若宮戸における河川管理史

4 Ridge3型大臣告示の検討

水管橋下の24.50k付近で堤防が60度屈曲する(2015年12月18日) 。

巨大な押堀ができた市道東0280号線のすぐ脇で、氾濫水により法面が抉られた。

 

Oct., 24, 2021

revised, Nov., 8, 2021

revised, Nov., 12, 2021

 

 大臣告示による河川区域境界線(Ridge3型)は、どのような基準で引かれたのか、検討します。

 

 

 統一的原則の欠如

 堤防がある区間(第3クォーター24.63kから第4クォーターまで)については、堤内側(川裏側)法尻が河川区域境界線になっていて、他のようではあり得ないのですが、それ以外の区間(第1クォーターから第3クォーターの24.63kまで)には、首尾一貫する規則性は見当たりません。その意味では、無原則に、出鱈目に引いた、というべきですが、それでは分析したことになりません。全体を統一する一貫した原理原則がないのだとしても、いくつかの基準ないし理由があるのかも知れません。或る区間は或る原理原則に拠っていて、別の或る区間に別の原理原則に拠っている、さらに別の区間はさらに別の或る原理原則に拠っている、というように。その場合、それら複数の原理原則が、いずれも妥当であり、しかも相互に矛盾していないというのであれば、そういう線引きも認めなければならないわけです。結論を先取りして言えば、それら複数の原理原則はいずれも失当であり、しかも相互に矛盾しているのです。以下、具体的に検討します。

 別個の原理原則によっていると思しき区間に分割して、探ってみることにします。詳細な標高データとつきあわせるのはあとにして(なにしろ大臣告示図には等高線が一本もひかれていないのですから!)、まずはごく大雑把に見ることにします。本項目の1ページで見た、迅速測図から抽出したridgeの配列状況との関連を見てゆきます。

 

 

 第1クォーターは、ridgeが複列構造にはなっていないのですが、Ridge1の始点と考えて図示・彩色(緑)してきました。その単一のかなり発達したridgeの河道側斜面に河川区域境界線が引かれています。境界と河道との間には低水敷護岸はありますが、標高の高い地形や人工物は存在しません。

 

 

 第2クォーターすなわち25.50kから25.00k区間は、ridgeが3列の複列構造を成しています。そのうち河道に最も近い、したがって最も未発達のRidge3(青)の川裏側に河川区域境界線が引かれています。

 

 

 第3クォーターにかかるあたりから、ridgeが4列の複列構造を取るようになります。河川区域境界線は、上流側からひきつづきRidge3の川裏側を通っていますが、途中からRidge3を斜め横断してその川表側に移ります。そして、市道東0280号線のある24.63kで終わります。というのも、24.63kから先は別の原理原則による河川区域境界線が引かれることになるので、それ以上は進めないからです。

 

 

 次は、順序を入れ替えて、第3クォーターの下流端から第4クォーターにかけてを見ます。24.63kから若宮戸河畔砂丘南端の24.00kまでの区間、すなわち1952(昭和27)年に築堤された区間(茄子紺実線)とその下流側の堤防(茄子紺破線)の区間です。ここは当然堤防の堤内側(川裏側)法面の下端(法尻)が河川区域境界線になります。

 

 

 いよいよ残った区間、すなわち上流側からRidge3の河道側を辿ってきて、25.63k地点で市道東0280号線に到達した地点と、下流側から堤防法尻を辿ってきて、同じく24.63kで、しかし別のところで堤防が突然途切れる地点との間です。ここは、一見すると市道東0280号線に沿って引いたように見えますが、そうではありません。

 

 

 上流側から辿ってきた線の端末と、下流側から辿ってきた線の端末とがくっつかず、300メートル近くも離れてしまっているのです。まさかそのまま途切れたままにするわけにもいかず、理由なくその2点間を結ぶ線を引いたのです。そこに市道東0280号線が通っているのは、偶然です。そこに道路があろうがなかろうが、とにかく一直線に線を引いただけの話です。2点間を結べば河道中心線に垂直になるのであり、ある時期には対岸との渡し船の船着場に直行していたであろう、大昔からの道筋と一致したというだけです。

 

 標高データと照合すると何がわかるのか?

 堤防がある区間(第3クォーター24.63kから第4クォーターまで)については、堤内側(川裏側)法尻が河川区域境界になるのですが、それ以外の区間(第1クォーターから第3クォーターの24.63kまで)は、4つのバラバラの原理原則によっているようです。

 以上の概観に続いて、ここからは、標高データを参照したうえで詳細に検討します。

 参照する標高データは、2003年度に作成された築堤設計図の前提となる測量データです。標題部の日付欄が空欄になっているのですが、2003年度に下館河川事務所から委託されて作成された測量データです。1970年代初頭までの間にRidge1がほとんど掘削されてしまい、あわせてRidge2とRidge3も少なからず掘削されているので、当然大臣告示時点とは異なります。それに地盤沈下による標高の変動もありますが、そのあたりの事情を勘案したうえで参照することにします。

 ウェブサイトの規格により画面表示すると解像度が落ち、極度に微細な文字で記されている標高データが読み取れないので、このあと部分的に拡大して数値を読み取ることにします。なお、右のファイルをダウンロードして拡大表示するとその微細文字で記されている各地点の標高を読み取ることができます。

 そうして読み取った標高を、計画高水位や計画築堤高および2015年水害時の洪水位と照合します。

 

ダウンロード
若宮戸地先L19.175k-600-26.0k+600.png
PNGファイル 12.7 MB


 

 上の2つの表の24.50kから26.00kまでのデータを摘記し、ついでに2015年水害後の激特事業によって新造された現在の堤防の天端高(設計値。24.75kと25.50kは10m程度下流寄りの値)を付記したのが下の表です。

 

 

 この2000年代初頭の測量図と1966(昭和41)年の大臣告示図を重ね合わせてみます。ただし現在見ることのできる大臣告示図は、ジアゾコピー(青焼きコピー)の地図に手描きで河川区域境界線を記入したもので、実務に使って折り目が入るなど劣化したものを、だいぶ後になってから撮影してpdfにしたものであり、かなりの歪みやズレがあります。河川区域境界線については測量図中の「河川境界」標石位置により補正してあります(苺色)。いくら大臣告示の図とはいえ、当然現地に打たれた標石が優先するわけですから。

 河川区域境界線を告示した図面で、その河川区域境界線がズレている! 河川行政の世界にはまともな原本・正本が存在しないのです。出張所で実務に使用する「管理基平面図」(reference5 に掲載)に至っては、河川区域境界線が大臣告示図とは違っているうえ、「官民境界線」は、あちこち右往左往し、随所で断線しています。現地の標石にしたところで、まばらにしか打ってないうえ傾いていたり表示が摩耗していたりです。それでも距離標石ならまだいい方で、境界標石?に至っては摩滅して何が何だかわからない梵字のような意味不明の印のついたものがめちゃくちゃに打ってあり(ということは抜かれてもわかりません)、ほとんど意味不明です。かくのごときものを「基準点」にして、ミリメートル単位のレーザー測量をしているのですから恐れ入ります。

 

 

 境界標石で補正したもの以外にも、「昭和」の昔によくやったように剃刀で削って描き直してある箇所もあるほか(下は24.75k付近と25.75k付近)、あやしげな箇所は結構あるのですが訂正する材料もありません。ここまでのように大雑把に眺めるだけならさほど拘る必要もないでしょうが、これから細部まで見ていくにあたっては、このようなことを念頭において検討することにします。

 

 

 先に概要を見てありますので、ここからは区間ごとに標高を読み取りながら、告示された河川区域について具体的に検討します(告示図と測量図の標高は全部Y.P.値です)。それぞれの図はクリックすると独自ウィンドウが開き、さらにクリックすると拡大できます。小さな文字が読み取れるように、狭い範囲を見ていくことにします。画面数が多くなり煩雑になるので、全範囲を網羅することはせず、特徴的な箇所を選択して表示し検討します。描き加えるのは4つのridge(Ridge1=緑、Ridge2=黄、Ridge3=青、Ridge4=燕脂、ただしおおよその位置)だけにします。注目点はいちいち描き込むと邪魔になるので、その位置を測量の際の測線を利用し、その番号(例:NO.1)とそこからの方向で示すことにします。

 

  若宮戸河畔砂丘は、地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち」「堤防に隣接する土地」として「三号地」とされたのか?

 鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)の最下流部から若宮戸河畔砂丘の北端にかけてです。鎌庭捷水路の左岸堤防の川裏側法尻(法面基部)の河川区域境界線が、堤防のない若宮戸河畔砂丘の領域へと連なっていくのですが、そのまま向きを変えることなく延びて行きます。まさか堤防がそのまままっすぐ続きその法尻が境界線になっている、などということはありません。どのように引かれたのでしょうか。

 

 盛土型堤防である鎌庭捷水路の堤防の川裏側法尻に引かれた河川区域境界線は、前ページ末尾で仮に名付けたアルファ型です。河畔砂丘の区間に引かれる河川区域境界線は、アルファ型であればridgeの川裏側の麓に引かれることになりますし、同じく仮に名付けたベータ型であればridgeの川表側斜面(法面)に引かれることになります。いずれだったでしょうか。

 まず、若宮戸河畔砂丘北端において、鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)南端の堤防と接続する部分がどうなっていたかを検討します。2ページで見た1961(昭和36)年の国土地理院の航空写真(7月9日、MKT612-C38-29)に、迅速測図から抽出したRidge1の等高線と2003(平成15)年の測量図を重ね合わせたものです。2003年度の測量図では、測線NO.4からNO.6にかけての画面中段に20mから24mまで5本の等高線が密集しています。かなりの絶壁になっているのですが、これは自然地形ではなく1960年代後半から1970年代はじめにかけて掘削された結果です。関東地方建設局/下館工事事務所が大臣告示(告示日は1966年12月28日)の原案を作成し本省河川局長に稟議(1965〔昭和40〕年6月29日、建河発245号、各地方建設局長等あて河川局長通達による指示)していたのは、このRidge1の掘削前です。Ridge1は縮尺2万分の1迅速測図から転写したridgeの形を縮尺3千分の1の測量図に描き込んだものですから(ただし、少々修整してあります)、あくまで概略ではありますが、その当時はほぼ緑の等高線のとおりの形状を維持していたはずです(緑実線はT.P.=20m、緑破線はT.P.=30mの等高線。Y.P.はそれに0.84m加えた値)。

 まさに「山付き」になる部分に注目します。

 

 

 以下、この部分をさらに拡大し、1966年告示図と2003年測量図とを比較すると、堤防末端の位置が相違しています。というより、堤防の形状が違うのです。重ね合わせのあとに、1966年告示図と、測量図(河川区域境界線を加筆)を示します。告示図では、堤内側から登って来た坂路が、そのまま堤外側に降りて行くところが堤防の末端になっていますが、測量図ではそこから下流側に堤体が延びています。そしてこの盲腸のような堤防の末端は法面ないし崖のようになっていて、その先の標高が堤防天端より低くなっています。

 この堤防の末端は26.00kの上流約30mです。

 

 

 

 この盲腸部分は精細な測量図にはっきりと描かれているうえ、一番古い1947(昭和22)年の占領軍撮影の航空写真でも、測量図のとおりの形状に見えます。告示図がこの盲腸部分を無視したことは明らかです。

 重要なのは、その先です。すなわちこの盲腸堤防の末端部分のその先、つまり南側=下流側の地形・標高です。省略された堤防南端の下流寄り、26.00kの距離標石(「26/0」)の手前、河川区域境界線に被って、「・26,1」(黄楕円)とあります。頭の「・」の地点の標高が、Y.P.= 26.1mもあるというのです。これは重要なことです。切り取った範囲のすぐ上流側の堤防の天端高は25.0mです。この末端で天端高が極端に変化していることはないでしょうから、天端高25m前後の堤防が、標高26.1mの砂丘に接続していることになります。Ridge1の北端に「山付き堤」が取り付いている、ということです。

 ところが、測量図だとまったく違うのです。告示図にはなかった等高線、しかも1mおきの極めて詳細な等高線があるのですが、盲腸堤防の末端断面の崖面に2本の23mの等高線が接しています。23mの等高線2本の間隔は、最も狭い地点では堤防天端幅の半分ほどしかありません。馬の背どころか、猫の額です。猫の額の部分の標高は23.0mとほんのすこしでしょう。測量図の測線NO.8地点の堤防天端高は23.973mです。堤防端部の斜面記号とあわせて判断すると堤防が取り付いている部分は堤防より低い、それもかなり低いのです。告示図では26.1mで、測量図では23m少々ですから3m近い差があるのです。地盤沈下分として1m程度を差し引いたとしてもかなりの差です。自然現象では到底ありえない相違です。

 告示図は1963(昭和38)年の測図、測量図は2003(平成15)年の測量ですから40年の時間差があり、その間に人為的な地形改変があったことが考えられます。しかし、堤防末端に程近く河川区域境界線が通っているすぐ脇で砂丘を掘削すれば、大問題になります。よほどのことがない限りこのような掘削はありえないでしょう。とはいえ、「よほどのこと」が頻発、それどころか1960年代後半以降は常態化したのが若宮戸河畔砂丘なのです。したがって、可能性があるのはつぎのいずれかです。

 

(1)鎌庭捷水路が開削(1935〔昭和10〕年通水)された際に新造された堤防は、若宮戸河畔砂丘に「山付き」になっていた。すなわち、堤防は天端高より標高の高い砂丘のridgeに接していた。その状態が1960年代なかばの河川区域の告示図に砂丘の北端部分の標高「・26.1」と記録された。その後砂丘北端が河川区域境界線を挟んで掘削され堤防天端より低くなった。その状態が2003年度の測量図に記録された。

 

(2)若宮戸河畔砂丘北端付近鎌庭捷水路が開削された時点で測量図の状態だった。鎌庭捷水路開削の際に新造された堤防は、それが接する若宮戸河畔砂丘の北端部分より標高が高かった。すなわち「山付き」になっていなかった。ところが、1960年代なかばの告示図では砂丘の北端部分の標高が、誤って「・26.1」と記録された。2003年度の測量図では「山付き」になっていないその状態が記録された。

 

 (1)の場合の問題点を挙げてみます。まず、どこまでを河川区域としたのか、河川法と河川法施行令の用語でいうと、「三号地」の範囲をどこまでとするか、その根拠が一切示されていないことです。1mごとの等高線と必要な箇所の標高を記すべきであるのに、告示図は全域で等高線を排除しています。標高表示もきわめて少なく、この付近で言うと、「・26.1」m以外には26.00kの距離標石の標高の「24.08」mだけです。

 

 その距離標石の数値「24.08」(白楕円)は、少々位置がずれますが(実際の移動か、図の誤差か不明)、測量図では23.913mとなっていて、地盤沈下による変動を勘案すると告示図とほぼ同じ標高値です。測量図の数値はかつら測量が自分で測量したのではなく、2001(平成13)年の定期測量の結果をもらってそのまま転記したのでしょう。この標石は22mの等高線のすぐ近くにあることになっています。本当だとすると、記念碑でもあるまいに高さ1.8mかそれ以上の標石が立っていることになります。頭頂部の金属鋲に測定器具(プリズム)を当てて三脚に据え付けた測定機(トータルステーション)で覗いて高度を測定するのに、脚立が必要になります。明らかな誤記でしょう。他の箇所でも距離標石が複数ある場所があります(写真は左岸4.75kの例。遠方の矢印の先に小さく見えるのが、管理基平面図にも記載されていないもうひとつの標石です)。26.00kには背後のridgeの上あたりにもうひとつ標石があって、その測量値を記入したのかもしれません。残念ながら、現物を確認していないので(現在は、激特堤防新造により設置替え済み)、もはや真相はわかりません。

 そんなことより、(1)の場合の注目点は、「山付き堤」が取り付いている若宮戸河畔砂丘のridgeの端部が大規模に掘削され、すくなくとも2m低くなってしまったことです。しかも、そこには河川区域境界線が通っているのですから、河川区域の内外にわたる掘削だったのです。2014(平成26)年に「B社」がRidge2を掘削した時のように、河川区域外なので問題ないとする言い訳は通用しません。「河川の流水を出水時において災害をもたらすことのないように安全に流下させるため支障となる行為を規制する等、河川管理者が、河状を呈する土地〔低水敷〕と一体として管理を行う必要がある土地の区域」(建設省河川法研究会『河川法逐条解説』1985年、全国加除法令出版、47ページ)であるもの(三号地)について、管理を怠ったということです。

 (2)であったという場合も、同様に深刻です。「山」に取り付いている堤防の方が高く、数十cmの段差があるのですから、鎌庭捷水路の下流端の堤防ははじめから「山付き堤」ではなかった、ということです。若宮戸河畔砂丘は、河川法施行令第一条第一項が定める河川法第六条第一項の「三号地」のうち、前ページで(あ)とした「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち「堤防に隣接する土地」ではありえない、ということです。

 

 (1)の場合には、1966(昭和41)年以降のある時点で、その部分は三号地であるための前提である地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」でなくなったのです。あるいは、「堤防に隣接する」状態を喪失した(「隣接」しなくなった)ともいえます。(2)の場合は(鎌庭捷水路が完成した1935〔昭和10〕年は、低水敷だけが河川区域だった旧河川法の時代であり、そもそも「三号地」概念がなかったわけですが)、1965(昭和40)年の河川法施行時点で、すでにあらかじめ、(あ)地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」のうち「堤防に隣接する土地」としての三号地ではなかった、ということです。

 

  (1)(2)のいずれであったか、暫時検討します。

 まず、若宮戸河畔砂丘の最北端部の概況です。激特事業による堤防完成後の2017年9月10日の画像です。MacOSないしWindows上のウェブブラウザ(Safari、Chromeなど)、およびタブレットないしスマートフォンのアプリケーション版で閲覧するGoogleEarthの「3D」画像です(多方向から撮影した航空写真によって立体画像を構成したものを、範囲・方位・俯角を変えて閲覧できます。GoogleEarthは、パソコンのウェブブラウザ版、パソコンのアプリケーション版〔GoogleEarth Pro〕、そしてタブレットないしスマートフォンのアプリケーション版があり、表示様態や撮影時期が異なります。しかも随時差し替えや規格変更がおこなわれるので、見るなら今のうちです)。

 

 2014年3月22日のグーグルの衛星写真と測量図の重ね合わせに、現地の地上写真(2021年11月)の撮影位置と画角を描き加えます。

 

 白が1枚目で、激特堤防に埋没した盲腸堤防末端から、東方(ぎりぎりで「堤内地」)を見下ろしたところです。朽ち果てた物置のラインが盲腸堤防の末端です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黄が2枚目で、衛星写真には写っているがその後撤去された家屋のあったあたりから、河道方向の砂丘末端を見上げたところです。

 両方に写っている緑のフェンスの昇降具合で、土地の起伏がよくわかります。


 

 概要を把握したので、細部を見ることにします。あらかじめ結論を述べると、(1)と見るのが妥当です。すなわち、1935(昭和10)年時点で内務省は、あらたに作った鎌庭捷水路の左岸堤防を、若宮戸河畔砂丘の北端に「山付き」になるように建造しました。つまりその接続点より先(下流側・南側)の砂丘は堤防天端高より高かったのです。その状態で1966(昭和41)年の河川区域の大臣告示がおこなわれ、その後に何者かの手によって砂丘が掘削され、堤防の先(下流側・南側)の砂丘は堤防天端高より低くなったのです。その状態を2003年度に測量したのが、下館河川事務所から委託された株式会社かつら設計です。

 そう判断する根拠を示します。以下のとおり、この堤防と砂丘が接続していた部分の現状を仔細に観察すると、もともとの自然的地形では到底あり得ず、あきらかに人為的に掘削された形状・状況を呈しているのです。その人為的改変は、若宮戸河畔砂丘の大規模な掘削が一段落した1975(昭和50)年以降におこなわれたようです。

 背景の同じく2014年3月22日のグーグルの衛星写真に、次のとおり描き入れます。

 

 青実線:線で囲まれたところが国有地(「官地」)。堤防などの河川管理施設、すなわち「二号地」です。

 橙実線:公図にある筆界から抽出したもの(以上典拠は建設技研の設計図書)

 青丸:盲腸堤防の末端。

 赤丸:大臣告示図の「・26.1」位置。

 緑丸:大臣告示図の26.00k距離標石。

 紫丸:小道(下記)のための掘り込みでできた崖面の崩れ防止のための土嚢。

 橙破線:等高線の状況から砂丘を横断する小道があったと思われる線。

 

 これに2003年度の測量図を重ね、河川区域境界線を描き加えたものです。

 

 そしてその次が、測量図だけのものです。

 

 

 

 


 

 測量図・衛星写真上で示したものを、画面下から上へ、すなわち東側から西側へ、最後に河川区域境界線を横切って激特堤防へと、順次地上写真(2021年11月)で示します。

 まず緑実線の左(南側)の地図・衛星写真の住宅が撤去された跡地から、北側(上流側)の鹿島神社(次ページで見る25.50kにあった「第六天」ないし「大六天」を合祀)方向を見たところです。地図中に緑実線で示した高さ85cmのコンクリート擁壁の向こうは、かつて耕作地だった草地です。手前の住宅跡地はかつてRidge1だったところですが、このとおりかなり掘削されています。もとの標高は草地より高かったでしょう。草地も多少掘削されているでしょう。

 

 

 向きを西に変え、橙破線で示した小道跡の登り口です。小道は、紫丸の土嚢(よく見ると写っています)の積んである左の崖に沿って右に登ります。

 

 

 小道を登った中段から、振り返ったところです。右(南側・下流側)崖下に土嚢が見えます。「砂丘林」を伐採後、砂丘を掘削した跡が荒れて、竹藪になっています。手前はある程度は手入れされているようで、竹の切り株が見えます。

 

 

 小道の中段(紫丸と赤丸の中間あたり)から、南側をみたところです。左下が紫丸の土嚢です。地図中に赤字で「伐採・平坦地」としたところの北側崖です。「伐採・平坦地」も、この小道中段もあきらかに自然地形ではありません。人為的な、若宮戸河畔砂丘ではこれが普通ですがかなり雑な掘削によるものです。「伐採・平坦地」とこの小道の間には緑網フェンスがあるので、別の地主の所有地なのでしょう。鉄板は昇降用ではなく、擁壁のつもりでしょう。

 

 

 大きさがわかるよう、黄と白がそれぞれ1mで全長5mの測定棒を置いてみました。

 

 

 小道中段から西側の河道方向を見たところです。登り切ると赤丸「・26.1」地点です。

 

 

 小道を登り切った地点を、上流側(北側)から見ています。排水用側溝が川裏側法面の法尻のようです。段付きになっている上が、かつての「・26.1」です。今は激特堤防26.00kの天端高(設計値は計画築堤高と同じ24.120m)より低くなっています。緑網フェンスの向こうは「伐採・平坦地」で、赤頭標石とそこから渡されたロープは、側溝とズレていますが、右に川裏側法面が見えている激特堤防建造後の河川区域境界のようです。ということは「官民境界」でもあります。

 

 

 激特堤防に上がった天端にできた?「伐採・平坦地」入口です。手前にペイント書きがあるように、新しい26.00k標石の地点です。知らない団体名の郵便受けがあり、除草はしてあるので、一応管理はされているようです。周囲の元の「砂丘林」は荒れ果てて「砂丘竹藪」になっています(2021年5月)。

 


 

 以上のような状況ですから、Ridge1北端は自然地形のままではなく、1966(昭和41)年の大臣告示以降に人為的に掘削された、すなわちふたつの可能性のうち(1)であると見るのが妥当でしょう。そうなると、1935(昭和10)年における、その地点(26.00k付近)における内務省による河川管理(築堤と若宮戸河畔砂丘への接続)は妥当であったといえます。

 しかし、1966(昭和41)年における、その地点(26.00k付近)についての大臣告示による河川区域境界線の設定については、なお問題が残ります。

 今は、単純に若宮戸河畔砂丘北端において堤防が「山付き」になっていたか否かだけの話にとどめ、このRidge1最北端の河川区域境界線の設定については、最後にRidge1の東麓に設定すべきであったという、当サイトの基本主張を詳述するなかで検討することにします。

 この地点の河川区域境界線については、1935年ないし新河川法制定時におけるRidge1の最北端の地形構造を確定したうえで、鎌庭捷水路堤防の川裏側法尻から、そのRidge1の東麓へと連ねる線を描かなければなりません。緑線は、迅速測図から抽出した概要であるので、現地の地形をより精密に明らかにしなければなりません。また、堤防末端(青丸)を起点ないし経過点とする形状にはならないしょう。

 ここには仮に試案を示すだけにし(赤挟み緑線)、詳細は3ページ先で検討することにします。

 

補足 (2021.11.29)

 一般財団法人国土技術研究センターが、水害直後に現地調査のうえ作成した報告書中に、この盲腸堤防末端部の写真が掲載されていたことに、あとで気づきました。 「自然堤防」とか「砂州」など、河川土木業界では珍しくもない支離滅裂な説明をつけていますが、貴重な写真ではあります。

 さきほどまでの図の青丸地点です。その先に突然の段差があって落ち込んでいます。向こうに竹藪が見えています。右下が河道沿いの道につながる坂路です。それにしても、ずいぶん大きく掘り込んだものですが、下館河川事務所は黙認していたわけです。

https://www.jice.or.jp/reports/disaster/07


 下流方向へと検討を進めます。

 

 標高20m台まで降下する河川区域境界線

 第1クォーターの25.75k前後です(測線NO.2とNO.3の間、緑実線が被って25.75k標石。大臣告示図の時点には250m毎の距離標石はなかったようです)。緑実線は迅速測図から読み取ったT.P.=20mの等高線、緑破線はT.P.=30mの等高線です(Y.P.はそれに0.84mを加えた値)。

 

 

 

 河川区域境界線は下流側に延びていくのですが、Ridge1の川裏側(河道の反対側)斜面(法面)に回り込んではいません。アルファ型ではないということです。Ridge1の川表側(河道側)斜面(法面)を辿っていくので、一見するとベータ型のように思えます。しかし、最初は23mの等高線より高かったのが、すぐにそこから降り、測線NO.5とNO.4の間の「河川境界」標石は22mの等高線も降った21m台の地点に打たれています。計画高水位をすくなくとも50cm程度下回っているのです。タイプとしてはベータ型なのでしょうが、いかんせん計画高水位よりかなり低いのです。河川区域の外側に標高の高いridgeが聳えていて洪水をおしとどめ、氾濫を防いできたのです。そこが保存されず掘削されてしまえば氾濫は不可避です。この「三号地」は、「一号地〔低水路〕と一体として管理を行う必要があるものととして河川管理者が指定した区域」なのですが、こういう線引きをしたのでは「一号地と一体として管理」をおこなう意味はありません。河川区域境界線は、Ridge1の川裏側(東側、画面下方)に回り込ませるようにすればよかったのに、と思うのですが、なぜかそうしないのです。

 測線NO.1からNO.3にかけての河道近くにある凹形の掘削跡は、1947(昭和22)年の米軍撮影の写真でもすでに存在しました。その北側(画面右側)の測線NO.3からNO.4にかけての掘削跡は、1961(昭和36)年の国土地理院の写真に写っています。いずれも耕地化のための掘削開墾でしょう。この部分の測量図による地形表示と標高は、1966(昭和41)年の告示以前からこのようだったようです。

 河川区域境界線は、ところどころ21mを超えていますが、おおむね20m台です。砂丘上流端の盲腸堤防端部ではかろうじて23m台だったのが、下流へ進めば進むほどますます低いところに降りていくのです。河川区域境界線より河道側には、標高の高い地形はありません。測線NO.3付近の20.0mと20.2mは、大臣告示図の標高表記です(小数点がフランス式に「 , 」です)。25.75kの計画築堤高の24.030mはもちろん、計画高水位の22.530mにもはるかに及びません。

 測量図は、1960年代後半から1970年代始めにかけて、Ridge1の東側(画面下方)半分以上が、最高点を含めて完全に掘削されて消滅し、破断面が絶壁になったあとの状況です。等高線が一直線に5、6本密になっています。それでも河道側だけ〝半身〟になって残ったRidge1の標高は25m以上あります。最高点は28m以上(測線NO.2の右)です。河川区域境界線は、アルファ型(河川区域境界線の標高は計画高水位より低いが、河道との間に計画高水位より標高の高い堤防ないし自然地形が存在する)とし、Ridge1の東麓に引くのが順当だったのですが、妥協してベータ型(河道との間に計画高水位より標高の高い堤防ないし自然地形が存在しないが、河川区域境界線の標高は計画高水位より高い)とするにしても、Ridge1の河道側西斜面(画面上方)の24m以上のところに引けたのに敢えてそうせず、このようにY.P.20m台のところに引いたのです。Ridge1の河道側の〝半身〟が残ったので、幸いなことにここからは氾濫しなかったものの、後に2014年に他県の業者の「B社」が25.35k付近でやったように、河川区域外だということでこの線まで掘り崩すようなことをしていれば氾濫を起こす可能性もおおいにあったわけです。このような線引きは完全に失当です。

 

 形だけridgeの川裏側に引かれた河川区域境界線(外見的アルファ型)

 第1クォーターと第2クォーターの境の25.50k前後です(大臣告示図と測量図では、25.50k標石位置が大きく異なっています。誤差・誤記ではなく、打ち直しです)。Ridge1からRidge2(黄)が分岐し、同時にRidge3(青)が出現します。河川区域境界線は、このRidge3の内陸側(東側)に引かれています。

 

 

 一見、アルファ型になっているように見えますが、Ridge3の標高は、測線NO.17とNO.18の間で告示図と測量図の両方で同じ22.40mとあるとおり、25.50kの計画築堤高の23.940mはもちろん、計画高水位の22.440mにも及びません。画面左端の測線NO.15の右あたりは、告示の1966(昭和41)年以前に掘削されたもののようで20.42mとさらに2m低く、問題外です。

 

 河川区域境界線の内も外も一体的に掘削

 第2クォーターの下流側半分です。測量図の表示のとおり、小林牧場の鶏舎(「畜舎」)の敷地付近です。鶏舎は、あとで見るとおり、1968(昭和43)年の航空写真にはまだなく、1972(昭和47)年の航空写真で東側の2棟が建造されています。大臣告示による河川区域境界線は、鶏舎の建設前に引かれたものであり、上でみた地点と同様に、 Ridge3(青)の内陸側に引かれています。一見すると、アルファ型に見えます。問題はこの部分の Ridge3の標高です。

 

 この小林牧場の長方形の敷地(画面下方はRidge2の河道側、画面上方は Ridge3の河道側、画面左方は市道東0272号線、画面右方は測線NO.13)は、河川区域の内と外にまたがっているのですが、それらが一体的に、1966(昭和41)年の河川区域の指定後に、掘削されたのです。

 右は市道東0272号線が Ridge3を横断している地点を東側から見たところです(2015年10月26日、画面奥が河道)。青白コーンは、水害後に河川区域境界線上に置かれたものです。道路の左の Ridge3は22m以上ある のですが、写真のとおり、道路の右側(北側、上流側)は、完全に掘削されていて真っ平らです。

 今は大臣告示による河川区域の設定の当否を見ている段階なのですが、その数年後にはこうなっているのです。河川区域の内だろうが外だろうが関係なしに掘削されたのです。2014(平成26)年6月に、「B社」がRidge2の森林を無届け伐採(森林法違反)したうえで砂丘それ自体を掘削している時、下館河川事務所は、「河川区域の外のことなので、規制することはできない」として、それを黙認したのですが、じつのところその言い訳自体がまったくの出鱈目だったのです。関東地方建設局=関東地方整備局/下館工事事務所=下館河川事務所は、何十年も前から河川区域内の掘削、しかも計画高水位ギリギリの標高がある Ridge3の掘削を許容していたのです。

 

 24.75k前後の不可解な境界線

 第3クォーターの24.75k付近です。画面中央下、測線NO.5近くにL24.75kの標石があります。

 上流側でRidge3(青)の内陸側に引かれていた河川区域境界線が突然Ridge3を斜め横断して、Ridge3の河道側に移っています。その区間のRidge4(紫)の標高は記されていないのですが、やや上流の測線NO.7が直行する地点の21.618mと同程度と思われ、計画高水位にも及ばないでしょう。

 なお、このRidge4の下流端のすぐ河道側に、告示図で29.6mという標高がありますが、おそらく20.6mか19.6mの誤記でしょう。

 

 測線NO.11とNO.12の間に告示図の文字で20.3mとあります。測量図の線と被ってしまっていますが、その上方(河道側)の道路(市道東0272号線)の路面の標高です。告示図は肝心の Ridge3の標高をわざと記していないのです。

 測量図では測線NO.11の左に19.47mと19.58m、測線NO.12の右に19.57mと、とんでもなく低い標高が記されています。これは、1968(昭和43)年以降、1972(昭和47)年以前に行われた鶏舎の敷地一帯の掘削後の数値です。 Ridge3もこの時に同時に掘削されたのであり、その結果が19.47mと19.58mです。測量図を見ると、鶏舎の左側(下流側)に縦(東西)に通っている道路(市道東0272号線)の左側の Ridge3部分に22mの等高線がありますから、この切り通しを挟んで同じくらいの標高があったように思われます。 Ridge3は、ひとつ前の図でみた区間より、下流側のこの区間の方が標高が高かったようです。Ridge3は、この25.25k付近では計画築堤高の23.850mには及ばないながらも、かろうじて計画高水位の22.350m前後の標高があったようです。

 

 

 それにしても、この区間でRidge3の河道側に唐突に飛び出しているのは、どういう理由によるのでしょうか。2年ほど前にこの件を検討したことがあり、その時は迅速測図以降に地形の人為的改変がおこなわれたのかもしれないと想定しました(別ページ)。1968年の航空写真を見ると、そのような地形になっているように見えないこともないのですが、判明ではありません。

 河川区域境界線がRidge3の東麓から西麓に移った原因として考えられる要因が、もうひとつあります。このページではその仮説をたてることにします。

 左岸だけを見ている限り、上流側(東麓)と下流側(西麓)という境界線の位置変化の要因は特段みあたらないのですが、視点を引き揚げて右岸までを視野に入れると、要因らしきものがあります。この区間の対岸がそこだけ無堤区間なのです。

 

 対岸は常総市国生(こっしょう)です。長塚節(ながつか・たかし)の出生地にして、小説『土』の舞台です。

 右岸24.75k付近の、約200mの無堤区間は更新世段丘の辺縁が河道に接している部分です。国土地理院の治水地形分類図(更新版)の茶が更新世段丘であり、紫は河道に接している部分の段丘崖です。(黄は自然堤防、薄緑が後背湿地、緑はとくに低平な後背湿地、左岸の黄地に伏せ碗が河畔砂丘です。ただし、国土地理院は薄緑を「氾濫平野」と耳慣れない用語で呼び、緑だけを「後背湿地」とするのですが、高校「地理」教科書を含め一般的な分類とズレていて不適切です〔別ページ参照〕。なお、24.8とあるのは24.75kのことです。)

 その更新世段丘の「山」に上流側と下流側の堤防がそれぞれ「山付き堤」として取り付いているかのように見えます。ところが、現地の状況を見ると、全く違うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 激特事業によってこの区間にも堤防が新設され、様子がすっかり変わっているのですが、堤内側に「ハ」の字に飛び出していた堤体は、撤去されずにそのまま残っています。

 1枚目が上流側の国生排水樋管地点から、下流方向をみたところです(2021年10月)。このように水門や樋管がある部分は、激特事業を5年以内に終了させるために、嵩上げ・拡幅せず元のままになっています。その先で河道側に張り出し、コンクリートの法肩縁石が見えているのが激特事業による新造堤防です。それと分岐し樋管部分と同じ高さ・規格で堤内側にゆるやかにカーブしているのが、「ハ」の字の2画目、上流側の「山付き堤」と思われたものです。住宅の手前で終わっているのですが、そこは天端より高い「山」は存在しません。「山付き」にはなっていません。

 2枚目は、激特事業により嵩上げ・拡幅された下流側の堤防上から、上流方向を見たところです(同日。影は水管橋。遠景右端は日光の男体山)。堤内側に延びているのが「ハ」の1画目、下流側の「山付き堤」と思われた堤防です。こちらは、左岸の1952(昭和47)年に築堤された区間と同じく、天端は未舗装でした。住宅地の手前で終わっているのですが、そこは「山」でないどころか、かなり低いのです。下流側も「山付き」にはなっていません。

 最後は、末端のアップです。

 


 経緯をたどってみます。

 

 1880年代の迅速測図では、河道のすぐそばに建物が2つあります。おそらく1軒の農家住宅です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1966(昭和41)年の大臣告示図。もっとも河道に近いところに住宅が1軒あって(建物は4棟)そこを立ち退かせないと堤防を一直線に建造することができないものの、更新世段丘の辺縁である程度の標高があったので、上下流の堤防を「ハ」の字に曲げて途切れさせ、そこだけ無堤にしたようです。

 そのうえで、河道のすぐそばの住宅を避けて河川区域境界線を引いたのです。上下流の堤防が「ハ」の字になっていて、一見すると「山付き堤」のように見えますが、見えるだけです。背後に住宅が3軒増えています。

 

 管理基平面図(河川区域境界線は、堤防法尻とそれに続く細黒実線)では、明治期からあった、あの住宅がなくなり、敷地が空き地になっています。上流側の隣地の標高は21.3mです。河道近くの標高はかなり低く、24.75kの計画高水位22.170mに遠く及びません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2020(令和2)年4月のグーグルの衛星写真では、この区間を含めて激特事業による堤防の新造、嵩上げ・拡幅が終わっています。あの空き地は堤防敷になりました。


 

 前ページで検討した際、若宮戸河畔砂丘は、(う)とした「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防の対岸に存する土地」に該当すると考えることもできる、と指摘しました。若宮戸河畔砂丘に山付き堤が取り付いていない場合には(あ)の「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地」ではないことになりますが、右岸には堤防があるので、26.00k付近から24.80kまでは(う)地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防の対岸に存する土地」として「三号地」に指定する筋も成立する、というわけです。

 ところが、今見ているこの区間、概ね24.80kから24.63kまでの区間には対岸(右岸)に堤防がありませんから、この区間(左岸)については、そこを(う)としての「三号地」とする根拠がありません。26.00k付近から24.80kまでは(う)地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防の対岸に存する土地」ということで、上流側の第1クォーターはRidge1の河道側にベータ型の境界線を、下流側の第2クォーターはRidge3の東麓にアルファ型の境界線を引いてきたのです(といっても計画築堤高どころか計画高水位もクリアしないのですが)。ところが、24.80kから24.63kの堤防の末端までは、対岸(右岸)に堤防がないので左岸のどこまでを河川区域とするかについて、いかなる理由・根拠・基準もないのです。

 両岸が無堤区間とあっては、この24.80kから24.63kまでについては、別の根拠にもとづいて河川区域を設定しなければならないのです。(あ)の「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地」の線は潰してしまったのでいまさらそれを持ち出すことはできません。三号地を指定するうえでの根拠・理由がどこにも見当たらないので、もはや出鱈目に引くほかに道は残されていないのです。

 まず右岸については、当時あった農家住宅敷地を河川区域に繰り込まないようにするため、河川区域境界線を河道ギリギリに引いたのです。旧河川法のもとでの河川区域の引き方です。新河川法のもとでは違法です。

 そのうえで、左岸に河川区域境界線を引くにあたっては、右岸とバランスをとり、右岸に見合ったものにしなければなりません。かくのごとく、右岸の河道ぎりぎりまで寄せられた境界線にまるで吸い寄せられるように、左岸の河川区域境界線もRidge3を乗り越えて河道側に引かれることになったのです。このあたり一帯を所有する地主に配慮し、河川区域に繰り込む土地の面積をなるべく減らす効果もあったわけです。なんだったら、Ridge3を跨いたついでにRidge4も飛び越えてしまえば完璧だったのですが、中途半端なところに着地したという次第です。

 

 24.63kにおいても若宮戸河畔砂丘は「堤防に隣接」する土地として指定されていない

 1952(昭和27)年に24.63kまで延伸された堤防は、その時点で若宮戸河畔砂丘のRidge1に「山付き」になっています。内務省がそのようなものとして設計しておいたものを(2ページ・11ページ参照)、建設省がそのようなものとして築堤工事を実施したのです。さきにみたとおり、上流側の26.00k付近はRidge1に対する「山付き堤」となっていたと推定できますが、この下流側の24.63k地点ではRidge1に対して完全に「山付き堤」となっています。疑問の余地はありません。今もそうなっているのですから。写真は堤防の末端がRidge1に取り付いた地点を河道側から見たところです(2018年6月18日)。右が堤防、左がそこに墓地があったためRidge1の残された畝、畝と堤防の接合部から降りてくるのが市道東0280号線です。

 

 

 Ridge1があらかた掘削されてしまった現在となっては、24.50k付近で堤防が突然60度屈曲し、その先の24.63kで突然途切れてしまっている理由は、まるで見当がつきませんが(これを霞堤〔かすみてい〕だと誤解して吹聴している地理学者までいる始末です。〔http://public-report.kasen.or.jp/261213005.pdf、「鹿沼のダム」の記事を参照〕)、1966(昭和41)年に河川区域が告示された時点では、ここから砂丘の北端まで若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟( ridge ) であるRidge1が存在していたわけです。

 上の図でいうと、「と」地点より下流側(画面左側)はすでにアジア・太平洋戦争以前に掘削されてしまっていますが、「と」地点より上流側(画面右側)のRidge1はほぼ完全な状態だったのです。

 下の写真は墓地から堤防を見下ろしたところですが、かなりの標高差があります。立派な「山付き」状態です。画面右の土嚢は仮堤防の端部です(2015年11月19日)。

 

  ところが、実際には墓地のある地点でRidge1と堤防末端が繋がっているのに、大臣告示の図面では、堤防が「山付き」になっているRidge1が一切描画されていないのです。

 それどころか、堤防の末端部は、あとから描き足したものです。元々の線はジアゾコピーの暗紫色ですが、黒ペンの手書きで描き加えてあるのです。原稿版の地図にはないものを、その写しの方に描き足してあるのです。薄赤線と濃赤線も妙にハッキリしているので、これも描き加えたものでしょう。堤防は手抜きの色違いなのに、赤線はわざわざ濃薄2色で描くなど手が込んでいます。

 この告示図全体がおかしな手法・手順で作られています。この告示図面の本質的内容である河川区域境界線は、ジアゾコピーの地図に、あとから赤ペンで手描きされたものです。背景地図の原稿版やそのジアゾコピーにすでに描かれている基準線を、赤ペンでなぞったというのではありません。しかも、肝心の河川区域境界線が、薄赤と濃赤で2回描かれていて、はみ出していたり、間違って描いたところを刃物で削った跡があったりします。畏れ多くも畏くも「大臣告示」の図面であれば、間違いを刃物で削ったりせず、新たなジアゾコピーで地図を作成してそこにあらためて河川区域境界線を描くべきところでしょうが、そうしていないところをみると、もはや地図の原稿版が存在しない段階において削って修正しながら手描きしたということでしょう。普通の感覚からすれば、改竄・偽造・捏造ですが、河川区域境界線が記されたものとしては、これが原本(正本)だということになるのでしょうから、驚きます。

 順番はおそらく次のとおりでしょう。

 

① 原版となる地図を作図する。

② 原版からジアゾコピーで写しをとる。(文字や線は暗紫色になる。)

③ 写しに薄赤ペンで河川区域境界線を手描きする。(「と」脇で河川区域境界線が330度方向転換する地点を除く。)

④ 濃赤ペンで河川区域境界線を手描きで重ね描きする。(③との時間的間隔は不明。同じく「と」脇で河川区域境界線が330度方向転換する地点を除く。)

⑤ ④と食い違ってはみ出している③の薄赤線を刃物で削る。(⑤の濃赤線もわずかに削られているので、④の後とわかる。)

⑥ 図面を4つ折りした際に、濃赤線のインクが乾いていなかったために、ところどころで折り目を対称軸とする対称面に赤インクが付着する。

⑦ 折り畳んだり広げたりが何度も繰り返されたため、折り目が擦れて、その部分のジアゾコピーの地図の暗紫色と、河川区域境界線の薄赤線と濃赤線が摩滅する。(重要書類として保存されたのではなく、実務で用いていたものだったことを示す。)

⑧ 「と」脇で河川区域境界線が330度方向転換する地点の堤防を黒ペンで、河川区域境界線を薄赤線と濃赤線で、手描きする。(ここだけ折り目での摩滅が起きていないので、⑦の後とわかる。)

⑨ 鉛筆でさまざまの書き込みがされる。(重要書類として保存されたのではなく、実務で用いていたものだったことを示す。)

⑩ 厚紙に貼り付けて(その際折り目が縮れたりしている)撮影し、pdfにする(これより状態の良いものが、関東地方整備局/下館河川事務所にはなかったことがわかる)。pdfからプリントし、事務所・出張所などに備え置く。

 

 見れば見るほどおかしなことだらけです。地図の原版=原稿版の段階で「山付き」している堤防の端末も描かず、したがって堤防末端を包み込むようにぐるっと330度回り込んでいるはず(?)の河川区域境界線も描けない(!)ようにしてしまい(①)、その結果河川区域境界線が断線するというとんでもないことになったので、やむを得ず黒ペンで堤防を描き足し、その地点の河川区域境界線をぐるっと330度描き足したのです(⑧)。

 しかし、そこまでしたにも関わらず、それでも最後までRidge1は一切描かなかったその徹底ぶり、異常な執着がかえって浮き彫りになるのです。

 

 こういう次第ですから、若宮戸河畔砂丘は河川法第六条第一項第三号の「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地」として、河川法施行令第一条の「堤外の土地の区域のうち、第一号に掲げる区域と一体として管理を行う必要があるものとして河川管理者が指定した区域」に該当するものではないというほかありません。なにしろ、そういうものとして「河川管理者が指定し」ていないのですから。

 

 24.63kの2点を結ぶ河川区域境界線の仮象

 最後にこの24.63kの堤防末端から河道におろした垂線としての、河川区域境界線です。

 大臣告示図・測量図を見る前に、ここが若宮戸における第2の氾濫地点であったことを確認しておきます。9月10日や11日の写真だと一面に氾濫水が広がっていて焦点が定まらないので、しばらくあとの9月下旬のGoogleEarth Proの航空写真を見ます(現在は表示されません。苺色実線の河川区域境界線を描き加えてあります)。上流側のソーラー発電所地点での仮堤防建造が終わり、ここでの仮堤防建造に着手した直後です。

 画面中央の水溜りが深さ6mといわれる巨大な押堀(おっぽり。「落堀〔おちぼり・おっぽり〕」と呼ぶのが一般的ですが誤用だという指摘があります)です。さらに画面左下の堤防の60度屈曲点の堤外側に、樹木の日陰に白い土嚢が見えますが、ここも氾濫水が流れて法面を洗掘したのです(「深掘れ」というようです。本ページ冒頭の写真参照)。

 

 

 つぎに、大臣告示図です。大臣告示には、等高線が一切描かれていないうえ、ところどころにしか標高が記されていないのですが、1952(昭和27)年に築堤された堤防の60度屈曲部にはどういうわけか集中的に標高が記されています。天端高として23.5m、24.1mのふたつ(赤楕円)、堤外側すなわち河川区域に20.7mと20.8mのふたつ(橙楕円)です。

 

 

 多くの人が、ここで堤防が河畔砂丘のRidge2という「山」に取り付いている、つまりこの部分で堤防は「山付き堤」になっている、と勘違いしています(「山」の方を「山付き堤」と呼ぶ錯誤が加わって支離滅裂なことになっています。この用語の誤用を是正したうえでの話です)。しかし、大臣告示図がほかでは怠っている標高明記をここでだけ実行したので、これが「山付き堤」などではないことがはっきりします。堤防が接している「山」がその堤防より2m以上も低いとあっては、どう見ても「山付き」状態ではありません。 

 2000年代初頭の測量図でこの「山付き」擬き部分を拡大してみます。一番左の赤丸は24.50kの標石とその標高、他のふたつの赤丸は堤防の天端高です。24.50k地点の計画築堤高の23.480mには足りませんが、一応計画高水位の22.080mはクリアしています。60度屈曲点の堤外側に20mと21mの等高線が取り付いています。さきほどの大臣告示図の標高表示と少しのずれはありますが、ここで堤防の堤外側法面に接しているRidge2は堤防天端よりはるかに低いことがわかります。この堤防はRidge2の上に盛り土してつくられたものです(本項目2ページ参照)。したがって、Ridge2が法面に接しているのは当然なのですが、これまた当然ながら堤防より低いわけです。どう間違っても「山付き」状態にはなるはずがありません。

 この60度屈曲点は2015年9月10日に洗掘され(「深掘れ」)、あわや破堤寸前だったわけですが、この付近でもっとも激しく損傷したのは画面右側の地点です。Ridge2を示す等高線の数値には橙丸をつけてあります。1箇所だけ22m以上の地点はありますが、全体が22m以下であるうえ、市道東0280号線が切り通しになっています。洪水は最初は上方の青丸の19.18m地点から市道東0280号線に入り、下方の青丸の19.979m地点から右下の稲田にチョロチョロと流れ込んだのです。その後水位上昇と水流激化によりこの地点が斜めに掘り崩されて激流が流れこんだのです。(これについては、別項目で詳細に分析したので参照ください。)

 

 

 9月下旬の航空写真に測量図とRidge2の概略を重ねると次のようになります。

 

 

 この24.63k地点で河道中心線に垂直に引かれた線は、前ページで仮に名付けたアルファ型(河川区域境界線の標高は計画高水位より低いが、河道との間に計画高水位より標高の高い堤防ないし自然地形が存在する)でもないし、ベータ型(河道との間に計画高水位より標高の高い堤防ないし自然地形が存在しないが、河川区域境界線の標高は計画高水位より高い)でもありません。実態としては「河川区域境界線」ではありません。下流側の末端と上流側の末端が、300m近く離れてしまったので、まさかそのまま途切れさせるわけにもいかないので、何らの理由・原則・根拠もないのに、エイヤとばかりに赤ペンで繋げただけの、仮象としての河川区域境界線です。


 1966(昭和41)年の大臣告示による河川区域は、どのような原理・原則・理由・根拠によって設定されたものなのかを、検討してきました。結論は以下のとおりです。

 

 全体を統一する一貫した原理原則は存在しない。

 区間ごとに、理由らしきものを想定することはできるが、いずれも妥当性を欠く。

 そのうえ、それぞれの根拠・趣旨は相互に矛盾する。

 とりわけ24.63k地点の垂線に至っては、およそ河川区域境界線と呼ぶことすらできない、ただのごまかしの線引きである。

 

 従来、1966年の大臣告示において、若宮戸河畔砂丘の一部が、河川法施行令第一条にいう、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち」「堤防に隣接する土地」として、河川法第六条第一項の「堤外の土地の区域のうち、第一号に掲げる区域〔低水敷〕と一体として管理を行う必要があるものとして河川管理者が指定」する区域としての「三号地」に指定した、と思われてきたのですが、それはまったくの誤解だったのです。

 

 「若宮戸地区については、河川区域の指定をしていない」という国交省の主張

 「常総市水害・被害者の会」のフェイスブック記事(https://www.facebook.com/常総市水害被害者の会-818415811596375/)によると、水害被害者が2016(平成28)年5月11日に国交省と交渉した際に、霞ヶ関の本省河川局の職員が次のように回答したとのことです。

 

若宮戸地区については、河川法第6条第1項第3号の堤外の土地に該当しないことから、河川区域の指定をしておりません。

 

 さらに追加質問に対しては、次のように回答したとのことです。

 

若宮戸の「いわゆる自然堤防」については、砂が堆積してできた地形であり、一号地と 一体として管理を行う必要があるものとは認められないことから、三号地として指定をしていません。

 

 いずれも口頭による回答を聞き取ったもののようでなんとも意味が取りにくいのですが、根本的にいうと、地図を示したうえで遣り取りしていないために理解・解釈が困難(端的には不可能)なのです。「河川区域の指定」をしていない「若宮戸地区」とはいったいどこを指しているのでしょうか。Ridge3型大臣告示にしても、「河川区域」とされた範囲はゼロではないわけです。まさか、河川区域に指定した範囲は、「若宮戸地先(ちさき、ぢさき)」になるのだから、もはやそこは「若宮戸地区」とは言わない、ということなのでしょうか。それはそれで意味は通じますが、人を馬鹿にした言い草です。

 さらに国家賠償請求訴訟(水戸地方裁判所平成31年(ワ)第100号)において、被告国の指定代理人は、「本件基本方針および本件整備計画を策定する上で、河川区域の指定をすることが、法令が求める考慮すべき事項として規定されていないのであるから、これらに河川区域の指定に関する事項が定められていなかったとしても、これをもって本件基本方針及び本件整備計画の内容が不合理であることにはならない」(被告準備書面⑵、2019年9月30日、https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000053)と、趣旨違いのすり替え言説を弄して、正面から1966年の河川区域指定について釈明することを拒んでいます。

 「河川区域の指定をした」と言うと、その当否を追及されるされるから、この際指定しなかったことにしてしまえ、というところなのかもしれませんが、それにしては早くから断固として言い放っているところをみると案外本気なのかもしれません。そもそも1966年当時に実際に赤ペンで線を描いた当事者は(まさかコンサルタント会社に丸投げではなく、建設省職員だったのでしょうが)、全員退職し半分以上は亡くなっているでしょうし、実際どうだったかは最早わからないでしょう。となると、このページで試みたように、告示図の赤線そのものから読み取るしかないのです。

 改修計画を立ててあるのだから、あとは大東水害訴訟最高裁判例を引き合いに出すまでもなく請求棄却の判決文を書いてもらえると高を括っているのでしょうが、その改修計画たるや管内のあちこちの区間について手当たり次第にコンサルタント会社に発注し、ごく大雑把な概要設計図書を納入させて、そこいらに置いてあるというだけのことに過ぎず、実際に若宮戸の(24.63kないし)24.50kから26.00kまでの区間に築堤するのは、いつごろにするかなど考えてもいなかったのです。

 訴訟代理人になっている関東地方整備局・下館河川事務所の管理職はもちろん、担当部課の職員らまで全員が名前だけの指定代理人のようですから、準備書面を書くのは訟務検事の仕事のようです。しかし、河川工学の素人であるのはもちろん、高校生の時に「地理」を履修しなかったと見えて別ページ参照〕河畔砂丘を「自然堤防」だとか「砂堆」などと言いだす状態ですし、鬼怒川などちらっと見た程度なのでしょうから、若宮戸河畔砂丘の河川区域について議論するなど到底無理なのです。こんなことでは、一審で原告側の立証不十分ということでかりに請求棄却判決をもらったところで、被告の主張が肩透かしと摺り替えばかりで最判頼み一本槍では、二審で原告が主張を明確化すれば、俄然見劣りして逆転判決をいただくことにもなりかねません。なにより、河川管理行政の妥当性を積極的に法廷で、ということは国民に対して明らかにする機会をみずから潰すことになるわけです。国の指定代理人が全部入れ替わった(ただし担当訟務検事一人は国交省職員に転任!)のを機会に、ぜひとも積極的立証につとめていただきたいところです。

 

 


 つづけて、Ridge2型の河川区域境界線案について分析する順番ですが、その前に、1960年代後半から1970年代初頭にかけての、Ridge1掘削の状況を見なければなりません。ページあたり容量の制限により、ページを改めます。