若宮戸の河畔砂丘 15  若宮戸以外の無堤区間の河川区域

 

24, July, 2019

 

 若宮戸の河畔砂丘 river bank dune における河川区域の問題について検討する上で、鬼怒川流域の別の堤防のない区間について一瞥します。堤防のない区間といっても、数知れずあります。ここでは、茨城県内の鬼怒川流域で、若宮戸河畔砂丘以上に長距離にわたって無堤になっている地点について検討します。利根川への合流地点の直前で鬼怒川が更新世段丘(こうしんせいだんきゅう、いわゆる洪積台地〔こうせきだいち〕)を横断する区間です。

 

(1)土地条件図

 つぎは、地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)の画面左上の「情報」ボタンから、「土地の特徴を示した地図」>「土地条件図」>「初期整備版」を表示したものです。画面上3分の1あたりに継ぎ目があり、色調が若干異なっていますが、茶ないし臙脂が更新世段丘(洪積台地)です。侵食谷が複雑に入り込んで、まるで大脳の切片のように見えます。黄が自然堤防 natural levee 、薄緑が後背湿地 back swamp です。

 鬼怒川が画面中央部の更新世段丘をスッパリと切り込んでいます。このような不自然な流路は自然のものではなく、江戸時代の人為的な開削によるものです。もとは、更新世段丘手前で東側の小貝川河道に合流していました。画面左の斜めの河道が利根川で、鬼怒川が合流する地点に菅生(すがお)遊水池があります。画面上端の鬼怒川左岸が水海道(みつかいどう)市街地で、人工排水路の八間堀川(はちけんぼりがわ)が合流しています。

 

 (2)行政区画

 中央付近を拡大してみます。下に示したのはマピオンの地図です。赤黒線は市町村界です。左上が常総市、右上がつくばみらい市、下が守谷(もりや)市です。常総市域が河道を越えて守谷市側に喰い込んでいますが、理由はわかりません。あとで見る河川区域境界線とも無関係です。

 

(3)「陰影起伏図」と「治水地形分類図・更新版」の重ね合わせ

「今昔マップ」(http://ktgis.net/kjmapw/)で、地理院地図の「陰影起伏図」と「治水地形分類図・更新版」を重ね合わせ表示したものです(地理院地図〔https://maps.gsi.go.jp〕の画面でも同じことができます)。「陰影起伏図」は、北西方向から斜光が射しているかのような影がつくので、更新世段丘の南東側の崖面が強調表示されます。更新世段丘に侵食谷が入り込んでいる様子や、鬼怒川の切り立った人工的な河道がよくわかります。

 3kから4kにかけては更新世段丘の単純な掘割です。4kから上流は高水敷や堤防で仕切られた侵食谷が複雑に接続しています。

 

(4)「陰影起伏図」と1988-90年の航空写真の重ね合わせ

 同じく「今昔マップ」で、「地理院地図」の「陰影起伏図」と1988-90年の航空写真を重ね合わせ表示したものです。「陰影起伏図」は、更新世段丘の北西側崖面には影がつかず平板に見えるので住宅団地や工場用地が凹んでみえてしまいますが、(1)や(3)の地図のとおり、それらは段丘面上にあります。斜光の方向を自由に変えられるとよいのですが。

 

(5)建設大臣告示による「河川区域境界線」

 次は、おおむね4.5kから5.75kにかけての「河川区域」の図です(そのあとの治水地形分類図と、(13)図に利根川への合流点からの距離表示があります)。これ以降、この告示の図の向きにあわせて表示しますので、北西が画面上方になります。

 1966(昭和41)年の建設大臣告示によるもので、先に見た25.25kから26kにかけての若宮戸の図と一連のものです。鬼怒川の茨城県内区間(0kから28kまで)には数多くの無堤区間がありますが、まとまって無堤となっている地区としては最大規模です。


 

 この区間の河川区域も若宮戸と同じ担当者らによって決定されたに違いありません。ひとりではないでしょうが、当時の建設省関東地方建設局(現在の国土交通省関東地方整備局)のごく限られた人数の職員が担当したのでしょう。まさか、ここについては若宮戸とは全く別の者が作成し、お互いに何の相談もなく、結果についても一切突き合わせていないなどということはありえないでしょう。ですから、2箇所が同じ原則・考え方によって線引きされているのであれば、若宮戸河畔砂丘の線引きの意味を理解するための事例として役立つはずですし、逆に、同一グループが作成したのに全く異なる原則・考え方によって線引きされているのであれば、若宮戸河畔砂丘の線引きの異常性を際立たせることになるでしょう。(あらかじめ結論を書いてしまいますが、後者だったのです。)

 

 以下、具体的に見ることにします。

 左岸に2箇所の排水樋管(ひかん=堤防を暗渠で貫通する管)があります。上流側(画面中央やや左)が「大山(おおやま)新田樋管」、下流側(画面左上端)が「大山下樋管」です。更新世段丘に入り込む侵食谷の部分から段丘地帯の雨水などを鬼怒川に排水しているもので、現在もそのまま存在しています。ここだけ侵食谷を塞ぐように堤防があるので、当然ながら河川区域境界線が、その堤内側(河道の反対側)の法尻(のりじり、法面〔のりめん〕の下)に引かれています。しかし、それ以外の地点は、すべて無堤区間なので、河川区域境界線は、異なった根拠にもとづいて引かれることになります。

 

 「根拠」と言っても様々です。若宮戸の場合は、右岸24.63kより下流は原則どおり堤防の堤内側法尻ですが、24.63kから26kまでは河畔砂丘の東から3番目の〝畝〟(R3)の東側の麓、そしてちょうど24.63kの接合部分で、河道にほぼ垂直に(市道東0280号線に沿って)線引きされました。R3では、設定当時においてすら計画高水位に及ばなかっただけでなく、その後河川区域内であったにもかかわらず、そのR3がほとんど掘削されてしまい、2015年9月の氾濫水を防ぐ効果はまったく発揮しませんでした。24.63kの河道に垂直の線にいたっては、1966年当時においてすらまったく氾濫防止効果のないところに引かれたものでした。R3東麓については根拠薄弱、市道東0280号線については根拠なし、だったわけです。根拠と言えない根拠、心理的動機?としては、河畔砂丘全域を河川区域とし、最東端の〝畝〟(R1)の東麓に境界線を引くことによって、河川区域に自己の所有地が組み込まれることに対する地主らの反発を回避する、あるいは河川区域に組み込むに際して民有地を買収する手間と費用を回避する、という無責任さくらいでしょう。(この点については、「若宮戸の河畔砂丘 12」と若宮戸の河畔砂丘 13」で詳述しました。

 

 この4.5kから5.75kにかけては、ごく短い堤防のある部分を除いて、「河川区域」はどのような根拠に基づいて設定されたのでしょうか? いくつかの地図を引用して適合しそうな条件を探ることにします。「河川区域境界線」がどこに(どのような地形のところに)引かれたかを確認するためには、この地域の地形を十分にあきらかにしなければなりません。4種類の地図を個別にみたうえで、それらを半透明にして重ね合わせたものも順に見ることにします。

 

(6)「土地条件図」

 

 このあたりは、江戸時代の開削による鬼怒川の河道となる以前に、更新世段丘に入り込む完新世低地〔かんしんせいていち〕(いわゆる沖積低地〔ちゅうせきていち〕)がかなり発達していて、部分的には低湿地になっていたものと思われます。このすこし下流にいくとほぼ完全な掘り込み式河道の絶壁がつづいている(「赤壁」の如し、などとまで言う人がいます。言わせておきましょう)のとは違って、両岸に複雑な更新世段丘の侵食谷がみられます。

 水色が河道、白地に茶ポチが低水敷、黄地に緑ポチが高水敷です。河道ないし低水敷の両側の紫は堤防ではなく「極急斜」です。他の図とくに後出の河川区域告示によると、低水敷護岸の部分ならびに単なる崖面の部分があります。

 前ページ中ほどの「茨城県報」号外(1937〔昭和12〕年11月8日)の末尾に掲載されている鬼怒川の河川区域図のとおり、旧河川法時代にはこの河道と低水敷だけが河川区域でした。(当時は大山新田樋管と大山下樋管、それらの部分の短い堤防もありませんでした。)


 

 

(7)「土地条件図」と「河川区域告示」の重ね合わせ

 新河川法による河川区域境界線は、両岸の高水敷や更新世段丘(洪積台地)にかかっています。しかし、高水敷が全部含まれるかというとそういうわけでもありません。

 

(8)「地理院地図」の「地形図」と「陰影起伏図」の重ね合わせ

 北西(この図では画面上方)からの斜光による陰影で土地の起伏を表現しています。左岸は排水樋管のある短い堤防2か所以外は影ができませんが、右岸は低水敷と高水敷の段差、高水敷と更新世段丘の段差がよくわかります。

 なお、時期の違いにより、低水敷の寄州 side bar の形状が変化しています。ちなみに、右岸の内守谷町きぬの里住宅団地の巣立山(すたてやま)公園にある円錐形の物体は、周囲より15m程度高い標高30.6mの築山です。

 

 

(9)「地理院地図」の「地形図」と「陰影起伏図」の重ね合わせに、さらに「河川区域境界線」を重ね合わせ

 右岸の河川区域境界線は、高水敷と更新世段丘との崖におおむね一致します。河川区域境界線がどのように引かれたのかが、だんだんあきらかになってきました。

 

(10)「鬼怒川平面図」

 国土交通省が作成した「鬼怒川平面図」です。そのうち鬼怒川の0k(利根川への合流点)から61.75k(栃木県真岡〔もおか〕市)までが、30枚の5000分の1地形図で描かれています。寄州や低水敷、水制、排水門、排水樋管、高水敷、もちろん堤防などが克明に記されているのですが、なんと河川区域境界線はわざと描かないのです。しかし、かなりの大縮尺のうえ等高線(Y.P. 値)が描かれているので、今ここでの検討にはおおいに役立ちます。クリックして拡大表示もできますが、元のデータは、http://kinugawa-suigai.seesaa.net が公開しています(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinugawa-heimenzu1.pdf)。

 

(11)「鬼怒川平面図」に、「地形図」と「陰影起伏図」の重ね合わせたものを重ね合わせ

 

(12)「鬼怒川平面図」に「河川区域告示」を重ね合わせ

 基本的情報である等高線が描かれた「鬼怒川平面図」と、河川区域境界線が描かれた「告示」の2枚を重ね合わせます。

 これを詳細に見れば、河川区域がどのように引かれたかがわかりそうなものですが、それに取りかかる前に、ほかに標高情報を記した図面や表があるのでそれらを見ておきます。そのうえで、水害時の浸水深も見ておきます。

 

(13)距離表示と堤防高

 「鬼怒川平面図」には、たとえば「4 / 750」のように利根川への合流点からの距離が記入されています。青線の両端の青丸の地点です。(10)をクリックし拡大表示しても見えますが、元データを表示ないしダウンロードして400%くらいに拡大すると(つまり面積16倍)ハッキリ見えます。

 (ここまで克明に記入してあるのに、どうして河川区域境界線を描き込まないのか、いくら考えてもわかりませんが……。)

 左右両岸の距離表示を結んだうえ、国土交通省が作成した計画高水位や計画築堤高、現況堤防高などの一覧表(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-3.pdf)から、該当地点の「現況堤防高」の数値を摘記しました。

 

 「河川平面図」中の距離表示の地点には、距離標石が打たれています。距離標石は、河川区域境界線上にあるわけではありません。1965(昭和40)年施行の新河川法体制下では、堤防がある場合、両岸堤防のそれぞれ堤内側(河道の反対側)の法面(のりめん)下部(「法尻〔のりじり〕)が河川区域境界線ですが、多くの場合、距離標石はよく目立つように堤防天端(てんば)の川表側法肩に打ってあります。左岸5.25kでは排水樋管のすぐ脇にあります。

 無堤区間となると、打つべき位置はそう単純ではありません。左岸4.75kの距離標石は河川区域境界線近くの道路脇に立っています。右岸の5.00kと5.25kは、河川区域境界線からかなり離れたところですが、どうやらこれも直近の道路脇なのです。なるほど、道なきところに打ったのでは、巡回がひどく困難になってしまいますから、さもありなんというところです。

 これとは別に、「堤防横断図」(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-2.pdf)には「堤防高」の記載があります。たまたま短い堤防のある地点である左岸5.25kだけは「堤防高」が存在して当然ですが、ほかの地点はすべて無堤であり「堤防高」などあるはずがないのです。それでもどこかに標石が打ってあるはずですが、いったいどこなのか地図に記載があるわけではなく、一見してわかるわけではありません。左岸4.75kの「堤防高」は、崖をよじ登り下草をかき分けて探し回ったところ、「香取大神宮」という小さな祠の裏手にそれらしい標石が打ってありました。赤リボンの目印があったのでかろうじてわかったのです。これらの標石の頭には金属の鋲がはめ込んでありますから、あきらかに測量のためのものです。「堤防横断図」は、それを「堤防高」地点として図示しているようですが、あきれたことに平面図としての記載はどこにもありません。5.25kはともかく、この4.75kの図は冗談かと思うような図です。

 背景は大山新田樋管のゲートとそこへの通路、向こうは河道と右岸。この左岸5,25kの「現況堤防高」は堤内側からはもちろん、上・下流側と比べてもひときわ高い17.210mもあります。

 下は、対岸から見たところで、手前は右岸の高水敷で、水面は見えません。左岸の上流側は、水害後に(低水敷に地盤を形成した上、崖面の土地を買収して)堤防の設置工事中です(2019年7月。〔見えている基盤となる護岸の擁壁の上にパラペット方式で堤防を上乗せする予定だったようですが、このあと2019年10月の台風19号時の水位上昇により、10月13日早朝に「越水」?し氾濫し、後背地が浸水しました。ブログ記事参照〕)

 赤リボンが立っているのが左岸4.75kの「現況堤防高」地点の標石のようです。一覧表での「現況堤防高」は、18.890mで、このあと見る崖下の河川区域境界線の標石や距離標石とは6m程度標高差があります。

 画面左奥が香取大神宮の祠です。若宮戸河畔砂丘のR1の残丘3つのうち2つまでが墓地になっていましたが、このようにひときわ標高の高いところに宗教的施設(神社・祠、寺、墓地)がつくられたために、その地点だけ地形が改変されずに残っているのはよくあることです(2019年7月)

 



 

 次は、国土交通省が作成した計画高水位や計画築堤高、現況堤防高などの一覧表(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-3.pdf)の一部です。(ただし、右肩にあるように、2011(平成23)年以降のデータなので、1966(昭和41)年に告示された河川区域境界線を決定する際に根拠とされたものではありません。)

 

 

(14)2015年水害時の浸水状況

 2015年9月10日に、氾濫水が河川区域境界線を越えた地点を、左岸について5か所例示します。ほかに、氾濫水位の痕跡をいくつか見ます。

 なお、大山新田樋管と大山下樋管それぞれの短い堤防では、堤内側法尻が河川区域境界線であり越水はしていませんが、それ以外の無堤区間は、全線で越水しています。

 

(14)図の左上隅、更新世段丘から左岸の高水敷に降り切ったところに、河川区域境界標が打たれています。4.75kの「現況堤防高」地点の標石の北西40mほど、標高は6mくらい低い位置です。

 水害から5日後です。標石の根元から80cmないしそれ以上高いところまで、氾濫水の泥が付着しています。河川区域外まで氾濫したのです。(2015年9月15日)

 大山下排水樋管とその部分だけの堤防です。標高12.2mの道路から、標高15.2mの堤防天端を見上げたところです。左に小さく見える掲示板を正面から見たのが右の写真です。(いずれも2019年7月)

 1m50cm低い高水敷から、道路と掲示板を見上げたところです。このあとの(15)の写真のように、この高水敷には、水害翌日まで氾濫水が貯留していました。


 大山下排水樋管の堤防天端から堤外の高水敷をみおろしたところです。水害から1か月以上経過し、乾いた泥が厚く堆積し、ひび割れています。天端高が15.2mで、泥が残っている上から3段目の踏面が14.6mくらいです。氾濫水位は14.7mくらいだったものと思われます。(2015年10月15日)

 大山下樋管から大山新田樋管に向かう途中の大樹に残る氾濫水の痕跡。左が河道。ここは標高約13mで、幹の1.8mの高さつまり14.8mくらいまで冠水したようです。(2015年10月15日)

 大樹のすこし上流で、奥が河道です。(2)のマピオンの地図のとおり、右に直角にカーブする道路までは守谷市で、小型バックホウがあるあたりから向こうは常総市です。

 1.5mくらい冠水し、樹木や草に泥が付着しています。守谷市役所が水害翌日に道路上の泥を取り除いて洗い流しているところです。手前の路面が濡れているのは、氾濫水ではなくタンク車からの散水によるものです(2019年9月11日)

 上の写真の奥に見える「鎌庭(かまにわ)出張所」の看板です。下から3分の1あたり、地面から高さ1.5m のところ横一線にゴミがついています。氾濫水の痕跡です。看板が立っているのが標高約13.3mですから、氾濫水位は約14.8mです。

 図中の水位と実際の氾濫水位は無関係です……。(2019年9月13日)

 さきほどの写真から回れ右したところです。(14)の左3分の1あたり、河川区域境界線が陸側に入り込んでいるところの河川区域境界の標石が立っている地点です。奥の更新世段丘面への上り坂の途中まで、泥が残っています。道路の反対側の草にも泥が付着しています。河川区域外まで氾濫したのです。(2015年9月13日)

 距離標石の立っている河川区域境界線は標高約14.0mです。高さ80cmの標石の頭頂近く、14.8m程度まで氾濫水が達したものと思われます


 「河川平面図」で13.3mとある直角カーブ地点から、河川区域境界線の標石を水平に撮影したものです。赤白測定棒のまんなかあたりに白い標石が見えます。測定棒の一目盛りは20cmです。距離標石の立っている河川区域境界線は標高約14.0mです。(2019年7月。5年前にはまだまっすぐ立っていましたが、今は他と同様に、ここでも標石が斜めに倒れ込んでいます。)


 (14)図の中央右下、冠水した耕地。奥の茶壁のお屋敷の土盛りしたコンクリート擁壁部分(暗灰色)までが敷地の高さで(その上が大型ブロックの壁=明灰色)、奥の道路の高さでもありますが、標高15.5mくらいです。氾濫水は道路のすぐ下、数十cmまでせまり、画面中央の鉄製物置は4分の3くらいまで冠水し、中にあった農機具は全滅したそうです。河川区域外まで氾濫したのです。(2015年9月28日)

 上のお屋敷の向こう側に見えた白壁2階建住居の、一階部分が車庫と農機具置き場の土間コンクリートになっていて、ここまで浸水し泥がたまったのを清掃しているところ。左側道路には水防活動で積まれた土嚢があります。ここも河川区域外です。

 ここまでが守谷市大山新田です。(2015年9月11日)

 耕地の北側の、絹ふたば文化幼稚園では新園舎建築工事中でした。

 判り難いのですが、画面中央の遮蔽シートの目の高さまで氾濫水の浮遊物が付着しています。手前の耕地の標高が13.5mくらいですから、氾濫水位は約15.0mです。(2015年9月28日)

 河川区域境界線は、河道ギリギリの標高13mくらいのところに引かれていたようで、護岸も堤防もいっさいなく、このように直接、耕地や住宅、教育施設に洪水が押し寄せたのです。

 水害当日の、絹ふたば文化幼稚園の新園舎建築現場です。右奥の河道から氾濫水が入り込んで冠水しています。水害当日は鉄骨組み上げの前で、足場だけの状態です。(2015年9月10日、絹ふたば文化幼稚園提供)

 水害当日放映された報道機関による空撮映像(NHKとのこと。住民提供)。画面上が5.25k距離標石のある大山新田樋管、手前で冠水している土地のうち、上3分の2が耕地、下3分の1が絹ふたば文化幼稚園です。右が鬼怒川です。


 

(15)2015年9月11日の衛星写真(GoogleEarth Pro)

 水害翌日の午前10時ころの、グーグルの衛星写真です。Windows、MacOS にインストールした GoogleEarth Pro で、ツールバー中央の緑色の時計アイコンをクリックするとスライダーが現れ、いくつか過去の画像を選択表示できます。(以前は有料でしたが、現在は無料です。タブレット・スマートフォンの 「アプリ」の GoogleEarth ではできません。)

 一夜明けて、鬼怒川の水位はかなり下がり、冠水した高水敷はほとんど姿を現しましたが、左岸の大山下樋管下や、右岸の巣立山公園下など何箇所かの高水敷にはまだ氾濫水が貯留しています。

 

(16)2015年9月11日の衛星写真に「河川区域境界線」を重ね合わせ

 

 GoogleEarth Proで、さらに寄ります。右上が大山新田樋管で、そこから降りてきた道路が左に90度曲がるあたりは、水は引きましたが、泥が堆積しています。画面中央の数人の人影はこのあとここの泥さらいをする守谷市役所の職員のようです。

 道路に「対向車注意」とペイントされていますが(GoogleEarth Proで、もっと拡大すると判読できます)、3文字目の「車」まで冠水したようで、乾いた泥が白く残っています。


河川区域境界線はいかなる基準で引かれたのか? またそれは適正だったのか?

 

 以上、左岸4.75kから5.50kにかけてみてきましたが、最後に、この区間の河川区域境界線は、どのように、何に基づいて、いかなる原理原則によって、あるいは原理原則によらずして、もしくは原理原則を軽視して、どういう事情を重視し、何を軽視ないし無視して、引かれたのかについて検討します。若宮戸における線引きとの異同を明確にすることで、若宮戸河畔砂丘における河川区域境界線設定の意味をいっそうはっきりさせるためです。

 この1km足らずの区間についてこのページで見てきたことを、上流から順に要約します。 

 

 さきほどの(16)の左岸の上流部を拡大したものです。右から、小絹水処理センター・モリ工業東関東配送センターの巨大な建物・墓地・絹ふたば文化幼稚園の旧園舎赤屋根・同改築工事現場・浸水した大山新田の耕地と続きます。河川区域告示図の河道崖面の地形がそのまま残されていることがよくわかります。一応は更新世段丘ではあるのですが、計画高水位と比べても十分な標高があるわけではないのに、築堤もせずに段丘の崖上に漫然と線引きをしたのです。

 

 (13)のとおり、(2011年測量にもとづく数値ですが)5.25kの計画高水位は14.865m、5.00kの計画高水位は14.760mです。この区間では河川区域境界線は14.0mの地点に引かれました。ところが、それより上流で計画高水位が14.970mである、この5.50k地点やその上流で、逆に1m低い13.0mに線を引いたのです。標高に応じて引くのが第一条件のはずだろうと思うのですが、そのもっとも重要な要素を無視して河川区域境界線を決定し、それを水害がおきるまでずっと維持してきたのです。建設大臣告示で、正当な理由もなく計画高水位を大幅に下回る標高13.0mの線を形式上「河川区域」に指定しただけで、実際には何もせず放置してきた結果、耕地や幼稚園が浸水する被害がでたのです。

 下の衛星写真は、上の写真よりすこし広い範囲、すなわち上流側の玉台橋から下流側の大山新田樋管までの、現在の状況です(GoogleMaps)。水害後の「鬼怒川プロジェクト」により玉台橋から大山新田樋管までの左岸には堤防を新設する工事がおこなわれています〔追記。先述のとおり、基盤となる基礎地盤と土台となる護岸の擁壁までであり、そのうえのパラペット工法による堤防は未設置だったために、2019〈令和1〉年10月13日早朝に4年後にして2度目の浸水被害が生じます〕。1966年の「河川区域」決定が失当だったことを、事実上認めたわけです。

 

 左岸をさらに下流に向かうと、大山新田樋管のある短い堤防がありますが、そこから大山下樋管のある短い堤防までの区間、約300mが無堤地帯になります。ここは標高14mくらいで河川区域境界線を引いたようです。そして、氾濫水はそれを60cm以上超過したようです。

 

 大山下樋管のある堤防は、計画高水位を約50cm上回る15.2mしかなく、1.5mの「余裕高」の基準を満たしていません。かろうじて越水や破堤はしませんでしたが、天端まで40cmに迫る危うい状況でした。

 

 大山下排水樋管と短い堤防の下流は、香取大神宮下の4.75k地点です。

(2019年7月撮影)

 赤丸が「河川区域境界線」の標石、緑丸が左岸4.75kの距離標石です。黄丸を付した赤白測定棒を立てた地点は、「河川平面図」では標高12.9mとなっています。これだと河川区域境界線は標高約13m、氾濫水位は13.6m程度だったことになり、いずれも他地点より1mくらい低いことになります。距離250mあたり計画高水位が30cm低くなることを考え合わせたとしても、辻褄があいません。

 大山下樋管から200mほどしか離れていませんし、その間には特段遮るものをありませんから、ここの氾濫水位は14.6m程度であり、河川区域境界標石とその場所での泥の付着状況からみて、河川区域境界線は14m程度のところに引かれていたと考えられるのですが、これら二つの地図のデータのいずれとも整合しません。

 なお、 地理院地図の「標準地図」によると、赤白測定棒点はT.P.=15mの等高線より高いのです。Y.P.だと15.8m以上になってしまいます。「河川平面図」と国土地理院の地形図で3m近い食い違いがあるというのでは、おおいに困惑します。

 したがって、4.75kの距離標石のある地点の標高データは、今ここでは参照しないことにします。しかしながら、その標高の絶対値には疑義があるとしても、河川区域境界線を越えて氾濫したこと、その超過水位は60cm程度だったことはたしかですから、その相対的な数値だけは、データとして採用したとしても失当ではないでしょう。

 以上により、左岸5.50kから4.75kにかけての区間の河川区域境界線についてはつぎのように結論づけることとします。

 

❖氾濫水位は、計画高水位(14.660mないし14.960m)をわずかに下回る、14.6mないし14.8m程度だった。

 

❖大山新田樋管と大山下樋管地点では、堤防の堤内側法尻(のりじり)に河川区域境界線を引いた(一般的原則どおり)。氾濫水位は、堤防天端以下だった。しかしながら、大山下樋管地点では、堤防天端(15.2m)の50cm程度下まで水位が上昇した。越水や破堤を免れたが、確保されるべき余裕高は1.5mであり、現況堤防高は基準を満たしていない。

 

❖大山新田樋管より上流側の区間では、更新世段丘の崖面に標高13.0mくらいで河川区域境界線を引いた。これは計画高水位に遠くおよばないどころか、それを2m近くも下回るものだった。段丘面が氾濫水位を上回っていた地点は浸水を免れたが、崖が低かった地点の幼稚園や耕地、住宅で浸水被害をうけた。

 

❖大山新田樋管から大山下樋管までの区間では、更新世段丘の崖面に標高約14.0mで河川区域境界線を引いた。これは計画高水位を60cmないし80cm以上下回るものだった。氾濫水位は計画高水位に近いものだったので、境界線地点で80cm程度浸水した。

 

❖大山下樋管より下流側の区間の河川区域境界線の標高は不明であるが、境界線地点で80cm程度浸水した。

 

 なお、大山新田樋管より上流については、水害後の築堤工事中であるが、下流については特段の対策はなされないようである。いまのところ更新世段丘を掘削するような行為はおこなわれていないので、特段の浸水被害は生じていないが、今後、更新世段丘の掘削、とりわけ更新世段丘と堤防との接続部分(いわゆる「山付き堤」部分)で掘削などがおこなわれれば、溢水する危険がある。河川区域境界線の標高は「余裕高」を含め、すくなくとも計画高水位より1.5m程度高いところに引きなおすべきである。


 本ページで参照した「計画高水位」の値は2013年測量結果にもとづくものであり、1966年告示の際の数値ではありませんから、これをもってただちに1966年の河川区域設定の瑕疵を言い立てるわけにはいきません。1966年に設定された河川区域がその時点で妥当であったか否かについては、河川区域設定当時の「計画高水位」データが判明した時点で再検討することにします。

 

 しかしながら、2015年9月の水害の時点において、設定されていた河川区域が妥当であったか否かは別問題です。9月10日のピーク時のこの区間の水位は、「計画高水位」(上の(13)図で引用)にほんの少し及ばない程度だったと推定できます。すくなくともそれを大きく越えてはいないと思われます。にもかかわらず、1966年に設定したままで、一切変更することなく維持してきた河川区域境界線を越える氾濫が起きていたのです。国土交通省の河川管理は、失当であったということです。

 すくなくとも「計画高水位」まで達した時に河川水が到達する標高地点に「余裕高」を加えたところまでを「河川区域」に指定して管理する必要があります。範囲を指定するだけで足りる場合もありますが、護岸・堤防の設置などの対処が必要となる場合もあります。国土交通省は、1966年に設定された河川区域を変更したうえ、必要な措置を講じておくべきであったのです。これは、本ページで検討した区間だけにとどまらず、もちろん個別具体的に検討する必要はありますが、流域全体についても妥当することです。

 

 以上の結果を踏まえて、若宮戸河畔砂丘における河川区域設定について、さらに検討しなけばならないのですが、ページ容量も限界ですので、ページを改めることとします。