四合院

 北京は、大モンゴル帝国(エケ・モンゴル・ウルス)の一部としての元帝国(1271-1368)の首都「大都」として建設された都市ですから、さほど古い都市ではありません。古代以来の「自然発生的」(?)な都市ではなく、ほとんど何もないところに、突然、短期間のうちになにからなにまで意図どおりに建造された都市なのです。この点では、二千年以上前の遺物を間近に見ることができる、ルクソール(エジプト)、イェルサレム、アテネ、ローマなどとはまったく異なります。

(「北京」の範囲をどこまでとするかで、話は違ってきます。モンゴルの「大都」の城壁は、燕の時代の「薊州」を含め、遼の「燕京」、金の「中都」の外側に築かれました。城壁のない日本の都市や、世界中の近代都市と違って、歴史上の都市は、ことごとく城壁によって都市と都市でないものは、はっきりと識別できます。その意味で遼や金の都の外の、「ほとんど何もないところ」に建造されたということです。ただし、瓊華島と池は遼の庭園としてすでにあったもので、そこは破壊されることなく「大都」の城壁内に組み込まれました。)

 

 しかも、その計画たるや、東西方向と南北方向に直線的かつ一定間隔で建設された道路、それによって截然と区画された街区、はっきりした中心軸が全体を貫徹する構造をもち、しかもその全体構造が都市の細部にいたるまで「入れ子」のように再帰的に浸透しているのです。そのすべてが一瞬のうちに立案され、しかも実行されたのです。

 その「入れ子」のうち建築群の次元におけるものが、「四合院」(しごういん)です。それは、ほんの数日間の滞在によっても、眩暈のするような強烈な印象を与えるものでした。