3 ボストン美術館職員岡倉覚三

フェノロサの「ロマンス」


 「夢殿開扉」事件から5年後の1889(明治22)年、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)が開校し、岡倉は翌年、校長に就任する。一方、帝国臣民でないフェノロサは「雇」の身分で、ふたりの立場は完全に逆転した。日本美術を礼賛する先駆的な白人イデオローグとしてのフェノロサの役目は終わり、美術学校の予算の半分に及ぶ高給が学校運営の障害とみなされた。フェノロサは退職に追い込まれ、勲三等瑞宝章を餞別にアメリカに帰国した(フェノロサ37歳、岡倉27歳)。

 岡倉が15歳で出会ったフェノロサは、彼にアメリカ人並みの(当時の日本人としては並外れた)英語を習得させ、古美術品鑑定の要諦を叩き込み、人生の帰趨を決定づけた。岡倉は、フェノロサを超え精神的父親からの独立を果たしたと感じたかも知れない。しかしフェノロサは、その後も岡倉に生き方の模範を示し続け、岡倉はその“呪縛”から抜け出すことはついにできなかったのである。

 故郷マサチューセッツに戻ったフェノロサの生活は、日本滞在中に収集した質的にも量的にも卓越した日本美術コレクションによって保証された。まず、安値で買い叩いた「1000点以上の」一流品群を、1885(明治18)年に友人で大富豪のウェルド先生に高額で譲渡し、ひと財産を築いた。

 それだけではない。「ボストン茶会」(1773年)でアメリカ植民地の「独立」への方向性を決定づけたボストン市に、アメリカ独立宣言百周年を記念する1876(明治9)年、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)が私立の美術館として開館していた。そこに、 1888(明治21)年、ウェルドとビゲローの日本美術コレクションによって、ボストン美術館日本部(現在の東洋部〔アジア美術部ともいう〕)が設置された。しかもフェノロサがウェルドに売却した日本美術コレクションは「フェノロサ・コレクション」と呼ばれることになっていたのである。

 その日本美術コレクションの整理と紹介の仕事が、12年の滞日経験を持ち、「フェノロサ・コレクション」をつくりあげた本人であるフェノロサに委ねられることになった。彼はボストン美術館日本部長に就任した。

 すべてがうまくいった。しかし、旧弊なボストン社会で、富裕層社交界の贅沢な趣味に立脚する美術館に職を得たことは、危険要因をはらんでいた。フェノロサは、その姓から判るとおりスペイン系に属する民族的・宗派的少数派だったうえ、父の死因(自殺)がキリスト教道徳の点からおおいに非難されるべきものだった。故郷マサチューセッツはフェノロサにとってはけっして居心地のよい土地ではなかった。それが名門ハーバードを卒業しながら故郷を離れて、遠い日本にまで行った理由だった(久我なつみ『フェノロサと魔女の町』、1999年、河出書房新社、pp. 82-91.)。

 こうして、故郷に舞い戻ったフェノロサの冒険譚 romance が始まる。1895年、部長秘書のメアリ・スコット夫人との不倫が発覚した。原理主義的プロテスタンティズムの支配的な地域柄にそぐわない、致命的な失態だった。フェノロサ部長は休職処分を受ける(岡倉の東京美術学校長非職〔休職〕処分の3年前)。

 さらに、フェノロサは、妻に提訴された裁判で敗れ、賠償金支払いのために多額の債務を負った。そのうえ、著書〔『浮世絵の巨匠展・解説目録』、1896年〕にボストン美術館所蔵の浮世絵の写真を無断で掲載したことが問題となり、免職となった(フェノロサ 『日本浮世絵史』、2008年、新生出版、高嶋良二「訳者あとがき」、p. 156.)。

 フェノロサは、職探しのため何度も日本を訪れ、岡倉に斡旋を依頼したが無視された。カネに困り、手元に残しておいた日本美術を後輩の美術品コレクターのフリアーに売却した。しかし、ついに、再婚して妻となったメアリの小説がヒットし、かなりの印税を得た。1900年にはフェノロサ自身がコロンビア大学教授に就任し、二人の生活はやっと安定した。そしてヨーロッパ旅行中の1908年、「日本美術の恩人」フェノロサは、ロンドンにて55歳で客死する(岡倉の死の5年前)。

 未亡人のメアリは、夫の遺稿 Epochs of Chinese and Japanese Art から、Mr. Okakuraの名をほとんど削除したうえで、1912年に出版した。師を裏切った岡倉天心はメアリに嫌われたために、「一生の最快事」たる「夢殿開扉」の場面において、匿名の「ひとりの日本人の同僚a Japanese college」(p. 67.)として登場するにとどまった。



野にくだった帝国官僚岡倉覚三


 職務に関連して不法行為をはたらき、私生活上で身の破滅を招くような問題を起こすという師フェノロサの行動特性は、そのまま弟子の岡倉にも現われる。

 30歳をすぎたころから、岡倉は上司の九鬼隆一の妻はつと不倫関係に陥った。別居して岡倉の自宅近くに越して来たはつの家に連日通いつめ、酒に溺れて傍目にも乱れた生活を送る。(はつは、九鬼とはつの息子の周造と同居していた。のちの京都大学哲学科教授、『「いき」の構造』の著者、九鬼周造である。)結果的にはつは精神を病み(躁鬱病か)、死の直前の1931(昭和6)年まで巣鴨脳病院で過ごすことになる。

 1980(昭和55)年、平凡社版『岡倉天心全集』別巻が出版され、掲載されていた年譜と系図(pp. 400, 441.)によって、岡倉の醜怪な行動が明らかになった。はつとの不倫の一方、岡倉は姪のさだ(異母姉よしの娘)との不倫を同時進行していた。そのさだとの間に息子、つまり覚三の二男で庶子の和田三郎(1895-1937)が生まれていた。和田三郎は東京帝国大学を卒業して医師となり、巣鴨脳病院の病室で偶然はつと対面する。

 はつ・さだ・三郎をめぐる経緯は、松本清張『岡倉天心 その内なる敵』(1984年、新潮社)に詳しい(pp. 3-20, 91-124.)。しかし清張の岡倉評価は、岡倉の私生活にだけ力点をおいたものではない。清張は、岡倉の一見大胆な行動や、独特の「野人」的性格と見えるものも、しょせんは帝国官僚としての特権に立脚したものであり、彼個人の力量や性格などではないことを正当にも指摘する(pp. 79-80.)。

 1898(明治31)年、35歳の時の東京美術学校長失脚とそれにひきつづく「日本美術院」の設立、さらにその崩壊にいたる経緯について、清張は、岡倉礼賛者たちの大甘の弁護論をしりぞける。東京美術学校長失脚は、日本美術一辺倒=西洋美術排除の偏狭さと、高圧的な経営姿勢がもたらした結果である(pp. 83-88.)。岡倉はみずからの失脚後、美術学校教員だった「弟子」たちを連座して辞職させた上で、思い付きのように「日本美術院」設立へと突っ走る。資金のあてもなく、ビゲローに1万ドル無心して凌ごうとするが、国家権力の後ろ盾をもたない民間組織の経営にはすぐに行き詰まってしまう。持ち前のあきっぽさからすぐに放り出し、横山大観・菱田春草ら弟子たちとその家族を極貧の状態に陥れ、大観の妻の死や春草の眼疾と夭逝などの悲惨な結果をもたらした。

 のちにノーベル賞を受賞するインドの詩人タゴールが岡倉にいたく共感し、1916(大正5)年の来日時に、わざわざ五浦を訪ねて岡倉を偲んだという逸話がある。しかしこれも「日本美術院」と弟子たちの窮状から逃避してインドを旅行した際に、イギリス植民地インドで「独立運動」を無責任にあおってみせた岡倉の大言壮語にタゴールらが過剰に感動した結果にすぎない。日本帝国の朝鮮・中国侵略を正当化する岡倉の発想からみて、岡倉の「インド独立」への思いなどは真に受けるようなものではない(pp. 201-11.)。

 インドからの帰国後、岡倉は軽々しく大観と春草にインド行きを指示した。しかし、インド滞在時の岡倉の言動がマークされていたため、あやうく二人の滞在先のタゴールの親類まで巻き込んで、イギリス官憲による弾圧を招きそうになった(pp. 217-19.)。

 熱しやすく冷めやすい未成熟な性格。「アジアはひとつ」など、一見気宇壮大で大向こうをうならすコトバを吐くが、そこにはたいした裏付けがあるわけでもない。にもかかわらず、初対面の人を一気に引き付けて簡単に信用させてしまう独特の魅力が、行く先々で善意の人々を巻き込んでさまざまの騒動を引き起し、しばしば深刻な結果を招く。純真な人ほど簡単にのめり込み、引き返せないところまで追随したあげくに置き去りにされてしまうのである。



道服姿の釣人・岡倉天心


 17歳で日本帝国の特権官僚となって一国の美術行政に携わり、27歳にして東京美術学校の校長(現在でいえば大学の学長)に就任した岡倉にとって、権力機構の一員としての絶大な特権と潤沢な財政権限を失った校長解任後の人生は惨めなものであった。「日本美術院」は壊滅状態に陥り、「日本醜術院」にすぎぬと内部告発される始末で、もはや国内には活躍の場はなかった。誰も知る人のいないインドで、「独立の闘士」を気取って一時的に注目を集めてみても、裏付けがないので長続きはしない。

 唯一の望みは、我が手で日本から追い返した師フェノロサが開拓したボストン美術館日本部である。しかもフェノロサ自身は不倫と画像無断使用で辞職に追い込まれ、うまいぐあいに部長ポストが空席になっている。英語ができる東洋人、日本美術のエキスパートとしての自分を売り込むチャンスだ。1904(明治37)年、岡倉はビゲロー先生とのコネだけをたよりに、確約もないまま渡米して強引に売り込みをかけた。初対面の人の前でこそ、彼の力量は十全に発揮される。岡倉は、首尾よくアメリカ富裕層の潤沢な経済力に支えられたボストン美術館の一員になった。アメリカ人並みの英語、実物で鍛えた比類なき骨董鑑識眼、すべてはフェノロサのもとで岡倉が身に付けたものではなかったか? フェノロサなくして岡倉天心なしと言っても過言ではあるまい。

 ボストン美術館職員となった岡倉の行動については、日本美術コレクションの整理と紹介をおこなったことだけに言及し、その他のことについては一切取り上げない。これが、岡倉を肯定し称賛するスタンスに立つ言説に共通の特徴である。

 さらに、ボストンでの職務の合間に帰国した際には、五浦での釣り三昧や六角堂での冥想だけですごしていたかのようなイメージが形成された。これはわれわれの勝手な誤解ではない。世間が自分をどう見るかに異常にこだわりつづけた岡倉による、周到で過剰気味の演出の成果であり、その人脈につらなることにより日本の美術界(画壇、美術学会、美術文教行政、博物館、古美術流通業界、古美術品修復業界、美術書出版業界)で支配的地位を占めようという人たちの並々ならぬ努力の賜である。

 岡倉がたいへん気を遣った服装について見てみよう。古美術マニアらしく、岡倉は目に見えるものに異常に執着する。視覚的効果の重要性をよく認識し、その活用に腐心する。欧米視察旅行中には和服で通し、注目を集めようとする。日本国内では和服はまったく目立たないので、東京美術学校の制服にした奈良時代風の「朝服」や、中国風の「道服」など、絶対的に目立つ異様な服装で奇を衒う(松本清張前掲書、pp. 47, 221.)。

 それを横山大観は醜怪な面相の「屈原」(厳島神社)で、下村観山はデッサンの狂った「天心岡倉先生」(作品消失、下書き現存)で、平櫛田中は金銅造り(青銅に金メッキ)という仏像のごとき彫刻「五浦釣人」(各所に各種)で、平山郁夫は駄作「日本美術院血脈図」(茨城大学五浦美術文化研究所)で、しつこくリフレインして、孤高の人、仙人のごとき天心という虚像を作りあげた(茨城大学五浦美術文化研究所監修『岡倉天心アルバム』、2000年、中央公論美術出版、pp. 206-11.を参照)。



ボストン美術館職員・岡倉覚三


 1906年の『ボストン美術館紀要』(第4巻第19号)掲載の「新設された日本陳列室の彫刻」で、岡倉は、惜しげもなく大金を投じてくれる賛助会員たちにアピールする。

 

「西洋の一般の人々は、従来、日本絵画に対するのと同じ親しさをもって日本彫刻に接することができなかった。彫刻の優品を収集することが困難なのは、そのほとんどすべてが礼拝の対象であり、社寺内にあって宗教的に護持され、ほかの美術品よりも所有者が変わることが少ないためである。のみならず、彫刻は掛け物などの小型の美術品のように輸送が容易でなく、収集家は損傷しやすい木彫像を長い海上輸送の危険にさらすことをためらっていた。〔……〕本館は今や幸いにして、彫刻の代表的作品をすくなからず所蔵している〔……〕。新設された日本品陳列室の最近の収集は、東洋の彫塑美術の系統的コレクションを形成しようとする企画の第一歩なのである。」(『岡倉天心全集』第2巻、1980年、平凡社、p. 103.)

 

 岡倉は、「礼拝の対象」である仏像には怖れおおいから手をつけない、と言っているのではない。収集は困難であるが、何としても買収して輸入し、〈皆様のボストン美術館〉に収蔵する決意を披瀝しているのである。「夢殿開扉」の意味を知るわれわれにとって、この文書で岡倉が言おうとしていることは、きわめて分かりやすい。ほかのことでは大言壮語ぶりが目立ち、コトバと行動の乖離が顕著で、それが絶え間ない葛藤・矛盾・逃避・挫折・悲惨・迷惑をひきおこす岡倉であるが、こと骨董品収集においては、その言動は完璧に一致する。そこには確固たる首尾一貫性があり、いささかの揺るぎも齟齬もない。骨董品収集こそ彼の天職であり、中心的活動領域なのだ。(骨董品収集においては「輸送が容易」か否か、究極的には輸送が可能か否かに決定的な意味がある。この点は§4で触れる。)

 「今や幸いにして、彫刻の代表的作品をすくなからず所蔵している」とは、ビゲロー・コレクション中の何体かの仏像(たとえば前回触れた金剛輪寺本尊で金銅造りの聖観音座像〔11.11447〕)に加えて、岡倉がみずから前年の1905(明治38)年に渡日し、7,500ドル(約13,000円)の資金を投入して14体の仏像を購入し美術館の収蔵品とした実績を踏まえての発言である(『岡倉天心全集』第6巻、1980年、平凡社、pp. 212-16.)。

 「新設された日本陳列室の彫刻」に付属する陳列品目録には、日本で買い付けた14体のうち6体が含まれている。(丸括弧内の番号はウェブサイト〔mfa.org〕で確認したaccession number〔検索番号〕である。上2桁の05.は、1905年の収蔵であることを示す。)

 

⑴「観音菩薩立像 Kannon, the Bodhisattva of Compassion」(05.215)

⑵「勢至菩薩立像 Seishi, the Bodhisattva who has Obtaioned Great Power

 (05.214)

⑶「地蔵菩薩座像 Jizo, the Bodhisattva of the Earth Matrix」(05.212)

⑷「不動明王立像 Fudo myoo, the Immovable One」(05.220a-c)

⑸「地蔵菩薩座像 Jizo, the Bodhisattva of the Earth Matrix」(05.227a-d)

⑹「大威徳明王座像 Daiitoku myoo, the Wisdom King of Great Awe-inspiring Power」 (05.228)

 

 これらの入手の経緯はつぎのとおりである。

 

「1905年、岡倉覚三により美術館のために日本で購入(purchase)された」

 

しかし、これ以上、どこの何という寺の仏像であったか、いかなる経緯で売りに出され、どのようにして岡倉によって購入されたのかは説明されない。ただし、⑷の「不動明王立像」については、出所が示される。

 

「1655年、或る集団により京都から高野山大徳院に寄贈(give)され、1905年、それを岡倉覚三が美術館のために購入(purchase)した」

 

 ボストン美術館職員としての日本での美術品収集活動は、岡倉の生前から一部関係者の間ではよく知られた事実だった。そして、1922(大正11)年、1936(昭和11)年、1940(昭和15)年とあいついで出版された各種の『岡倉天心全集』には、いずれもこの「新設された日本陳列室の彫刻」が収録された。したがって、岡倉の美術品買い付け活動は、日本国内でも戦前・戦中の時点ですでに周知の事実となっていた。

 それにしても、まだ「系統的コレクションを形成しようとする企画の第一歩」にすぎない。岡倉の古美術品収集活動は、これ以降さらに拍車がかかり、日本・朝鮮・中国・インドでの大掛かりな買い付けが遂行されるのである。

 

「Asia is one.(アジアはひとつ。)」!! (Okakura Kakuzo, The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan, 1903, London. 岡倉覚三『東洋の理想』)



植民地支配と美術品蒐集


 1908(明治41)年7月1日、岡倉覚三(天心)は、美術品買い付けのために滞在していた中国東北部(満州)の奉天から、ボストン美術館中国日本部後援会長ホームズに宛てて書簡を送った(『岡倉天心全集』第6巻、1980年、平凡社、pp. 321-25.)。内容は、ボストン美術館の「中国日本部」(現在の「東洋部」)の今後の在り方についての提案である。

 岡倉は、その直前のヨーロッパ各国での美術館調査をふまえて、ボストン美術館のギリシア美術やヨーロッパ美術の所蔵品は「大英博物館、ナショナル・ギャラリー、ルーブル美術館の豊かな所蔵品に比べたら取るにたらぬものです」と言ってのけたうえで、「それに反して東洋美術については、これらの博物館がけっして及ぶことのない卓絶した位置をしめています」と、中国日本部をおおいに持ち上げ、こう付け加えた。「もしわれわれが蒐集の義務を怠ることがなければ、でありますが」と。

 ボストン美術館のギリシア美術やヨーロッパ美術の所蔵品が「取るにたらぬ」というのはいくらなんでも言い過ぎである。アジア各国における美術品蒐集という自己の任務に対する支援を取り付けるための、岡倉得意のハッタリである。とはいえ、中国日本部が「卓絶した位置」をしめているというのは、たしかにその通りである。「国宝級」「超国宝級」の仏像・仏画・屏風・絵巻物が目白押しの美術館は、日本の国立博物館以外ではボストン美術館が随一である。まさにフェノロサ・ビゲロー・ウェルドの、そして、この三人組の通訳・弟子・同僚として大活躍した若き岡倉のおかげだ。

 岡倉は蒐集のテンポを緩めるべきではないと、後援会長に迫るのだが、問題はその手法である。ヨーロッパ各国の美術館が「政府の援助を受けている」のだから、それらとの競争に打ち勝つためには、ボストン美術館に対するアメリカ合衆国政府の援助が必要であることを訴え、そのための尽力を後援会長のホームズに求める。「援助」といっても、岡倉は金銭的援助のことだけを言っているのではない。岡倉の言うには、アジア各地域における各国の美術館による探検調査は「政治的支配権のあるところに限らず、それ以上に手を伸ばして」実施されている。つまり、

 

「英国はインドに占める地位から、アフガニスタンと東トルキスタンの発掘を、フランスはトンキン保護領を拠点に、カンボジア、シャム、雲南及び南支那を調査しています。ドイツは膠州を地盤に山東省の探検に懸命であり、ロシアと共同で支那トルキスタンを調査しています。」

 

 このように他の帝国主義諸国を引き合いに出したうえで、岡倉はアメリカに言及する。

 

「アメリカの勢力範囲は何処でしょうか。フィリッピン群島という根拠地からしてジャワと南方諸島の仏教遺跡は、当然圏内でしょう。他に何処でしょうか。中央支那でしょうか。われわれが東洋で活動するためには、ワシントンと密接に接触を保たなければなりますまい。」

 

 ヨーロッパ帝国主義諸国に対抗し、アジアにおける勢力拡大を進めつつあるアメリカ合衆国の国家方針と密接に結合して、アジアでの美術品蒐集を強力に推進すべきだというのが、ボストン美術館職員岡倉覚三の基本的立場である。

 「Asia is one.(アジアはひとつ。)」と高らかに宣言した英文著作『東洋の理想』の出版は、奉天からの書簡の5年前、1903(明治36)年のことだった。執筆時期は、その前年のインド旅行の頃だろう。

 

「けだし、もしアジアが一つであるとするならば、アジアの諸民族が力強い単一の組織(a single mighty web)をなしているということもまた真である。」(富原芳彰訳、講談社学術文庫、p. 18.)

 

 のちのノーベル賞詩人タゴールらは、岡倉のことを、欧米帝国主義に抗してアジア人がひとつになって立ち上がるよう訴える、偉大な民族独立の闘士だと思い込んだようだが、当の岡倉は、欧米帝国主義による、ひとつのアジアの植民地分割を推進する人物だった。



快慶作弥勒菩薩立像の海外流出


 その岡倉は、インドから帰国した翌々年(1904〔明治37〕年)、ビゲローのコネでボストン美術館職員となり、その翌年渡日して高野山大徳院の不動明王立像など仏像14体を買い付けたのを皮切りに、精力的な蒐集活動を始めた。ボストン美術館のウェブサイトで検索すると、岡倉が買い付けた日本美術が513点掲載されている。(advanced search〔高度検索〕で、keyword欄にOkakura Kakuzoと、culture欄にJapaneseと入力し検索。なお、Okakura Tenshinでは3件しかヒットしないので注意。)

 岡倉は、この1905(明治38)年の渡日の際には仏画も28点購入し、ボストンに送っている。五浦での釣り三昧が、滞日中のミスター・オカクラの全スケジュールではない。日本の古美術品流通業界はきわめて閉鎖的で、素人相手のガラクタや贋物は別として、個人的なコネがなければその世界にアクセスすることは困難で、購入など絶対に無理だ。ボストン美術館の豊富な資金をもってしても、それだけでは日本美術の蒐集は不可能なのである。岡倉はフェノロサの弟子だった時期に始まり、文部官僚時代に培った人脈を利用して、屈指の古美術品を一気呵成に買い集めてボストンに発送した。

 岡倉によるコレクションのなかでも、ひときわ目を引くのが仏像・弥勒菩薩立像Miroku, the Bodhisattva of the Future(20.723a)である。1189(文治5)年の快慶の作品で、奈良の興福寺の所蔵であったものを、1906(明治39)年、岡倉覚三がボストン美術館職員として2度めに渡日した際に購入した。入手の経緯は「不明」とされる。

 2008(平成20)年3月、アメリカでオークションに掛けられた運慶作の仏像を、宗教法人・真如苑の依頼を受けた三越が約14億円で落札し、あやうく国宝級の美術品の「海外流出」が回避されたというニュースが話題になった。岡倉が購入して「海外流出」させた快慶作・弥勒菩薩立像の位置づけが、だいたい推測できるだろう。

 ウェブサイトの説明では、ボストン美術館の快慶作・弥勒菩薩立像は「1920年に岡倉覚三の遺産から購入(purchase)された」とある。岡倉が日本で購入した1906年から、美術館が遺族から購入した1920年までの14年間、この像高107cmの仏像がどこに保管されていたのかは、わからない。(ボストン美術館で展示されていたのだろうか?)

 「遺産」の所有者というのは、未亡人のはつと長男の一雄だろう。岡倉覚三の嫡男の一雄は「天心の七光」で朝日新聞記者になったが、覚三の死後、朝日を退職して「岡倉商会」を設立し、インドへの医療機器輸出業をはじめた。どうやらタゴールとのコネを利用しようとしたはつの発案らしい。しかし経営はうまくいかず数年で廃業に追い込まれ、一雄らは「かなりあった」という覚三の遺産の売り食いで生活する。

(この経緯については、岡倉古志郎〔一雄の長男、すなわち覚三の孫、国際政治学者として著名〕が、岡倉一雄『岡倉天心をめぐる人々』のあとがきで、説明している〔1943年発行の『父天心を繞る人々』の復刻版、1998年、中央公論美術出版、pp. 231-39.〕。なお、遺産を使い尽くした一雄は、1939〔昭和14〕年に回想録『父天心』を、そして翌年には、本文校訂もしなければ解説もつけない安直な六藝社版『岡倉天心全集』を出版し、生活の足しにした。天心はいろいろな遺産を子孫たちに残したのだ。)

 このようにして、興福寺の快慶作・弥勒菩薩立像は、ボストン美術館職員岡倉覚三の個人コレクションとして購入され、最終的にはボストン美術館の収蔵品となった。



仏画・大威徳明王像


 つづいて岡倉の個人コレクションに由来する仏画の逸品を紹介する。岡倉によるボストン美術館の仏画コレクションのうち主要なものは、1905(明治38)年と1906(明治39)年の2度の渡日時の蒐集品である。しかし、それとは別に重要な仏画がある。大威徳明王像Daiitoku myoo, the Wisdom King of Great Awe-inspiring Power (20.750)である。平安時代の作で、日本の仏画の最高傑作のひとつとされる。その入手の経緯はつぎのとおりである。

 

「1890年代に日本で岡倉覚三によって買収(acquire)され、1920年に岡倉覚三の相続人からウィリアム・スタージス・ビゲローによって購入(purchase)され、岡倉覚三を記念してウィリアム・スタージス・ビゲローによって美術館に寄贈(gift)された。」

 

 快慶作弥勒菩薩立像と同じく、この大威徳明王像も岡倉の個人コレクションだったものが遺族から買い取られて、ボストン美術館の収蔵品となったのである。快慶作弥勒菩薩立像の入手時期はボストン美術館職員となった翌々年の1906(明治39)年だが、この大威徳明王像を入手したのは、はるか以前のことである。



美術館理事の地位の私的利用


 大威徳明王像の入手時期とされる「1890年代」とはどういう時期か。岡倉が東京美術学校の校長に就任したのが1890(明治23)年で、非職(休職)処分を受けたのが1898(明治31)年である。

 NHKの堀田謹吾記者は、「帝国博物館美術部長の在職中に入手した」としている(堀田謹吾『名品流転 ボストン美術館の「日本」』、2001年、NHK出版、p. 236.)。岡倉が帝国博物館理事兼美術部長に就任したのは1889(明治22)年、解任は美術学校校長辞職とほぼ同時の1898(明治31)年である。

 これに対して、茨城大学五浦美術研究所は次のように説明する。

 

「五浦に居を構えてほどなくの頃、岡倉はふとした縁から仏画《大威徳明王》を手に入れる。もと京都の仏寺にあった秘宝で、藤原期の名作といわれ、帝室博物館の溝口貞次郎が話をもってきた。岡倉はよほどこの仏画に魅入られたらしく、金五千円で買い取ったという。」(前掲『岡倉天心アルバム』、p. 137.)

 

五浦の購入は1903(明治36)年であり、仏画の入手が「五浦に居を構えてほどなくの頃」という部分はほかの証言とあまりに食い違う。それに「ふとした縁」とは、ずいぶんいい加減な説明だ。詳しい事情を知っていながら隠しているようで信用できない。これでは大学の研究所としては失格だ。

 茨城大学のそれ以外の説明、ボストン美術館の説明、NHKの堀田記者の説明を総合すると、岡倉は東京美術学校校長と帝国博物館美術部長を兼ねていた1890年代に、職務上の機会と権限を利用して秘宝の仏画を入手した可能性が高い。「よほど魅入られた」かどうか知らないが、東京美術学校校長を兼ねる帝国博物館美術部長が、博物館職員の紹介で、博物館のためにではなく個人コレクションにするために美術品を購入するのは、職務上の不正行為である。証券会社社員による株のインサイダー取引のようなものだ。



NHK堀田記者の見解


 以上、ボストン美術館時代の岡倉による日本美術蒐集のほか、結果的に「海外流出」に結びついた東京美術学校時代以来の私的蒐集についても見てきた。こうした岡倉の行動は、“海外流出に反対し、日本美術の発展に尽くした岡倉天心”という常識的イメージからすればなんとも具合の悪い現実である。あまたの伝記類の著者たちは、こうした事実を完全に無視してしまう。しかし、無視や隠蔽、歪曲ではなく、逆にそれを正当化しようという論調もある。

 さきほどから登場しているNHKの堀田記者は、1991(平成2)年から1997(平成9)年にかけて、番組制作のために数度にわたるボストン美術館取材をおこなった。彼は、岡倉による質的にも量的にも圧倒的な日本美術の「海外流出」の実態を目の当たりにして、最初は驚き疑問にも感じたようだ。しかし、ボストン美術館の特別のはからいを受けた取材の果てに、つぎのように言う。

 

「岡倉天心は、両洋〔西洋と東洋〕の間にあるボストンの地に日本美術の『ショーウインドウ』をつくることを目指して、偏りのないコレクションの充実に心がけた。世界に日本の美術を認めさせる手段であった。おかげで太平洋戦争を経て日本の美術は世界の中で認められる存在となった。」(堀田前掲書、p. 336.)

 

 どうしても弁護したいという意図ばかりが先走った、おかしな主張である。さらに言う。

 

「ボストン美術館に所蔵されたことで、多くの日本美術の名品が大地震や戦火を免れたともいえるだろう。」(同)

 

 非公開の収蔵庫まで見せてもらうなど特別の恩顧を受けては、いまさら「海外流出」を非難することなど到底できないのだろう。「大地震」を免れたなどと正当化するのであれば、今からでも遅くないから、日本中の重要美術品を全部ボストンに運んで預かってもらえば良い。ついでに、大断層の上に立地していて1906年の大地震で町が焦土となった歴史を持ち、今後数十年でふたたび大地震の襲来が懸念されるサンフランシスコの現代美術館(SFMOMA)は廃館とし、全収蔵品をボストンに移すべきだ。

 

「美術品や文化財は、その国だけではなく広くわれわれの祖先が残した人類共通の遺産といえるだろう。こうした観点から、その保全にあたる美術館、博物館はこれから将来にわたって重大な責務を負って行くことになる。」(p. 337.)

 

「その国だけの」遺産でない! こんなことを言い始めると、帝国主義国や経済大国が「紹介」「保全」「消失の防止」と称して他国の美術品を強奪したり買い漁って持ち去るのを正当化することになる。(岡倉の弟子のL. ウォーナーがこの論理で遺跡の壁画剥ぎ取りを実行する。後述。)



「考え方を変えさせられた」天心


 岡倉自身はどのように釈明するのか。岡倉自身の文章は見当たらないが、全集に岡倉の発言を記録した文書が収録されている。1904(明治37)年11月、ボストン美術館長のロビンソンは、就職直後の岡倉と面談をおこない、その内容を記録した(『岡倉天心全集』第2巻、1980年、平凡社、pp. 223-24. 石橋智慧訳「岡倉氏との会談録」)。

「もし当美術館で働かないとすると、彼は他の勤め口を探さなければならない。」

ロビンソンは、岡倉が現在置かれている立場を踏まえたうえで、本質的なところにズバリと切り込んでゆく。

 

「岡倉氏はこう語った。日本にいた時は美術品が輸出されることにいつも反対してきたが、アメリカに滞在している間に考え方を変えさせられ、今や当美術館のコレクションをどうしても立派なものにしなければならないと切望している。」

 

 「アメリカに滞在している間に考え方を変えさせられ」と言うが、岡倉がビゲローとのコネをたよりに渡米してボストン美術館に就職してから、まだ半年しか経っていない。岡倉はあっという間に「考え方を変えさせられ」たということになる。

 

「日本の岡倉氏の友人たちは、彼が美術商になったのではないかと考えるかも知れないが、彼は友人たちをも説得することが出来、うまく美術品を手に入れることが出来るだろうということについて最大限の希望をもっている。」

 

 館長の前で美術品蒐集に励むことを必死に誓う岡倉の姿が目に浮かぶ。翌1905(明治38)年2月、岡倉は、ボストン美術館評議委員会で中国日本部の当面の課題について述べた(同、pp. 225-31.)。その記録によると、

 

「岡倉氏は、これまでその人生を日本の美術品を日本に止め置くことに捧げてきたが、今や彼は東洋と西洋がお互いよりよく理解し合うべきであるとの意見を持つようになったと述べた。……アメリカこそ、東洋と西洋の中間に位置するものであり、当コレクションの如き内容のものが作られるとすれば、日本美術にとっても最も望ましい。」

 

 NHKの堀田記者の論理は彼のオリジナルではなく、岡倉覚三本人の言葉であった。