6 「民間人校長」問題の本質

 

 

 

 校長の「職務」についての無知

 先述のとおり、「教育」は教諭の職務であり、校長の職務ではない。校長の職務は「校務をつかさどり、所属職員を監督する」こと以外ではありえない。おしゃべり3人組(ヨゲンドラ、福田、生井)は、まさか「授業」は担当させてもらえないし、「部活動」の指導にも手出しはできないので、必然的に放課後に何の根拠もないサークル活動を勝手に始めることになる。福田は大動員を掛けて派手に。生井はささやかだがいっしょに東京まで出掛けて微笑ましく。ヨゲンドラは、狭い教室以外での発表会や校外学習など、顔を出しやすい「探究の時間」に狙い定めて、時にインド訛り英語で押し付けがましく。

 その一方で、副校長であれば当然分担してしかるべき、「校務」や「監督」業務はおよそ何一つやらずに、日々暇を弄ぶことになる。ヨゲンドラの番組で事実上の主人公格だったもうひとりの副校長がいたように、○○一高のような優遇学校には副校長が2人いるようだ。校長、副校長に教頭まで入れれば自分以外に3人も「校務」「監督」の主務者と補助要員がいるわけだから、実務は何一つ割り振られることはない。

 とはいえ、管理職員とあっては勤務時間については厳格に遵守し遵守させなければならない立場にあるわけだが、まったく自覚がない。副校長の片岡が「受験指導で病気になる。それでも頑張り続ける。そういう努力をしていて、今の土浦一高の形ができている」というくらいだから、土浦一高では、時間外勤務は相当のもののようだ。ついでに生徒の下校時刻以後の居残りや休日登校などにもまったく頓着しない。

 生徒の安全確保に関しては、「学校の支配管理下」にあるかないかで決定的な差異があるのだが、そのようなことにはまったくお構いなしで、平気で「電通講座」やTBS遠足をしてしまう。何事もなかったからいいようなもので、もし死亡事故でもあれば、懲戒免職者が2、3人出るくらいではすまないだろう。

 教育庁は、「エン」での募集の際の「Q&A」で、「学校運営全体の管理はもちろん、授業スタイルの企画を教科担任と一緒にするなど『やって見せる』ことが教職員の意識改革には重要です」と書いた。会社から来た「民間人校長」たちが勘違いして無駄にもがくことになったのも、もとはといえば教育庁にそう言わせた大井川に原因がある。まさか教育庁の教育長以下、部長課長らは、学校教育法の「職務」規定くらいはわかっているのだろうが、抵抗すれば柴原宏一の二の舞になるのは火を見るよりも明らかであるということで、学校教育法のことなどまったくわからない大井川の言うがままに事がすすんでいるのである。

 

 職務専念義務規定の空文化

 高校教育課が作成した2023年度募集分の「校長選考試験実施要項」では、「校長を含む公立学校教職員は、地方公務員法により政治的行為の制限、営利企業への従事等の制限があります」としていながら、「民間企業等に在籍したままの採用も可能です」120と書いている。「エン・ジャパン」の記事(2022年)でも「企業に所属しながら勤務できる在籍出向も可能です」としている121。この兼任可能への転換は、2021年募集(2022年採用分。ただし合格者なし)以降の措置だったようだが、こうした粗雑な記述による融通無限の方針は、地方公務員法上の「職務専念義務」122を空文化するものである。ここにも「民間人校長」政策の違法不当性が露呈している。

 教育庁としてみれば、会社に籍はあるが会社の業務に従事することはありえない、というつもりだろうが、本人がどう受け止めどう行動するかは別である。会社に籍があり、4年後に戻ることが決まっている株式会社電通の福田崇の言行をみると、自分は公務員として地域住民に奉仕する立場にあるのだから、「営利を目的とする私企業」123の従業員として振る舞うことはいかにしもありえない、とは全然自覚していないようである。

 花王の生井と新潟大学の鈴木は直前に退職しているし、ヨゲンドラや遊佐に至っては、とうの昔に退職しているか会社自体が消滅しているから、戻るところのある福田とは異なるものの、教育庁がこのような態度であっては、「民間人」気分のままでいて公共の福祉に奉仕する公務員としての自覚に欠けるのも当然だろう。(なお、「外資系企業」から来た太田垣については不明。また生井の「吉本興業」は、いまだにウェブサイトに掲載されていてどうなっているのか不明で、教育庁も把握していないおそれがある。)

 

 起業家精神の虚構と自己矛盾

 この点で、さらに踏み込んで、前の職場は完全に退職して二足の草鞋わらじではなくなった「民間人校長」が任期途中で起業したいと言い出したらどうなるか、考えなければならない。まさかそんなことはありえない、と思われるかもしれないが、最初に検討した太田一高校長鈴木清隆において、実際に起きたのである。鈴木は任期を1年残して退職し、「シンフォニックブレイン」124を起業し、その代表となっている。以下は、その「シンフォニックブレイン」のウェブサイトで鈴木が公表している記事である。

 

シンフォニックブレインは、「知恵と心をつなぐ」のビジョンのもと、脳科学、医療、教育の各分野とテクノロジーを融合することにより社会課題を解決することをミッションに掲げています。MedTech/BrainTech領域の研究開発、脳研究と教育現場の接続、探究学習やアントレプレナーシップ(起業家精神)教育を支援するプラットフォームとして活動していきます。

 

 「アントレプレナーシップ教育を支援」とあるが、支援活動を始めるにあたってみずからが、アントレプレナーになったのである。鈴木は、「民間人校長」に応募した経緯についてこう書いている。

 

民間人を校長に登用する動きはすでに全国の自治体に広がっていたので、最初は「茨城県もやるんだ~」くらいの感想程度でしたが、実施要項の中に起業家精神というワードを見つけた瞬間、心を掴まれました。

私は、大学で多くの学生が受け身だということが気になり、もしかしたらそれまでの教育に課題があるのではないかと考えていました。さらに言えば、バブル崩壊以降日本経済が低迷を続けているのも、受動的な学習を中心とした教育形態が創造的思考を阻害し、イノベーションが生まれにくくなっているからだと推測していました。

このような、学校教育に対する漠然とした不満や問題意識が、起業家精神の育成を教育方針に謳う茨城県教育委員会への興味につながりました。125

 

 しかし、2020(令和2)年度から太田一高で副校長を1年、校長を2年勤めたあと、2022(令和4)年度末をもって退職することになる。

 

ちなみに私が校長を辞めた最大の理由は、営利企業に従事することが制限されることでした。教育委員会は目指す学校像として「起業家精神の育成」を定めているのですが、自分にとってのビジネスの波が目の前にきているのに、服務規程のためにそれに乗ることができないのは大きなジレンマでした。両立できないとなれば、どちらかを選ばざるを得ません。126

 

 2020年の「民間人校長」一期生については「民間企業等に在籍したままの採用も可能です」とはしていなかったようだ。しかし、鈴木が勤務している2020年もしくは2021年には、「民間企業等に在籍したままの採用も可能です」として公募手続きを進めていたわけだから、採用時にはそうでなかったにしても、鈴木についても同じ扱いはできたはずである。教育庁が鈴木についての遡及的適用をしなかったのか、それとも新たに起業するとなると「民間企業等に在籍したままの採用」の範囲を超えるとして、在職したままの起業ないし起業の準備活動を許可しなかったのかは、わからない。

 鈴木は、工学博士で、多数の論文も発表している脳科学の専門家であり、自余のいまひとつ実績の曖昧な「民間人校長」たちとはだいぶ異なったタイプのようである。シンフォニックブレインに掲載されている記事「ディスレクシアと英語学習」127を見ると、単純に英語重視などと言っているだけで特段の考えもない「民間人校長」や大井川らとは異なり、一応の見識もあるようだ。

 とはいえ、地方公務員の兼職兼業禁止は、最初から明らかだったわけであり、起業しての営利企業従事とは相容れない以上、「両立できないとなれば、どちらかを選ばざるを得ません」となることは、わかっていたはずである。その場合、校長職を続けるのが当然だろう。それを「両立できない」として、鈴木は任期途中で校長を辞職してしまったのである。

 そもそも「起業家精神の育成を教育方針に謳う」ことと、本人が起業するのとは別物であり、その区別もつかないのはどういうことだろう。しかも、10年とかいうわけではなく、あと1年待って起業すれば済む話である。起業に差し支えるというのは、校長職を途中で放棄したことの表向きの理由であり、本当の理由は別のところにあったとも考えられる。「民間人校長」などと称して、落下傘で突然降下して来て、学校教育のあり方を根底から変えるなどと吹聴することがそもそも子供じみた絵空事だった、ということに気づいたのかも知れない。学校教育法上の「校長」の職務、すなわち「校務をつかさどり、所属職員を監督する」とはどういうことか考えれば、たとえその学校一校だけとはいえ、自分一人で思い通りの改革が可能だと考えるのは幻想に近い。教員免許が不要ということで、「教育法」について学んだこともなければこういう考え違いもありうる。権威主義的経営しか知らない経営者であればさもありなんというところだが、鈴木は一応国立大学准教授だったのだから、それはありえない。

 それはともかく、茨城県教育委員会が「起業家精神の育成を教育方針に謳う」などと吹聴することの不自然を真に受けるとはどういうことだろうか。今や文部科学省が主要国立大学と早稲田大学など30大学に「次世代アントレプレナー育成事業(EDGE-NEXT)」128と称して補助金を出して、授業やシンポジウム開催、海外研修などを実施させている時代であるから、もしかして地方教育行政機関でもありうる、と迂闊に信じたのかも知れない。当今の「振り込め詐欺」はよほど手がこんでいて、ついつい騙されてしまうようだが、「起業家精神の育成を教育方針に謳う」と言ったところで、それ相応の経緯があるわけでもなく、あまりにも唐突で何の説得力もないのに、ただその一言にうっかり騙されるのでは、大学生が受け身であるとか、高校までの教育に問題があるとか、大層なことを言っていたことと矛盾する。

 

 企業家か起業家か

 大井川は、日頃から「アントレプレナーシップ」を口にするようだが、言葉の意味も具体的な内容もまったく説明しない。ICTやAIについてもそうだが、目新しそうなことを盛んに吹聴する人たちは、ただ他の人が言うのを模倣しているだけで、自分でも本当はよくわかっていないのだ。

 アントレプレナー entrepreneur は、19世紀にフランス語(「契約者」「企業家」)から借用された英単語である129。当初は「企業家」を意味していたが、近年は大きく変遷し限定的に「起業家」を指すようになっているようである。語義の変遷自体はよくあることだから、特段まずいことではないのだが、アントレプレナー entrepreneur の場合、「企業家」を意味していた当時の考え方がまったく受け継がれず、単純に新しく企業を設立する=起業という、その一点だけに注意が集中する異常事態になっているのである。とくに、そこでは「アントレプレナーシップ」が「イノベーション innovation 」(革新、刷新、新基軸)の条件であることを閑却して、たんに起業つまり企業設立だけにこだわる、起業の自己目的化現象が起きているのである。

 さきほどの文部科学省のパワポもそうだが、とにかく起業へ起業へと学生を急き立てておいて、その次は「出口戦略」だという。何のことかというと、その設立した新興企業(それを「スタートアップ」という)を売却するのだという。そして手にした利益をまた次の「起業」に注ぎ込むのである。これがシリアル・アントレプレナー、連続的起業者なのだという。いやはや忙しい。

 「アントレプレナー」にかんする古典とされる、シュムペーターとドラッカーの著作を瞥見する。まずシュムペーター、次にドラッカーである。

 

われわれが企業 Unternehmung と呼ぶものは、新結合の遂行およびそれを経営体などに具体化したもののことであり、企業者 Unternehmer と呼ぶものは、新結合の遂行をみずからの機能とし、その遂行に当って能動的要素となるような経済主体のことである。……われわれが企業者と呼ぶものは、単に通常そう呼ばれている交換経済の「独立の」経済主体を指すばかりでなく、この概念を構成する機能を果たしているすべての人を指すのであって、彼らが現在しばしば見られるように株式会社や個人会社における「非独立的」使用人、たとえば支配人、重役などであってもさしつかえないし、また彼らの事実上の力や法律上の地位が企業者機能と概念的に無関係な基礎に基づいていてもさしつかえない〔……〕。130

 

 「新結合」が、イノベーションである。ドイツ語の Unternehmer ウンターネーマー がフランス語・英語の entrepreneuer に相当するのだが、それを「起業家」と訳したのでは意味が通らない。

 

企業家精神やイノベーションに関して、平均的なものと先端的なものとの差は、既存の企業 existing business 、公的サービス機関 public-service institution 、ベンチャービジネス new venture の三つのカテゴリーいずれにおいても、きわめておおきいものとなる。幸いにして企業家精神が成功した実例は、三つのカテゴリーいずれにおいても、豊富にある。企業家的経営管理 entrepreneurial management の理論と実践、診断と処方を示すに十分なだけ豊富にある。131

 

 アントレプレナーシップを発揮するには起業しなければならない、というのは迂闊でまことに罪深い錯誤である。そんなことを言い出すと、とんでもないことになる。起業を薦める人たちは、いつまでも他人に向かって間違ったお説教していないで、さっさと内閣府、経済産業省、文部科学省、東京大学、早稲田大学を退職して、晴れて自分で起業しなければならないことになる。政府の「新しい資本主義」キャンペーン132にかぶれて起業家精神を説く茨城県知事の大井川や県教育長の森作も、さっさと辞任して起業しなければならないことになる。当今、「アントレプレナーシップ」を口にする人たちは、言っていることとしていることが、まったく噛み合わない。というより、他人の真似をして調子のいいことを言ってはいるものの、迂闊にその通りにするととんでもないことになることに薄々感づいて、小狡く立ち回っているだけなのである。

 それにしても、「起業家精神というワード」に「心を掴まれ」たとかで、周囲を押し退けてまで校長になった太田一高を任期途中で退職した鈴木清隆であるが、なにも退職して起業するのではなく、その時その場で企業家精神 entrepreneuership を発揮すれば良かったのである。ただし、それは太田一高ではなく、その前にいた新潟大学、あるいはその前にいた科学技術振興事業団、はたまたその前にいた横河メディカルシステムにおいて、であるが。

 

 

 

120 https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/wp-content/uploads/2023/07/youkou2023.pdf

121 前年の2022年選考分の記述(すでに削除)。

122 (職務に専念する義務)第三十五条 職員は、法律又は条例に特別の定がある場合を除く外、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。

123 地方公務員法第37条

124 https://symphonicbrain.jp/

125 2023年4月3日、https://note.com/symphonicbrain/n/n34056d8377e0

126 https://symphonicbrain.jp/creative/

127 https://symphonicbrain.jp/education/dyslexia_and_english/

128 https://www.mext.go.jp/content/20210728-mxt_sanchi01-000017123_1.pdf、6頁。

129 フランス語の原義は「中間商人、仲介者」。英語としては、「事業家、請負人」「興業主(米)」、最近は専ら「起業家」の意味で使われるようである。これに接尾語 -ship がついて、entrepreneurship 「起業家であること、起業家としての活動」となる。(『ジーニアス英和大辞典』大修館)

130 Joseph A. Shumpeter, Thorie der wirtshaftlichen Entwicklung, 2. Aufl., 1926, S.111. シュムペーター『経済発展の理論 』〔東畑精一他訳〕岩波文庫(上)、198-199ページ。

131 Peter F. Drucker, ibid., pp.133-134. 訳、249-250頁

132 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/pdf/ap2023.pdf