新科目「公共」の問題点 1

学習指導要領における通俗的「正義」論

 

⑴ 「力による復讐としての正義」

 

 中央教育審議会の「高等学校の地歴・公民科科目の在り方に関する特別チーム」と「社会・地理歴史・公民ワーキンググループ」における審議において、羽田正委員(はねだ・まさし、東京大学副学長、イスラム史)と大石学委員(おおいし・まなぶ、東京学芸大学教授、日本近世史)が、教科「地理歴史」のうち歴史諸科目の基本構造・根本概念について、批判を加えた。ところが、教科「公民」については、「国家」への「参画」を求めるナショナリズム的内容に対し、羽場久美子委員(はば・くみこ、青山学院大学教授、政治学)らが反対の意見を述べたほかは、教科「地理歴史」に関して出されたような批判的意見はほとんどなかった。

 科目「公共」と科目「倫理」の内容である哲学・思想の専門研究者は一ノ瀬正樹委員(いちのせ・まさき、東京大学教授・哲学)と頼住光子委員(せずみ・みつこ、東京大学教授、日本思想史)の二人であった。頼住委員が出席したのは14回中4回(議事録で発言が記録されている)で、いずれも「古今東西の知的蓄積」という場合どうしても「西洋中心」になりがちなので、日本についても取り扱うよう要望するというもので、哲学・思想の研究者として、現行指導要領や改訂原案の基本構造・基本的内容についての言及はなかった。

 もうひとり、哲学が専門の一ノ瀬委員は、教科「公民」の基本的内容である「幸福・正義・公正」について、踏み込んだ指摘をおこなった(「ワーキンググループ」第4回 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381943.htm 以下、ボールド体・傍線は引用者)。

 

【一ノ瀬委員】 平成21年の現行の〔科目〕「現代社会」の中での幸福,正義,公正という三つのキーワードですけれども,このキーワードの中で正義というのが,ちょっと私,哲学,倫理を専攻しておりますので,やはりとても気になっていて,歴史的に言って正義というのは,端的に言ってしまうと復讐です。つまり,悪いことをした人をやっつけるというのが正義で,正義の味方というのは基本的に悪者をやっつけるので,だから正義というのは,それだけで取り上げてしまうと,何か武力を使ってやる。戦争では必ずどこの国も正義を訴えるわけですから,だから正義というのは単独で出してしまうと非常に危険な概念の様相も一部担っているので,〔……〕公正ということをむしろ表に出した方がいいと思います。

 

 このような特異で一面的な「正義」観は、従来日本社会でよくみられたものである。道徳的「善」の人格的体現者である「正義の味方」が、圧倒的な暴力を行使して、道徳的「悪」を体現する「悪人」や「怪物」を、殲滅するパターンは、通俗小説、漫画、テレビに充満している。それを賞賛するにせよ、あるいは一ノ瀬委員のように否認するにせよ、正義 justice をこのようにとらえると、近代社会における法の観念と制度を根本から否定することになる。近代法体系において、正義 justice は暴力的復讐の原理ではない。正義 justice は公正 fairness の意味合いを持っている。近代法は正義の原理に立脚し、正義を実現するものである。一ノ瀬委員のように正義を一面的に応報原理に帰する通俗的理解は、失当である。正義を認めない立場は、法そのものを否定することになる。

 一例をあげると、日本国憲法前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」という記述がある。この「公正」は、英文では justice である(http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=174)。justice はほかの部分の和文では「正義」である。「正義」と「公正」がまったく同義であるかは別として、すくなくともここでは「正義」と「公正」が重なり合っていることは明らかである。「正義」が「公正」とは異なったものであるということはない。近代社会の根本原理としての正義 justice をみとめず、それを復讐原理とみなす立場は日本国憲法を否定する立場である。

 

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 

We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

 

 ギリシャ神話における「正義」の神テミスはローマ神話においてはユスティティアとなる。これが、片手に剣を、もう一方の手に天秤を持った女神像である。(テミスではなくディケーとする場合もある。)

 

中央大学多摩キャンパスの「テミス像」

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Statue_of_Themis.jpg

 

 最高裁判所のテミス像

http://www.courts.go.jp/vcms_lf/shihounomadoH29_7.pdf

 

 天秤は「公平」を表象するものである。このユスティティアから派生したのが、英語のジャスティス justice である。たしかに一方の剣は、「正義」を実行する「力」を表象するものであるが、これを一ノ瀬教授のいうように単純に「復讐」の原理を表現するものであるとすることはできない。あくまで公正( fairness あるいは equity )をその本質とし、そしてそのかぎりでそれを実現する「力」をふるう用意があるというのである。古典古代の神話における女神の位置付けについての議論は別として、現在、欧米・日本など近代ヨーロッパ的法制度を採用する地域において、「力」を表象する剣とともに、「公平」を表象する天秤を捧げもつ女神像が、あちこちに展示されている。それはとりもなおさず、「力」に裏付けられた法の執行による「公正」の実現を宣言しているのである。これが「正義」である。このユスティティア像が表象する「正義」は、各人がそれぞれに主観的にいだいた「正義感」にドライブされる「目には目を、歯には歯を」の同害復讐とは異なる。

 「哲学者」を気取って素人見解を振りかざした一ノ瀬教授は、すぐに法学者であるワーキンググループ主査の土井真一教授にそのような正義のとらえかたは誤っているとやんわりたしなめられ、自説を撤回した。しかし、問題はその先である。「学習指導要領」は、2009(平成21)年告示の現行版で「幸福・正義・公正」というワンセットの語を採用したが、そこでは正義を公正と並置している。正義と公正を別物だとするからこそ「正義・公正」と並べておかなければならないのである。そもそも「学習指導要領」においては「公正としての正義」という観点は欠けている。「正義」と「公正」とを切断する一ノ瀬委員の通俗的発想は、じつは「学習指導要領」がよってたつ発想だったのである。

 なお、近代法と適合的な「正義」だけが、唯一妥当な「正義」だというわけではない。さまざまな「正義」論がある。さまざまな思想・宗教における「正義」があるし、「正義」というのは虚偽であるとする否定論や、存在することは認めるが客観的「正義」は存在しないという相対主義的な見方もある。一ノ瀬教授が指摘する「復讐としての正義」観も存在する。ただし、一ノ瀬教授はそれを妥当だとしているのではなく、「復讐としての正義」を日本国政府が「学習指導要領」に明記して国民に教え込むことを批判したようである。問題は、一ノ瀬教授がそのような「正義」のとらえ方以外の可能性をまったく忘却して発言していることだった。これは、「哲学史」研究ではなく、「哲学」そのものの研究を志向するという教授の抱負を裏切るものである。

 

 一ノ瀬教授は、福島第一原子力発電所の事故による放射線被曝問題について発言している(『放射能問題に立ち向かう哲学』、2013年、筑摩選書、260頁)。

 

私の本書での関心は、今回の福島原発事故に関する「放射線被曝の健康影響」であり、「原発の是非」や「事故の責任追及」や「原発再稼働問題」といった政治性の濃い問題については本書は何も論じていない。まずは哲学の観点から、放射線被曝の問題を洗い出してみよう、というのが本書の趣旨である。

 

 「放射線被曝の健康影響」は政治性が薄いということのようだが、その認識は誤っている。彼の「哲学」は「政治」とは無縁のようで、その程度では「問題の深層」にせまり「人間の生き様への道標」になるのは不可能だろう。どこか他で「政治性の濃い問題」を論じたわけでもない。原子力発電について全面的にとらえる作業ぬきに、「低線量被曝」の問題だけを論ずることを宣言してしまう一ノ瀬教授の「哲学」は、「そのときそのときの問題に向き合い、そこに切り込み、問題の深層へと掘り下げ、そのことによって人間の生き様への道標たらんとしてきた」(14頁)という「古代ギリシア以来」の哲学とは、いささか方向性を異にするようである。

 原発事故直後、彗星の如く現れ国会議員を痛烈に罵倒した同僚の児玉龍彦教授もまた、原子力発電の是非について問われて、「調査なくして発言なし」として見解を表明しなかった。突然、毛沢東のモットーが出てきたことも意外だったが、体を張って「除染」に取り組む英雄的行為に邁進するに際して、「人間が作り出したものを人間がとりのぞけないはずがない」とおかしなことを言う人でもある。「復讐としての正義」に挑戦した一ノ瀬教授も、児玉教授と同様に、全体については見ないことにして、問題の一部だけに視野を制限してしまうのであるが、残念なことには限定したその部分での判断も誤るのである。

 

⑵ 正義感強調の異様性

 

 2002(平成14)年以来、「道徳の時間」のテキストとして国内のすべての小学生・中学生に配布された『心のノート』に、「この教室に正義はあるか」というタイトルの記述がある(中学生用、http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/02/1302318_34.pdf)。

 

 

 「公平」「公正」の語もあるが、「不正や不公平を憎み、それを断固として許さない」あるいは、「義を見てせざるをなきなり」などの勇ましい言葉がならび、なにより「この学級に正義はあるか!」と、ずいぶん力んで見せた見出しのとおり、悪に立ち向かう心性と行動としての「正義」が強調されている。

 なお、2014(平成26)年から、小学校・中学校における「道徳」のテキストとして、「心のノート」を「全面改定」した「私たちの道徳」が使用されている(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/index.htm)。ここでもまた、徳目「正義」については、「いじめ」がとりあげられる。ほかの例が思いつかないのであろう。「いじめも正義に反する卑怯な行為です」と、「正義」の反対概念を「不正」とするではなく、「勇気」の反対概念である「卑怯」と対にしている。文部官僚の頭の中では、「正義–不正」と「勇気−卑怯」が混交して、「正義」とは勇気ある行為であり、正義が欠如すると「卑怯」な行為に及ぶという単純なイメージができあがっているようである。「正義感」の例として、「友だちがわるいことをしたらやめさせること」と、やはり道徳的「悪」に対抗する行為を挙げる。文科省のいう「正義」は、子ども向けのアニメ漫画や(大人も大好きな)単純な勧善懲悪ドラマが描き出すような、道徳的「悪」にたちむかう勇ましい心性と行為のことのようである。(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2014/12/01/1344901_9.pdf)。

 こうしたマンガじみた「正義」の前提となっているのは、学習指導要領の次の記述である(文部科学省『中学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編 』、2015(平成27)年、45頁)。

 

11 公正,公平,社会正義 

正義と公正さを重んじ,誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること。 

■ 内容項目の概要 

 「正義を重んじ」るということは,正しいと信じることを自ら積極的に実践できるように努めることであり,「公正さを重んじ」るということは,私心にとらわれて事実をゆがめることを避けるように努めることである。道理にかなって正しいことを自ら認識し,それに基づいて適切な行為を主体的に判断し,実践しようとする意欲や態度をもつことである。正義とは,人が踏み行うべき正しい道筋や社会全体としての正しい秩序などを広く意味し,法にかなっていることや各人に正当な持分を与えるという意味もある。公正さとは,分配や手続の上で公平で偏りがなく,明白で正しいことを意味する。 〔……〕

 よりよい社会を実現するためには正義と公正さを重んじる精神が不可欠であり,物事の是非を見極めて,誰に対しても公平に接し続けようとすることが必要となる。また,法やきまりに反する行為と同様に,自他の不公正に気付き,それを許さないという断固とした姿勢と力を合わせて積極的に差別や偏見をなくす努力が重要である。

 

 これについては、北海道教育大学の千葉胤久が次のように批判している(http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/8048/1/67-1-zinbun-09.pdf)。

 

「『正義を重んじ』るということは,正しいと信じることを自ら積極的に実践できるように努めること」(文部科学省45頁)であるという説明がなされている。この説明は誤解を招きやすい説明であるように思われる。確かに,「正義」という日本語の日常的な語感のうちには「自らが正しいと信じることを実践する」という理解が含まれているとは言えるであろうが,ここで問題にされるべき正義は「公正,公平,社会正義」というキーワードで語られる意味内容を持った「正義」である。この意味での「正義」は,自らの信念に基づいて正しいと信じることを実行するということには尽きない多様な意味を有しているものである。また,自らが正しいと信じたことを積極的に実践したからといって,それだけでは単なる独善的な実践にとどまってしまう可能性を否定できないのであり,その意味でそのような実践は公正でも公平でもなく,正義にかなっていないものにとどまってしまうかもしれないのである。

 

 端的には、「指導要領」にいうところの正義とは、道徳的「善」にもとづいて道徳的「悪」に対して立ち向かう心性と行動のことである。第1段落末尾では正義を、法やアリストテレスのいう配分的定義に関連づける一方で、「人が踏み行うべき正しい道筋」すなわち道徳的な「善」であるとする。整合性なく「人が踏み行うべき正しい道筋」と並置するくらいだから、法やアリストテレスはたんなる思いつきか、格好づけで持ち出されたものである。このような支離滅裂な正義を呈示したうえで「指導要領」は、それへの「気づき」「意欲」「態度」「判断」、そしてその実現のための「努力」「断固とした姿勢」を要求する。

 行政機関が国民に対して浅薄な意欲や態度を強要して恬として恥じないところに、現代日本の「道徳教育」の本態がよくあらわれている。道徳的言説の受け入れ強制、とりわけ学校教育における道徳的価値の強要は精神的自由の蹂躙にほかならず、明白な人権侵害、あきらかな憲法違反である。このようなことは道徳的にも、法的にも許されない。

 しかも、国家機関によって説教・強要されている徳目じたいが、幼稚で独善的であって、いかなる検討批判にもたえるようなものでもない。このような幼児的正義感・独断的な暴力的見解を学校教育の場に持ち込み、教員と児童・生徒に対して権力によって(断固とした姿勢)、受容し同調するよう強要するのは、まさに正義に反するものである。さらに、教員・児童・生徒が「主体的に判断する」ことを一切許容しないのであるから、このような行政行為は「人が踏み行うべき正しい道筋」にも反する。