3 四合院・中国と日本

 前ページでみた中国寺院の伽藍を、日本の寺院の伽藍と比較してみます。

(東大寺:http://www.todaiji.or.jp/index.html、東寺:http://www.toji.or.jp


中国(潭柘寺)

中国(雍和宮)

日本(東大寺)

日本(東寺)

 牌楼 
 ある  ある  ない  ない
 獅子  ある  ある  ない  ない
 第一の門  山門  昭泰門  南大門  南大門
 中庭

 東西に建物をもつ四合院形式 銀杏と沙羅(樹齢数百年)

 東西に建物をもつ四合院形式

 四合院形式をとらない。( 回廊で囲われ、その外側の左右に七重の塔)

 四合院形式をとらない。( 回廊もない。東南に五重塔)

 第一の主殿

 天王殿

(正面に布袋像、背中合わせに韋駄天像、周囲に四天王像)

 天王殿

(正面に布袋像、周囲に四天王像)

 金堂

(盧遮那仏

 =「大仏」)

 金堂

(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将)

 中庭  東西に鼓楼と鐘楼をもつ四合院形式  東西に鐘楼と鼓楼をもつ四合院形式

 四合院形式をとらない(鐘楼は回廊の外の東側。鼓楼はない)

 四合院形式をとらない(鐘楼と鼓楼はない)

 第二の主殿

 大雄宝殿

(釈迦牟尼仏)

 雍和宮  (主殿とはいえないが)講堂

 講堂

(立体曼荼羅)

 中庭  東西に建物をもつ四合院形式  東西に建物をもつ四合院形式  

 

東西の建物はない
 第三の主殿

 毘盧閣

(毘盧遮那仏) 

 永祐殿

(無量寿仏、獅吼仏、薬師仏)

 食堂

(観音菩薩像、焼失)

 中庭       東西に建物をもつ四合院形式
 第四の主殿

 法輪殿(ツォンカパ像、五百羅漢山)

 中庭  東西に建物をもつ四合院形式
 第五の主殿  万福閣(弥勒仏)
 ストゥーパ  横に複数の石製ストゥーパ  法輪殿頂上 中庭の左右に木造七重塔 伽藍の東南に木造五重塔

 インドから中央アジアを経て中国に入った「大乗仏教(北伝仏教)」の寺院は、遊牧民族の鮮卑拓跋(せんぴたくばつ)族がたてた国家(北魏・隋・唐)において当初は岩石の崖を穿った石窟寺院として、その後は平地に木造建築群としてつくられました。その際、平地の木造建築は、古代以来の華北における伝統的建築様式である四合院形式に則って配置されたのです。後にチベットから入ったチベット仏教(「喇嘛教」らまきょう)もこの伽藍の形式を踏襲しました。道教寺院も、イスラムのモスクでさえも同様です。

 最初に「国家」レベルでは6世紀に朝鮮の百済(ペクチェ、くだら、ひゃくさい)から仏教を伝えられた日本は、後には遣隋使・遣唐使などによって直接中華帝国の仏教を導入し続けました。にもかかわらず、中国と日本の寺院建築の様式は一見似ているけれども、じつはおおきく異なるのです。

 

牌楼(はいろう)

 

 日本では中国の牌楼に相当するものは、そのままの形では存在しません。日本寺院の山門(三門)は中国寺院の山門と同様に奥行き(内部空間)があって仏像が安置される建物であり、牌楼が起源ではないでしょう。柱と梁だけからなって奥行きを欠く形式をみると、神社の鳥居に似ているように思います。なお、仏教寺院の奈良県生駒市の寶山寺(ほうざんじ)には鳥居があります。

北京・北海公園・永安寺の牌楼

(後方に見えるのは、舎利塔)

京都・伏見稲荷神社の鳥居

生駒市・宝山寺の鳥居

鼓楼(ころう)

 

 中国寺院では第一の主殿(多くは「天王殿」)と第二の主殿(多くは「大雄宝殿」)の間の中庭の東側と西側に、鼓楼と鐘楼(しょうろう)が建てられます(いずれが東かは一定しないようです)。日本では、鼓楼は消滅したようです。したがって、南に天王殿、北に第二の大雄宝殿、東に鼓楼、西に鐘楼、というように四つの建物が中庭を囲む「四合院」を形成するということはありえないのです。というより、四合院様式がないので、鼓楼は消滅し鐘楼が特段の定位置を持たないということかもしれません。

北京・北海公園・永安寺の鼓楼

重合する四合院

 

 中国寺院では、主殿がひとつではなく4つ、5つ、あるいはそれ以上建てられ、入り口から内奥へと進んで行く参詣者の目前にこれでもかこれでもかと次々に現れます。たとえば雍和宮では、じつに第五の主殿に至って、26mの巨大な弥勒仏像が現れるのです。

 雍和宮の大仏はあまりにも巨大なので、地面を8m掘り下げて立ち、差し引き18mが地上に屹立します。一方、立っていればほぼ同様の大きさであるところ、座っている分だけ低くなり、高さ16mの盧遮那仏像をおさめた奈良・東大寺の大仏殿は、南大門をくぐり、左右の七重の塔(現存しませんが)をみながら中門をくぐると、すぐ目の前にあるのです。

 

日本寺院に導入されなかった四合院

 

 日本の寺院は四合院形式をとりません。日本の寺院建築・伽藍配置が、中国の木造による寺院建築・伽藍配置の影響下にあることはあきらかです。日本の寺院がインドの様式ではないこと、朝鮮の影響があるにしても朝鮮の寺院がそもそも中国の影響下にあることもあきらかでしょうから、このことは疑う余地はないでしょう。にもかかわらず、日本の寺院は四合院形式をとらないことに注目しなければなりません。南北軸上に山門と主殿を配置するものの、同じであるのはそこまでで、付随的には牌楼と獅子像(いわゆる狛犬)を欠いたうえで、根幹において、門と主殿の左右には建築群を形成する建物はなく、したがって「四合院」を形成しようがないのです。(なお軸線が南北でないこともあります。中国・日本いずれでも例があります。しかしこれは四合院に関しては本質的問題ではありません。)

 回廊は、ある時には主殿(金堂)と山門を結び、あるときには主殿を取り囲みますが、結局のところたんなる渡り廊下、しかも遠回りの通路であり、中国寺院で左右(東西)に建築物が配されているのとは、まったく異なります。それどころか「回廊」は実際にそこを歩行するものですらないでしょう。上級僧侶や支配者がいちいち左右の回廊へと迂回したとも思われませんし、すくなくとも古代においては一般庶民などは山門の中に自由に入れるわけでもないでしょうから、彼らのために遠回りの回廊が設置されたとも思えません。(現在、東大寺は、一般参詣人を西側回廊から金堂に導きますが、このような動線設定は現代日本寺院では例外的です。)

 中国の四合院における左右(東西)の建物が、日本で回廊へと痩せてしまったのかもしれませんし、あるいは中国で敷地全体を囲っている壁が、日本で回廊に転化したのかもしれません(回廊は外側への視線を断っています)。いずれにしても回廊は四合院の残照でしかないように思います。

 こうして「四合院」が取り入れられなかった以上、もはや日本寺院の伽藍は、伽藍配置の基本原則を欠くことになります。鐘楼と鼓楼は対ではなくなり、鼓楼は消滅します。のこった鐘楼は定位置を失い、(壁を失い、柱と屋根だけになるなど)形態を変えながらあちこち移動します。四合院が奥へ奥へと重合することもなく、軸線から離脱した金堂と、日本でおおいに発展を遂げた木造の塔(舎利塔)との位置関係がさまざまのヴァリエーションを示すことになります。伽藍がシステム性を失って断片化したのです。断片となった色々な要素が、特段の構造を指向することもなく、並置されるのです。

 

 中学・高校の歴史教科書・資料集では、日本の寺院の伽藍配置として、「飛鳥寺式」、「法隆寺式」、「薬師寺式」などの違いを縷々説明します。本堂と塔の数や位置関係にばかり着目して、それらのを包括する建物群の構成様式の違いには無頓着なのです。教科書や資料集だけではなく、一般的な仏教に関する書籍・建築に関する書籍でも、「四合院」様式には無関心で、用語すら出てきません。ないものについては、言及のしようもないのかも知れませんが、ストゥーパ(舎利塔)がインド、中国、日本へと伝播するなかでどのように遷移したかについては説明するのですから、建物群の配置様式の変化について無頓着というのは許されることでないでしょう。

高校「日本史」資料集における伽藍配置の説明図(外園豊基『最新日本史図表』2014年、第一学習社、p. 43.)