7 Ridge2型河川区域案の検討⑴

「ソーラー発電所」業者によるRidge2の掘削断面(2015年10月26日、3段積み土嚢の仮堤防、左方が河道)

河畔砂丘の〝畝〟ridge は、このように風上の河道側は緩斜面、風下の陸側が急斜面になる。

 

Jan., 9, 2022

 

Ridge2型河川区域境界線は2015年氾濫を防げるのか?

 

 1964(昭和39)年の河川法改正による「河川区域」の定義変更を受けて1966(昭和41)年に告示された河川区域境界線(Ridge3型)の当否についての検討(本項目4ページ)に続いて、鬼怒川水害訴訟の原告代理人が主張する河川区域境界線案(Ridge2型)について検討します。このRidge2型河川区域境界線案については、公表されている訴状や準備書面(1から10までの10通、https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000053)には正確な図面が示されていないので、概略で図のとおり推測しました(3ページ)。原告代理人は、このとおりの河川区域境界線が定められていれば、2014(平成26)年に「B社」によってRidge2の24.35k付近が掘削されることはなく、2015(平成27)年9月10日の若宮戸河畔砂丘における氾濫はなかったのであるから、河川区域の指定を誤ったことによって生じた損害を賠償する責任がある、と主張しているようです。

 これらの2つの境界線と、当 www.naturalright.org が、新河川法施行の時点(1965〔昭和40〕年)で設定すべきであったと考える河川区域境界線案(Ridge1型)を併記し、さらに迅速測図から読み取った若宮戸河畔砂丘の〝畝〟ridge の形状(1ページ)を、大臣告示図上に描いてみます。

 

 

 訴状や準備書面には、このRidge2型河川区域境界線を設定すべきであったとする時期についても示されていません。河川法改正の時点(1965〔昭和40〕年施行)でRidge2の東麓を河川区域境界とすべきだったと考えている可能性は低いでしょう。おそらく漠然とRidge1の掘削後の若宮戸河畔砂丘の状況を前提に考えているのでしょう。Ridge1の掘削は、一部は先行していますが、第2クォーターから第3クォーターにかけての徹底的な掘削ならびに第1クォーターの河道側斜面をのぞく掘削は、1960年代後半に始まり1970年代前半には概ね完了しています。そこで、1975(昭和50)年の航空写真(国土地理院、CKT7418-C106B-28)にRidge2型境界線案を重ね合わせてみます。(写真や図はクリックして拡大表示できます。)

 

 

 このRidge2型河川区域境界線が設定されていれば、2015(平成27)年9月10日の若宮戸河畔砂丘における氾濫は回避できたか否か検討します。 

 2015年9月の若宮戸河畔砂丘における氾濫地点は2箇所でした。すなわち、25.35k地点と24.63k地点です(市道東0272号線がRidge2を切り通して横断する地点からの氾濫はなかったようです)。「Ridge2型河川区域境界線案」のとおりの境界線が設定されていた場合、2箇所での氾濫は起きなかったのでしょうか。

 

Ridge2型河川区域境界線では、24.63kの氾濫を防げない

 

 まず、24.63k地点です。これについてはすでに別項目別ページでひととおり検討してありますので、概要を記します。(なお、関東地方整備局は、小さな扱いでここの氾濫を広報しています。ただし、一貫して距離表示を誤り、「24.75k」としています。当サイトもだいぶあとまで「24.75k」としていました。)

 以下、順に2015年9月11日午前10時ころの衛星写真(グーグル)、9月20日ころの航空写真(グーグル)、2004(平成16)年の測量図(かつら設計)です。(描き加えた赤実線は市道東0280号線のすぐ北側〔画面では右側〕に引かれた1966年告示河川区域境界線。赤挟み黄実線はRidge2の東麓〔画面では下側〕に引かれる「Ridge2型河川区域境界線案」)

 縦断方向約80m、横断方向約30m、深さ6mの巨大な押堀(おっぽり)が残りましたが、そこだけを氾濫水が流れたのではなく、市道東0280号線東側から堤防の60度屈曲点まで約100mの幅で流入したのです。20日ころの写真で、60度屈曲点に白く土嚢積が見えるのは堤体表法面(おもて・のりめん)の洗掘が起きた地点です。

 

 

 この付近の洪水の最高水位は24.75kで21.93m、24.50kで21.73mでした。

 赤a22.88mと赤b22.868mは60度屈曲点付近の堤防天端高です(「L24k50 23.255m」とありますが、天端高ではなく距離標石の高さです)。この1952(昭和27)年に24.10kから24.63kまで築造された左岸堤防は、Ridge2を嵩上げ・拡幅したものです。屈曲点以北(画面右方)で姿を現すRidge2は、橙fの22.21m地点だけを除き、標高22m以下と堤防よりかなり低いのです。21mをわずかに上回る程度だったようで、ここから市道東0280号線の北まで、すなわち河川区域境界線の彼方までの区間のRidge2は、60度屈曲点の堤防よりかなり低いのです。ということは、1952年にここまで延伸された堤防はRidge2に「山付き」しているわけではありません。多くの人がここでRidge2に「山付き」していると誤認しています。堤防は60度屈曲点でRidge2に「山付き」しているのではないのは、標高差からもわかることですが、なによりそこが堤防の末端になっていないことからも明らかです。堤防は、60度屈曲しながらまだ続き、この先の24.63k地点でRidge1に「山付き」します。そのように建造されたのです。このことについては、3ページあとであらためて注目することにします。

 市道東0280号線と1966年河川区域境界線を挟んだ北側にやっと標高22mの等高線(橙i)が現れます。

 

 

 下流方向から河畔砂丘(だったところ)を遡上してきた洪水は、水管橋をくぐって標高18m少々の低平な牧草地を満たした後、18.43mの青四角c地点、さらに19.18mの青四角d地点から市道東0280号線の切り通し部に入り、午前6時ころに青hの19.979m地点付近から陸田へ「ちょろちょろ」(目撃者の言葉通り)と流れ込みました(青実線矢印、別ページで詳述)。やがて水位が上昇し、流入幅は60度屈曲点まで広がり、Ridge2の基底部を深さ6mまで侵食し、数万㎥の砂を噴き上げながら氾濫しました。洪水は60度屈曲部の川表側法面も洗掘しました(青破線矢印)。中央部の橙f22.21m地点は残ったようです。

 市道東0280号線が切り通しになっていたことが氾濫の原因ではありません。これも切り通しが氾濫の原因だと誤解している人が多いようです。たしかに最初は市道東0280号線から「ちょろちょろ」が始まったのですが、いずれ流入幅は約100mに広がったのです。しかもそれは堤防の破堤幅の拡大のように、最初の破堤点から両側に(上下流側に)側方侵食が起きて堤体が流失するのとは異なり、もともと低かった約100mの区間が洪水位の上昇につれて水没し、もっとも激しく流入したところに巨大な押堀ができたのです。市道東0280号線の切り通しがなくても氾濫は起きたのです。

 「Ridge2型河川区域境界線案」を実行していたとしても、この氾濫は回避されなかったことは明らかです。屈曲点から市道東0280号線の北側(画面右方)までのRidge2はもともと標高は22mをかなり割り込んでいて、計画築堤高はもちろん計画高水位にも及ばなかったのですから、形式上そこを河川法第1条にいう「三号地」にしてあったとしても、2015年9月の洪水をおしとどめることはできないのです。

 水害後の現地の写真です。

 

 画面左から右へ氾濫水が流れてできた深さ6mの押堀です。水害後、国交省が排水ポンプ車でいったん排水したのですが、すぐにこのとおり地下水が滲出して来ます。画面手前は砂を入れて整地されていますが、押堀と向こう岸のRidge2の破断面は、そのままの状態です。画面左の手前から押堀内、さらに対岸までつながっている橙チューブは、市道東0280号線の路盤に埋設されていた送電線です(1本は破断していますが、もう1本は繋がっているようです)。つまり、これが市道東0280号線のコース取りです(2015年12月15日)。

 

 先の写真の左端、押堀対岸の市道東0280号線の破断面から振り返ったところです。彼岸すなわちさきほどの此岸はだいぶ砂を入れて整地してあります。橙チューブが見えます。紅白鉄塔下に見える緑の法面は1952(昭和27)年に延伸された堤防で、画面中央でRidge1に「山付き」しました。その左はその山付き地点とRidge2との間に渡された高さ5m以上の巨大な仮堤防です(2015年10月26日)。

 

 水管橋下の24.50k付近で堤防が60度屈曲する地点で、川表側法面が流入した氾濫水(測量図の青破線矢印)によって洗掘されました。一見たいしたことがないように見えますが、破堤のおそれもあったのです。土嚢の向こう側、60度屈曲点から右に続くのが樹木が残っているRidge2です。堤防天端とRidge2にはかなりの標高差があることがわかります。「山付き堤」などという誤解の余地はありません。手前の砂は、仮堤防建造のための重機や大型車をとおすための坂路です(2015年12月18日) 。

 

Ridge2型河川区域境界線では、25.35kの氾濫も防げない

 

   続いて2番目の氾濫地点である25.35k付近、すなわち「B社」が掘削した地点で起きたもうひとつの氾濫についてです。Ridge2型河川区域境界線が設定されていてこの「B社」による掘削がなかった場合、2015年9月の氾濫は起きなかったのか否かについて検討します。

 この「25.35k」付近については、水害直後から関東地方整備局河川部がおかしな広報宣伝をしていました。他の重要な航空写真などはさっさと公開をやめてしまったのに、この資料はいまだに関東地方整備局のウェブサイトで公開しているのですからhttps://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000633805.pdf、今も関東地方整備局河川部の公式見解とみてよいでしょう。

 掘削前でもすでに9月10日の最高水位のY.P.=22mを下回っていた区間があり「B社」によるRidge2の差し渡し約200mにわたる掘削がなくても氾濫は起きたはずであるから、掘削を許したことで氾濫が起きたのではないし、掘削して低下した地盤に土嚢を積んで元の最低の高さを回復してあるから責任はない、というのです。

 横断測量の「測線」とサカナの「側線」の区別がつかないくらいですから、河川部の素人役人が書いたのでしょう(鬼怒川訴訟の被告「国」の指定代理人の訟務検事は準備書面に未だに「側線」と書いています)。水位を問題にしているときに「平均値」などと言っているのですから、素人にしても相当に低レベルかつ悪質です。国土を保全し、国民の生命財産を護るのだという使命感を金輪際持ち合わせない、国交省河川官僚の心根がよくよく現れた文書です。

 この言い訳は、河川区域指定が失当だったこと、計画高水位すら充足しない区間があることを知っていて放置したこと、「B社」の砂丘掘削により洪水時の氾濫水量が増大するのを漫然と放置したこと、を自白しているわけです。下手な言い訳をすることでみずから責任を認めたことにほかならず、とんだオウンゴールになるべきところだったのです。

 ところがこんなポンチ絵と子供じみた屁理屈にあっさり騙されてしまい、批判しないどころか、水害の機序を説明する際に準拠資料として引用・援用する事例が跡を絶たないのですから困ったものです。

 このポンチ絵の作られ方を見ておきます。すでに別項目「若宮戸の河畔砂丘」の5 国交省が作った騙し絵で分析してありますので、要点だけ示します。

 「B社」による掘削を黙認した責任を逃れるために、もともと低いところがあったとつまらぬ言い訳をしているわけですが、そうであればあらかじめ氾濫を防ぐために手立てを講ずるべきだったのにそれを怠ったことの責任が問われることになるので、もともと低かったところを成る可く少なく見せようというアンビバレントな心理が働いたようで、「掘削前の地盤線(崩壊なし)」という意味不明のタイトルをつけた、妙な折れ線グラフのようなものを作ったのです。

 まず、「横断測量の各側線〔測線〕で最高の地盤高を結んだ線」が見えすいたトリックです。下の模式図は、向こうに河道のある標高10mの地形で、深さ2mの溝があるとします。赤が測線です。「横断測量の各側線〔測線〕で最高の地盤高を結ぶと10mの一直線になり、中央の最低地盤高の8mが無視されます。洪水位が8mを越すと溝を通ってこちら側に氾濫します。「横断測量の各側線〔測線〕で最高の地盤高を結んだ線」では、氾濫しないことになってしまうのです。


 

 横断測量の測線1から10の最高標高を取り出して折れ線グラフを作り、痕跡水位の22mを下回るのが測線6の21.96mと測線7の21.36mの2箇所だけだと言っているのですが、その2箇所にしたところで、河道側から標高21m以下の凹地が入り込んでいて洪水が押し寄せればあっという間に崩れるような、崖っ淵の地形なのです。計画高水位を割り込む、河道側から連続する標高21m以下の凹地がRidge2を分断しています。かろうじて21mを超す細長い地形が上流側と下流側を繋いでいるだけだったのです。

 もとの地形と植生が維持されていた場合と、「B社」による約200m区間の掘削後の場合とでは、2015年9月10日の洪水による氾濫規模は同一ではないでしょう。まさか掘削された場合より大規模ということはないでしょうが、かといってまったく氾濫がおきなかったということは、到底ありえません。始めのうちは根を張ったクヌギなどの樹林がもちこたえ、洪水の威力をだいぶ弱めて氾濫水量を抑制したとしても、樹林や表土がひとたび掘削されると、24.53k地点でそうだったようにまたたくまに開口部が押し広げられ掘り下げられて、大氾濫になったでしょう。

 この子供騙しの見え透いた言い訳は、決定的な事実から目を逸らすためのものです。すなわち、「B社」による人為的改変以前の自然地形であっても氾濫の危険性はあったかのようなことを言っているのですが、「B社」による掘削以前の、25.53k付近のRidge2の地形は自然地形ではないのです。

 次の国土地理院の航空写真は、最初が1967(昭和42)3月29日(KT677Y-C202)、次が1968(昭和43)年8月22日(MKT682X-C2-20)のものです。それぞれこの地点を拡大し、大臣告示の河川区域境界線、迅速測図から読み取ったRidge1、Ridge2、Ridge3、さらにY.P.=24mの等高線などを描き加えたものを並べます。

  まず1967(昭和42)3月29日です。Ridge1の掘削が始まっています。Ridge1とRidge2との間の「谷」まで連続的に掘削・地均しが進んでいます。その「谷」側に湾曲しているRidge2の*(アステリスク)の部分は、まだ手がつけられていません。

 

 つぎに1968(昭和43)年8月22日です。わずか1年5か月で状況は激変します。1967年には、おもにRidge1とRidge2との間の「谷」が掘削されていたのですが、1968年には、若宮戸河畔砂丘の主要部分であるRidge1とRidge2それ自体の掘削が一挙に進行していたのです。

 若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟であるRidge1の掘削の進行状況については、すでに5ページで見ました。いまここで注目するのはこの1年5か月の間に第2クォーターのRidge2が大きく掘削されていることです。とりわけ、東側におおきく湾曲していた部分(*印)が、ごっそりと掘削されています。あの標高21m少々の細長い〝畝〟で繋がっていた部分は、自然地形だったのではなく、この東側に湾曲した部分がごっそりと掘削されたあとに残った、その河道側の裾野だったのです。

 (24mの等高線❷のある箇所と❸のある箇所との間、さらに❸のある箇所と*の箇所との間は、いずれも迅速測図では途切れているように描かれていましたが、そうかといって深い「谷」になっていたわけではないでしょう。なお、〝畝〟の形状は南北方向には少し修正してありますが、この*地点は、そのままです。〔1ページ参照〕)

 若宮戸河畔砂丘は、第1クォーターと第2クォーターの砂丘の〝畝〟の発達が顕著でした。第1クォーターは単列ですが、第2クォーター以下では砂丘が分岐して複列構造をとるようになります。特異点「は」は、河畔砂丘最大の〝畝〟だったRidge1の最高標高地点(Y.P.=32m)でした。Ridge2はそれに次ぐ規模の〝畝〟ですが、この「*」部分もかなりの標高があったでしょう。河畔砂丘の〝畝〟は河道側は緩斜面、内陸側は急斜面になりますから、内陸側が掘削されれば主要部分が失われることになるのです。Ridge1が第2クォーターと第3クォーターで数か所の孤丘を残して全部掘削されのと同時期に、Ridge2も第2クォーターで標高の高い主要部分が掘削されてしまったのです。

 2015(平成27)年9月時点で、関東地方整備局河川部の広報担当者はそんなことは知るはずもなく、25.35k前後の氾濫地点は「B社」による掘削以前から低かったのだと馬鹿げた言い訳に興じていたのです。関東地方整備局は、2014(平成26)年の「B社」による掘削を黙過したことを取り繕ったつもりが、じつは1967年から1968年(昭和42年から43年)の元の地主による掘削を黙過して、この地点での氾濫の原因を作っていたことを、白日のもとに晒す結果になったのです(「黙過」とは、それらの地点を河川区域境界線の外に置くことで掘削行為を規制・禁止できない状態に置き、掘削行為をみすみす許した、という趣旨です。どこに境界線を引くべきだったかは、11ページで最終的に論じます)。

 このページの課題は、原告代理人による「Ridge2型河川区域境界線案」の当否、すなわち「Ridge2型河川区域境界線案」で河川区域を設定しておけば2015年の水害を防ぎ得たかどうか、ということでした。24.63kでの氾濫がそうであったように、この25.53k付近での氾濫も「B社」の掘削がなかったとしても防げなかったと言えます。しかし、この25.35kの氾濫とその原因について検討するうちに、そもそもその「Ridge2型河川区域境界線案」が、案として成立しえないということになってしまったのです。すなわち、「Ridge2型河川区域境界線案」とは、Ridge2の東麓に河川区域境界線を引くべきであったとする主張なのですが、その肝心のRidge2がじつはすでに人為的掘削により破壊され、主要部分において原型をとどめていないものだったのです。「Ridge2型河川区域境界線案」を実行してあれば2015年9月の氾濫を防ぎ得たかどうか、という問いを立てて考察した結果、「Ridge2型河川区域境界線案」は1968年以前の改変地形を自然地形であると誤認したうえで、河川区域境界線の線形を主張するものであり、案として成立しないことが明らかになってしまいました。問いが自壊してしまったのですが、その点を含意したうえで、次のとおり結論づけることにします。

 

 「Ridge2型河川区域境界線」なるものが、2014(平成26)年以前に設定されていて、それによって2014(平成26)年の「B社」による25.35k前後200mの掘削が実行されることなく、1968年以降2014年以前のRidge2が保存されていたとしても、2015(平成27)年9月の若宮戸における2地点での氾濫は回避できなかった。