2 文部省の法解釈の誤り

昔の文部省見解を持ち出す


 2010年8月11日、古河第三高校の永塚卓校長は、「外部包括監査」(包括外部監査の誤り)において「監査官」(「包括外部監査人」の誤り)に「研修報告書」を「見られる」時に備えて、どのような研修をおこなったかという内容よりも「自宅でなければならない理由」をどう書くかに留意するようにと指示した。

 これに対して、茨城高教組古河三高分会はただちに反論をおこなった。すなわち、教育公務員特例法が規定する「研修」は、教育公務員の職務(公務)であること、「研修」は、教科などの教育活動にかんする「研究」のみならず、見識や人格を高めるための「修養」も含まれること、教特法第22条第2項の「勤務場所を離れて行う」研修は、「授業に支障」がないことが承認の要件であること、したがって「自宅でなければならない理由」を書くべき理由はない、と(「分会ニュース」、8月23日)。

 すると、9月1日に「紙面・校内研修(参考資料)」とのタイトルを付した文書が同校の全教員に配布された。中身は『新学校管理読本』の188頁から190頁にかけてのコピーであり、欄外には「2010. 9. 1 校長」と記されていた。そして、「188、189ページは校長見解ではなく文科省見解。」と断り書きがある。「論点の整理」として、分会ニュースの主張を、①「職場を離れた場所でなければならない理由を求めること自体が教育公務員特例法に反する」、②「校長が承認するのは『勤務場所を離れること』です。そして、承認する際の要件は『授業に支障』があるか否かです」、③「『研修がどうして職場をはなれた場所でなければできないのかの理由』など書く必要はないのです」の3点に要約したうえで、「①から③の反証にあたると思われる箇所に、①→▲1、②→▲2、③→▲3 を提示してみました」として、コピー中の9箇所に▲印が書き込んである。

 もともと茨城高教組の主張は、文部科学省による「勤務場所を離れて行う研修」に対する不当介入に対抗して、その全面的批判として提出したものである(『茨城の教育 速報版』第10号、2001年5月9日)。茨城高教組の「研修=職務」論は、文部科学省が従来主張する「研修=職務専念義務免除」論に対する反論として提起したものである。1997年発行の『新学校管理読本』(第三次全訂版)のコピーを配布しただけで、2001年5月以降の茨城高教組の主張や2010年8月の茨城高教組古河三高分会の主張に対する「反証」だとするのは、すくなくとも時間的前後関係から無理がある。


論点整理における脱漏


 とはいえ、問題は双方の主張の当否であるから、内容について検討する。

 永塚校長が分会ニュースに関する「論点の整理」として挙げた3点のうち、①と③は内容が重複している。3つの「論点」にわたって「反証」をあげたと言いながら、じつは2つの「論点」しかとりあげていない。重複の一方、「絶えず研究と修養に努めなければならない」という教育公務員特例法第21条の規定にかんする「論点」が脱落している。永塚校長は、研修は勤務場所を離れて行う研修を含めて教員が職務(公務)として従事するものに他ならず、職務専念義務を免除されて私的行為としておこなうものではありえないという、分会ニュースが提起している最も重要な「論点」を完全に見落としている。

 永塚校長は、「勤務場所を離れて行う」研修は、職務(公務)であるのかそれとも職務専念義務を免除されておこなう職務外の行為であるのかという根本的事柄については全く無頓着のようで、「職場を離れた場所でなければならない理由」を書くべきだという結論部分にもっぱら関心が集中しているのである。


札幌高裁判決に頼る


 『新学校管理読本』は、「勤務場所を離れて行う」研修に関しては、「本属長」(校長)は「授業に支障がない場合であっても、校務運営上の支障の有無等諸般の事情を勘案して自由裁量により承認を与えることができるものである」と断定するのだが、その根拠・理由についての説明はまったくない。法律の明文規定に反する内容を恣意的に付加しているのだから根拠を示せないのは当然である。ここで唐突に出てくるのが判例である。永塚校長がコピーした『新学校管理読本』には「参考」として札幌高等裁判所の判決の一部が13行ほど引用されている。

 この行政訴訟は、北海道白老町立白老(しらおい)小学校の川上教諭が1968(昭和43)年11月8日から10日にかけて帯広市で実施された北海道教組と高教組による教育研究集会に参加するため教特法にもとづく「勤務場所を離れて行う」研修の承認を求めたのに対し、同校の校長が教育研究集会は職員団体(教職員組合)の活動であって同集会に参加することは研修にはあたらないとしてこれを承認せず、北海道が11月6日午後から9日までの給与分7015円を翌1969年2月支給の給与から減額したことに対して、川上教諭がこの減額分の支払いを求めたものである(兼子仁・佐藤司『判例から見た教育法』1977年、新日本法規出版、239–50頁)。

 一審札幌地裁は川上教諭の請求を棄却し(昭和44年(行ウ)第5号、判決1971〔昭和46〕年5月10日)、二審札幌高裁は川上教諭の控訴を棄却した(昭和46年(行コ)第3号、判決1977〔昭和52〕年2月10日、判決全文はwww.courts.go.jp/hanrei/pdf/7DF9C994BAA0898149256D41000A7730.pdf)。

 控訴審において、被控訴人の北海道は従来の文部行政解釈のとおり、教員の研修には(一)勤務時間外の自主研修、及び(二)勤務時間内の研修のうち、(1)職務命令による研修、並びに(2)職務専念義務免除による研修の三種類があると主張した。そして、教特法第22条第2項(当時は改正による条文追加前なので第20条第2項)の「勤務場所を離れて行う」研修は、このうち(二)(2)にあたるとしたうえで、つぎのとおり主張した。

 

「勤務しない間の給与の減額もなされないのであるから、右研修の内容は職務と密接な関連を有し、今後の職務の遂行に役立つものであり、かつ、授業に支障がない等相当合理的な理由の存在することが必要であ」る(事実、三)。

 

 そもそも法律(教特法)が教育公務員に対して、職務外の私的行為としての研修を義務づけているとする解釈は失当である。法律が義務づける研修がすべて職務(公務)であることは自明である。文部行政当局も教特法制定後しばらくの間は「研修=職務」とする立場をとっていたが、突然1964(昭和39)年の行政通達でそれを変更し、「研修=職務専念義務免除」論に転じた(『基本法コンメンタール 新版 教育法』1977年、日本評論社、392頁)。

 文部行政当局は研修が職務(公務)であることを認めず、研修を恣意的に分類したうえで、あるものは職務であるとしつつ別のあるものは職務でないとする。これが以後のあらゆる矛盾と混乱の根本原因となっている。たとえば、職務でないとした研修のうち(二)(2)の職務専念義務を免除されたうえでおこなう研修について、職務と密接な関連を有しなければならないという主張は、支離滅裂でとうていつじつまがあわない。


札幌高裁判決の背理


 札幌高等裁判所の判事たちは、控訴人川上教諭側の「研修=職務」論を採用する気はないものの、さりとて矛盾と混乱に満ちた教育行政解釈をそのまま採用して判決文を書いたのでは杜撰のそしりを免れず、法曹としてのプライドが許さないとでも考えたのだろう。札幌高裁判決は、「控訴棄却」の理由として、被控訴人側が主張していない主張を自分自身で用意し、判決文中に組み込んだ。

 

「勤務時間内に勤務場所外で行われる自発的研修については、勤務場所を離れることにより本属長の服務上の監督権が事実上及ばないこととなる関係上、それが右監督権の例外的離脱によつて本来的職務として第一義的に行われるべき勤務場所での授業その他の日常的業務に及ぼす支障の有無、更には研修と称する右行為が右の離脱を相当とすべき前示「研修」に当るか否かを服務監督義務上服務監督権者においてまず判断せしめる必要があるため、同法第二〇条第二項においてこれを本属長の承認にかからしめた上、右勤務場所外での自発的研修をなすことをも許容したものと解するのが相当である。」(理由、三、2)

 

 「勤務場所を離れることにより本属長の服務上の監督権が事実上及ばないこととなる」というのは、ずいぶんおかしな命題である。まず、判決文中の「事実」ではなく「理由」において法解釈の話をしているのに、当事者が主張してもいない「事実上」の話を創作してそれを根拠にすること自体が間違いである。法的問題〔権利問題〕と事実問題との区別がついていない。むしろ、あえて混同したうえで都合よく結論を引き出そうとしたのだろう。高裁判事たる者が、法曹としての資格をみずから否定するも同然の行為である。

 そして、「事実問題」としてもこの命題は誤りである。たとえば何年もの間勤務場所を「離れ」たうえ、その間一切の連絡をとらないというのでもあればなるほど「服務上の監督権が事実上及ばない」というほかあるまいが、一定の日時を区切って、どこでどのような内容の研修を行うかについて、事前および事後の報告がなされるのであれば、法的にはもちろん、「事実上」も本属長の監督下にあるといってよいだろう。特定の瞬間において本属長と当該勤務公署に属する教員とが同一勤務場所に存在しないということをもって、当該教員について職務専念義務免除の手続きを取らなければならないというのは、短絡的、非現実的であり、ほとんど無意味である。

 本気で「勤務場所を離れることにより本属長の服務上の監督権が事実上及ばない」と言うのであれば、出張(公務のための旅行)中および出張先で公務(職務)に従事している最中にも、「本属長の服務上の監督権が事実上及ばない」ことになってしまうから、教員は出張のつど職務専念義務免除の手続きを取らなければならないことになる。

 あるいはまた、教員が勤務場所において勤務しているいっぽうで「本属長」の方が出張や年休のため勤務場所を離れる場合にも、当然、「本属長の服務上の監督権が事実上及ばない」ことになる。そして判決文の論理に従えば、勤務場所で通常通り勤務している数十人の教員全員について職務専念義務免除の手続きを取らなければならないことになる。以上のことは、教員に限らず、公務員一般についてもいえるだろう。

 こうした背理がぞろぞろ出てくる理由はあきらかである。前提としての「勤務場所を離れることにより本属長の服務上の監督権が事実上及ばない」という命題が誤っているのである。「事実上」と言いながら、ひどく非現実的で矛盾した論法を繰り出したものである。

 法的問題(権利問題)を論ずる判決文の「理由」中で、あえて事実問題を根拠にして本属長の監督権がおよばないなどという無茶な主張をしたのは、つまるところ法的には本属長の監督権が及んでいることを札幌高裁が認めているからにほかならない。

 それにしても札幌高裁がここまで「勤務場所」にこだわるのはなぜだろうか。