた。
運良く逃げのびた人たちは、ドイツの勢力がまだ及んでいない北、この〔リトアニアの〕カウナスへ辿り着いたのです。日本を通過してアメリカ、イスラエルに逃れる道しか残されていなかったのです(21頁)。
アメリカとはアメリカ合州国のことと思われる。イスラエル国家の建国宣言は1948年5月であるから、1940年当時は「イスラエル」は存在しない。そのことを気にしたのだろうか、『ともに歩む』への収録に際して『六千人の命のビザ・新版』(1993年)の発行元である大正出版の渡辺勝正社長は「イスラエル」を「自由国」と書き換えたが、「自由国」が何をさすのかはっきりしない。
シオニズム運動の影響を受けたユダヤ人らが目指す移住先は、当時イギリスが管理しており、のちにイスラエル国家が樹立されることになる国際連盟の委任統治領パレスティナだった。シオニズムにおいては、パレスティナとその周辺地域は「エレツ・イスラエル」と呼ばれる。“イスラエルの地”という意味である。1990年時点で、杉原幸子はそれらを踏まえて「イスラエル」と書いたのであろう。1948年建国のイスラエル国家が1940年に存在していたと勘違いしたわけではあるまい。
ユダヤ人たちが恩人の杉原を探し出して再会を果たすことができたのは事件から実に28年も経た1968年のことだった、ということになっている。杉原に連絡してきたのは、事件当時ユダヤ人たちの代表として杉原との交渉にあたった5人のうちのひとりであるジョホシュア・ニシュリであった。彼は在日本イスラエル大使館職員として日本に滞在していた。というより、杉原との再会を演出するためにあらたに赴任したように思われる。「センポ」で探していたからみつからなかったというなら、永久に見つからないはずの「すぎはらちうね」が探し出され、劇的な再会をはたした。
翌年には、杉原は貿易会社社員として滞在していたモスクワから脚を伸ばして訪れたイェルサレムで、1940年当時杉原との折衝にあたった5人のうちのもうひとり、ゾラフ・バルハフティフと再会している。ゾラフ・バルハフティフは、イスラエル国家独立宣言の34人の署名者のひとりであり、長くイスラエル国会(クネセト)の議員をつとめ、当時は宗教大臣の地位にあったイスラエル国家の要人である。杉原千畝はたんに「再会」を果たしただけではない。日本人として唯一の「正義の異邦人(諸国民の中の正義の人々)」として顕彰され、ヤド・バシェム(イスラエル国立のホロコースト記念館)にその名が刻まれることとなった。あきらかにゾラフ・バルハフティフがその権限を行使して下した判断によるものである。
ホロコーストに注目してユダヤ人の悲劇性を強調したうえで、ホロコーストをくぐり抜けたユダヤ人によるイスラエル国家の樹立の正当性と必然性を謳い上げる物語が構築されたのであり、杉原千畝の物語はその文脈に位置づけられて語られるのだ。杉原の〈道徳〉教材において時代錯誤的叙述がおこなわれるにいたった原因はここにある。
シオニズムにおいて、ホロコーストとイスラエル国家建国を結びつける物語構造は、いつ、どのようにして作られたのだろうか?
恥ずべきものとしてのホロコースト
ホロコーストを生き延びたユダヤ人によるイスラエル建国という物語は、今日では当然のこととして受け止められているが、意外なことにホロコースト直後からそうであったわけではない。ホロコーストについて語ることが、そのつどホロコーストの被害者であるユダヤ人によるイスラエル国家樹立の正当性を論証するようになるのは、かなりの時間を経過した後のことであった。
アメリカ合州国在住のユダヤ人で政治経済学者のサラ・ロイの両親はポーランドにあった絶滅収容所に収容されたが、父は脱走して、母は使役労働のグループにかろうじて選別され生き延びた。両親の親類は百人以上が絶滅収容所で殺害された。そのサラ・ロイが言う。
まだ私が幼い頃や若い頃には、イスラエルにいる友人らからホロコーストについて何か聞くことなどめったにありませんでしたし、ときに耳にすることがあったとしても、ホロコーストの犠牲者や生き残りの人々は蔑視の対象にされていました。彼らは弱くて、無抵抗で、殺されるがままにされていたとみなされていて、社会の恥と言われていたのです。(サラ・ロイ、岡真理・早尾貴紀他編訳『ホロコーストからガザへ』2009年、青土社、
244頁)
私にとってつらかったのは、私のイスラエル人の友人たちの多くがホロコーストや、イスラエル国家ができる前のユダヤ人の生活を冒瀆することでした。彼らに言わせると、それらの時代のユダヤ人は、で、受身で、劣っており、無価値で、尊敬に値せず、蔑まれて当然の恥ずべき存在なのでした。(181頁)
1955年にアメリカ合州国で生まれたサラ・ロイの「幼い頃や若い頃」「十代の頃」とは、おおむね1960年代のことだろう。当時のイスラエル国家において、ホロコーストは無視されるか、言及されるにしても恥ずべきものとみなされていたのだ。同じくアメリカ合州国在住のユダヤ人で政治学者のノーマン・フィンケルスタインによると、合州国では第二次世界大戦後しばらくの間、ホロコーストは忘れられていたという。
アメリカのユダヤ人エリートたちがナチのホロコーストを「忘れた」のは、ドイツ(1949年に西ドイツ)がソビエト連邦と対立するアメリカにとって戦後の重要な同盟国になったからだ。過去をほじくり返すことは無益であり、問題を紛糾させるのだ。(Norman G. Finkelstein, The Holocaust Industry, 2000, second paperback edition 2003, New York, p. 14.)
ホロコースト観の転回
戦後しばらくの間はもっぱら無視されるか、言及されるにしても恥ずべきものとされていたホロコースト観が百八十度転換し、軽蔑されていた犠牲者や生還者たちがこんどはイスラエル建国の礎として尊重されるようになる。この転換は日時を特定できる一回限りのできごととして起きたわけではもちろんないが、1967年の第三次中東戦争が重大な画期だったようだ。フィンケルスタインは言う。
1967年6月のアラブ–イスラエル戦争ですべてが変わった。〔……〕彼ら〔アメリカのユダヤ人エリートたち〕の新しいパトロンとしてのイスラエルは、アイヒマン裁判〔1961年〕のあいだナチ・ホロコーストを利用した。役に立つことが証明されたので、アメリカのユダヤ人組織は六月戦争〔第三次中東戦争〕以後はナチ・ホロコーストを利用することにした。ひとたびイデオロギー的に鋳造し直すと〔……〕ザ・ホロコーストはイスラエルへの批判をそらすための完璧な武器になることが証明された。(ibid., pp. 16, 30.)
「イスラエルへの批判をそらす」とは具体的にはどういうことか?
そのホロコーストが、イスラエル国家がパレスチナ人を弾圧する政策を正当化するのに利用されるようになっていくわけです。(サラ・ロイ、前掲書、244頁)
1948年の国家設立とそれに続く第一次中東戦争から20年近く経過し、イスラエル国家にとって2度目の戦争である第三次中東戦争が始まる。周到に準備された奇襲攻撃によって戦端が開かれた。イスラエル国家における名称である「六日間戦争Six-Day War」のとおり、イスラエル軍は短時間のうちにシナイ半島・ガザ・ヨルダン川西岸・ゴラン高地そしてなによりイェルサレムの全域を支配するにいたった。それは、今日に至るイスラエル国家の歴史上、国家樹立と並ぶもっとも輝かしい出来事だった。
この第三次中東戦争が引き起こした高揚について、反シオニズム運動「ネトゥレイ・カルタ」のルート・ブロイが次のように言ったという。
1967年のあの大騒ぎと、1940-45年、ホロコーストを巡るシオニズム指導者たちの死の沈黙—その現実について彼らが隅々まで知り尽くしていたにもかかわらず—は、なんという好対照を描き出していることであろう。(ヤコブ・ラブキン、菅野健治訳『トーラーの名において』2010年、平凡社、285頁)
アメリカ合州国在住のユダヤ人で哲学思想研究者のジョナサン・ボヤーリン(1956年生まれ)は、次のように言う。
ニュージャージーにあるユダヤ人用ので育った私自身の記憶によれば、1939年から45年にかけてユダヤ人が被った経験は、それ自体が「戦争」と呼ばれていた。わずか数十年足らずで、「ホロコースト」は、第二次世界大戦とレトリック上は別の現象として分類されるようになったわけだ。この数十年というのは、生存者の体験が沈黙すべき恥辱から英雄的礼賛の対象へと変貌した時期であるが、ナチスによる虐殺のなかでとくにユダヤ人の体験だけが取り上げられ、それが、(ファシズムと共産主義から世界を救った者としての)アメリカと自由主義同盟における公の集合的記憶へと統合されたのも、現にこの時期だったのである。(ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』、赤尾光春・早尾貴紀訳、2008年、平凡社、188-89頁)
「ホロコーストを巡るシオニズム指導者たちの死の沈黙」とか、「第二次世界大戦とレトリック上は別の現象として分類される」などの重要な論点については後ほど検討することとし、今ここでは、ホロコーストから数十年を経過した後、とりわけ第三次中東戦争の時期にホロコーストに関する言説が転回したことに注目しよう。
『全体主義の起源』(1951年)や『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)の著者としてあまりにも有名なハンナ・アーレントはその晩年、第三次中東戦争に際して、イスラエル国家の戦勝を喜んだという(早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ』、2008年、青土社、122頁)。アーレントはシオニスト国家イスラエルに対しては、個別の事柄について多少批判的なことを言ったことが時々はあったが、シオニズム自体に批判的であったのではない。シオニズム支援を続けながらも、イスラエル国家への移住はせずディアスポラの境涯に止まったアーレントが「大騒ぎ」してしまうほどのインパクトが、「六日間戦争」にはあったのだ。
イスラエル批判のたかまり
圧倒的勝利によってイスラエル国家の存立はやっと安定したように思われた。しかし国家存立の軍事的基盤の強化によって、むしろイスラエル国家に対する国際的批判が強まることになった。
第三次中東戦争以前のイスラエル国家の領域自体が、1948年の独立戦争による軍事占領地であった。ヨーロッパからの「移住(アリヤー)」により急増したとはいえ、委任統治終了時点のパレスティナに居住していたユダヤ人は、約55万人に過ぎなかった。アラビア人(パレスティナ人)はその3倍の人口を擁していたが、独立に先立つ武力攻撃とそれが引き起こしたパニックによる脱出、さらに独立宣言と同時に開始された軍事攻撃により、80万人以上が追放された(藤田進『蘇るパレスチナ』1989年、東京大学出版会、225頁)。
そのイスラエル国家が、「六日間戦争」によってさらに広大な地域を軍事占領するにいたった。第一次中東戦争後にエジプト領となったガザ地区と、ヨルダン王国領となったヨルダン川西岸地区には、1948年にイスラエル国家から追放された難民が多数居住していた。彼らとその子孫のうち40万人以上が占領地外へふたたび難民として追放されたほか、ガザと西岸に残った100万人近くがイスラエル国家の軍事占領下に置かれた(イェルサレムは併合)。
パレスティナ人は、イスラエル国家において差別されて居住するほか、軍事占領下のヨルダン川西岸とガザで、あるいはイスラエル国家とその占領地の外のヨルダン王国やレバノン、さらにアメリカ合州国などに逃れ難民となるなど、さまざまの境遇で生きることとなった。
ムーサ・アラミ(1897-1984)は、1948年のイスラエル国家樹立によりヨルダン川西岸のエリコ(有名な合唱曲「ジェリコの戦い」に歌われる古代以来の都市)に移り住んだのち、さらに1967年の第三次中東戦争で軍事占領下におかれた。
1948年、エルサレムとガリラヤ〔パレスティナ北部〕にあった資産の大半を失った彼は、エリコに移り住み、ヨルダン政府から五千エーカーにのぼる砂漠地帯の土地を譲渡された。そこで水脈をみつけ、大農場とパレスチナ難民の子供たちを対象にした学校を設立した。いずれも順調に運営されていたが、1967年にイスラエル軍が侵攻し、農地の3分の2をつぶし、27本の井戸のうち26本を破壊した。イスラエル軍は組織的に灌漑施設、建造物、井戸掘り用ボーリング機械を打ち壊した。農地の大半はたちどころに砂漠の状態に逆戻りした。〔……〕
かつてバナナ農園とトマト畑があった場所は、いまは見る影もない砂漠となり、ズタズタの有刺鉄線の束、こわれたパイプ、荒れ果てたボロ屋が放置されている。(D. ギルモア著、北村文夫訳『パレスチナ人の歴史』1985年、新評論、198-99頁)
ガザ地区はさらに悲惨な状況に置かれた。後にイスラエル国家の首相となるシャロンが1969年にイスラエル国防軍の南部司令官になった。
シャロンは〔……〕ガザ地区を約10キロごとに分割し、統治を容易にしようとした。ガザ地区は、南北こそ40キロを超えるものの、東西は概ね10キロくらいの南北に細長い回廊である。シャロンは、この長方形の回廊を管理するために〔ユダヤ人の〕入植地を配備した。その後ガザ地区は金属製の柵で囲われ、数カ所しかない外部への通行路には検問所が設けられた。〔……〕
ガザ地区での「反開発」の決め手となったのが、イスラエルによる占領が始まった当初に設置された、北部地区にあるイスラエルとの境界近くに位置する「エレツ工業団地」である。2005年の〔イスラエル国防軍の〕ガザ撤退まで存在したこの工業団地は、イスラエル国防軍によって運営され、ガザ地区の経済を弱体化させる装置として見事に機能した。また、同所の経済をイスラエル経済の下部に置くという従属関係を固定化させた。(サラ・ロイ、前掲書、119-20頁)
第三次中東戦争の圧勝は、結果的にシオニズム国家イスラエルに対する国際的非難を昂進させた。その時、これまで無視され恥ずべきものであったホロコーストが想起され、イスラエル国家を正当化するための歴史的資産に転換した。すなわち、ホロコーストの被害者としてのユダヤ人には、パレスティナ(=「エレツ・イスラエル」)を領有しそこにイスラエル国家を樹立する権利があり、それ以外にかれらの生存を保障する方法はないのだ、という反論を許さない主張が前面に押し出されるようになったのだ。
唯一無二のホロコースト
ホロコーストから約20年後、1967年の第三次中東戦争を画期に、シオニズム運動とイスラエル国家のホロコースト観は大きく転回した。忘却されていたものが想起されただけでなく、ホロコーストは恥ずべきものからユダヤ人国家樹立を根拠づける重要な資産へと転換した。
そして、ホロコーストは「唯一無二」のものとして、すなわちユダヤ民族以外のいかなる民族も経験したことのない歴史的事象として、人類史上いかなる時代にもおこなわれたことのない比類のない事件として表象される。ホロコーストはほかの事実と比較可能な相対的な事件ではありえないし、同列に論ずることもできないとされるのである。
この「ホロコースト=唯一無二」論が形成された経緯についてみてゆこう。
イスラエル国家は1960年、ゲシュタポの「ユダヤ人課」課長としてユダヤ人の強制収容所・絶滅収容所への移送を担当し、敗戦後ドイツを脱出しアルゼンチンで生活していたアイヒマンを街頭で拉致し、薬物で昏睡させイスラエル国営航空会社の旅客機で出国させた。翌1961年イスラエル国家は、国内でアイヒマンを裁判にかけて死刑を宣告し、処刑した。アメリカ合州国在住のユダヤ人ハンナ・アーレントは、『ザ・ニューヨーカー』の特派員としてイェルサレムに派遣され、裁判を取材した。こうして成立したのが『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)である。
ホロコーストについてアーレントはいう。
「政治的にも法的にもこれらの犯罪は、単にその重大性の度合いのみではなく本質も異なる犯罪だったのであ」り、「こういう犯罪は犯罪的な法律のもとに犯罪的な国家によっておこなわれた」(大久保和郎訳、みずず書房、202, 206頁)。
この犯罪は、「パルティザンの射殺や人質の殺害のような通常の戦争犯罪」ではないし、「植民による国土拡張といったような、犯罪的であるが既知の何らかの目的のためにおこなわれる」「〈非人間的行為〉」とも異なる。この犯罪は、「侵略者による植民を可能にするための住民の〈追放や絶滅〉」であり、「先例のない意図や目的を持った〈人道に対する罪〉」なのだ(212頁)。
ナチス・ドイツは、「犯罪的な原理に拠って立つ国家」、「犯罪が合法的とされ常態とされているような政治秩序」(224頁)であり、そのような国家の一員として、「アイヒマンはユダヤ民族に対する罪、すなわちいかなる功利的目的によっても説明され得ない罪に問われていた」(212頁)とする。
ところが、アーレントに言わせると、このようなホロコーストの特徴がまったく理解されていない。すなわち、「関係者は一人として、過去のすべての残虐行為とは性格を異にするアウシュヴィッツの実際の惨事を理解するに到ってはいない」(206頁)。これは、1961年のアイヒマン裁判に始まったことではなく、連合国軍がヨーロッパにおけるナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いた国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判、1945-46年)においてもそうだったという。ホロコーストは戦争犯罪ではないにもかかわらず、通常の戦争犯罪から峻別されず、混同されていたというのである。
戦争とは全く関係がなく、従ってそれをおこなうことは事実上戦争遂行に支障を来すほどだったこの罪を、他のいろいろの戦争犯罪と関連させて扱うことを〔ニュルンベルク〕憲章が要求していたからなのだ。(199頁)
「つくる会」教科書とホロコースト
この「ホロコースト=非・戦争犯罪」論は、「ホロコースト=唯一無二」論の必然的帰結である。「唯一無二」であり、比較可能なものが存在しないのであれば、当然、従来あった通常の一般的な戦争犯罪とも全く異なっていなければならないからだ。
「ホロコースト=非・戦争犯罪」論は、いかなる機能を果たすのかをみてゆこう。
ハンナ・アーレントが普及させた「ホロコースト=非・戦争犯罪」論を、そっくりそのまま利用したのが「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹二(電気通信大学教授、ドイツ文学)である。西尾は著書でこう言う。
ナチスの行為は殺人それ自体が目的で、戦争行為とはいえないから、その犯罪もまた戦争犯罪とはいえないのである。」(『異なる悲劇 日本とドイツ』1994年、文藝春秋、26頁)
「つくる会」教科書のうち西尾が執筆した部分は、中学生にこう説く。
ナチス・ドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行った。これは、ナチス・ドイツが国家として計画的に実行した犯罪で〔あり〕、戦争にともなう殺傷ではない。(『日本人の歴史教科書』2009年、自由社、214頁)
さきに「つくる会」教科書と西尾幹二について検討した際、西尾は1980年代の西ドイツにおける「歴史家論争」からヒントを得たのではないかと指摘した。それもさることながら、じつは西尾は言葉いまでそっくりそのままアーレントを踏襲していたのである。アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の出版は1963年で、邦訳はさほど間をおかず1969年に発行された。ホロコーストが戦争犯罪ではないという西尾の唐突で逆説的な主張にはこのような背景事情があったのだ。
しかし、西尾はホロコーストに主たる関心があるわけではない。西尾がホロコーストに言及するのは、つまるところ次のように主張することが目的である。
テロが支配の手段ではなく、〔ドイツのような〕テロそのものを固有の本質とするような運動体としての全体主義は日本には無縁であった。(西尾、23頁)
つまりこういうことである。—大日本帝国が戦争に際しておこなったのは、せいぜい通例の戦争犯罪に過ぎず、ドイツのような人道に対する罪ではない。大日本帝国は、ドイツがおこなったホロコーストのような人道に対する罪とは無縁である。たとえば南京虐殺事件(1937〔昭和12〕年)は、いかなる戦争においても起きる通常の戦争犯罪のひとつにすぎず、ホロコーストと同列に論ぜられるようなものでは絶対にあり得ない。なぜならば、ホロコーストは「唯一無二」のものなのだから!
アーレントの主著『全体主義の起源』(1951年)における「全体主義」とは、ソ連とナチス・ドイツにおけるものであって、大日本帝国は考慮の対象外である。「つくる会」の教科書は、「共産主義とファシズムの台頭」として、スターリンのソ連とヒトラーのドイツを大きく取り上げるが、大日本帝国には言及しない(192-93, 214頁)。アーレントの『全体主義の起源』と「つくる会」の『新編 新しい歴史教科書』の歴史観は、この点でまったく同一である。
アーレントは、大日本帝国を免罪することを主たる目的としてこの「ホロコースト=唯一無二」論と「ホロコースト=非・戦争犯罪」論を提唱したのではないだろう。しかし、西尾幹二の主張する「南京事件=通例の戦争犯罪」論と「大日本帝国=非・全体主義」論は、アーレントが唱導する「ホロコースト=非・戦争犯罪」論の直接的帰結であり、したがってその論理的前提である「ホロコースト=唯一無二」論によって、すでにあらかじめ用意されていたと言うほかないのである。
(終)