雍和宮のウェブサイトは
明清時代の北側の城壁、すなわち現在の第二環状道路(「二環」)のすぐ内側の南北480m、東西120mの大邸宅が、雍正帝(清朝第5代皇帝、在位1722-35)の即位前の住居でした(現在の第3の主殿・永祐殿が寝殿)。これを、乾隆帝(第6代、1735-95)がチベット仏教(「ラマ教」)の寺院としたものです。清帝国の支配者である満洲族皇帝は、漢族による蛮族支配のイデオロギーである儒教をみずからの信条とするはずもなく、熱心なチベット仏教信者として帝国を統治したのです。西隣の孔廟・国子監に対抗するかのように、雍和宮の巨大な伽藍が展開します。
住宅が寺院に転用できるというのは、建物の構造もさることながら、なにより建物群の配置様式が全く異なる日本では到底考えられないことです。しかし中国では珍しいことではなく、碧雲寺も同様です。
春節最後の日でしたが、つめかけた人々が大きな線香を掲げ、跪拝していました。現代中国におけるチベットの位置についてのありきたりのイメージからは、伽藍の壮麗さとあわせ予想もしなかった光景でした。
第4の主殿のツォンカパの像に感銘を受けたあと第5の主殿にいたると、そこには26mの巨大な弥勒菩薩が立っていました。
もうひとつ驚いたのが、コバルトブルー、牛頭、女神を抱いた歓喜仏でした。芥川龍之介の『北京日記抄』に言及があることを後で知りました。