若宮戸の河畔砂丘 12 河川区域外の砂丘掘削

2014年4月21日、「B社」によるR2(本文参照)の掘削の様子。バックホウの運転台屋根の高さは約3m。逆井正夫氏撮影

 

9,  June, 2019

 

 治水上の措置は、河川法に従って執行されます。その執行を担当する行政官庁は国土交通省です。一級河川である鬼怒川については、すべての権限が国土交通省に与えられているのですから、その行政上の責任は徹頭徹尾、国土交通省が負うべきものです。したがって、この若宮戸における3箇所での溢水の問題は、本質的・本来的・根本的・基本的には、河川法上の問題、国土交通省の責任問題としてとらえるべきものです。前の2つのページでは、森林法と林野庁ならびに市区町村役場について検討しましたが、あくまで副次的側面です。鬼怒川水害における本筋は、当然、河川法と国土交通省であるというほかありません。

 若宮戸(わかみやど)における3箇所の溢水のような、単純な機序によって起きた水害事例は他に類を見ないものです。河川の水位が上昇し、もともとあった標高の低い部分から、農地や住宅のある陸側に氾濫したのです。外見からは窺い知れない深部での変化が起きたとか、河道の屈曲とか堰や橋脚によって予想もできない水流の変化がおきたとか、想像もしなかったさまざまの要因が複雑にからみあった、などということはありません。いまここではその詳細について、繰り返して説明することはしませんが、上昇した河川水の水位と、岸辺の標高との相対的な関係という、それこそ小学生にも理解できるような要因による、じつに単純な氾濫現象だったのです。

 水害前、下館(しもだて)河川事務所(茨城県筑西〔ちくせい〕市)は、3箇所の氾濫可能性を明確に指摘する文書を受け取っていながら、所長以下担当者らはいずれもその重大性を認識せずお蔵入りさせてしまい、さらに前年春の河畔砂丘掘削によってそのうち最上流部の氾濫可能性が飛躍的に高まっていたという、一見してあきらかな事実すらまったく認識せずに(他地域の無関係の機関の者ならいざしらず、そのこと自体はきわめて異常なことというほかありません)、まさに拱手傍観したのです。

 

 3箇所の氾濫可能性を指摘したのは、サンコーコンサルタント株式会社が作成した「平成15年度 若宮戸地先築堤設計業務報告書」ですhttp://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/waka-8-3.pdf  第4章の末尾ページ、3-11)。設計会社から国交省に提出されたのは、水害の10年以上前です。国交省本省(霞ヶ関)、関東地方整備局(埼玉県さいたま市)を含め、これを読んでその重大性を認識すべき役職・部署にあった者は数年おきに異動して、合わせれば数十人にも達したでしょう。読んですこしは問題だと思った者、読みはしたが大して気にも止めなかった者、見てもいない者など実情は区々でしょう。10年もたてば書庫の奥深くか、ハードディスクのディレクトリの分枝の梢の先に入り込んでしまって、誰も気にもとめなかったかもしれません。これはたいへんだと思い、即座の築堤とその完成までの臨時の氾濫防止措置を上申した者もいたかも知れませんが、それを受け止める組織ではなかったのでしょう。

 

 水害後は、まさかこれら事実について国土交通省の一部の職員は認識したに違いありませんが、下館河川事務所の所長・副所長以下の幹部職員、さらには関東地方整備局の局長や担当課長以下の幹部職員や「河川調査官」らの広報担当者は、自分たちには一切責任はないと言い続けたのです。実際に水害が起きてしまい、自分たちが主張したことが根本的に誤っていたことに気づいたものの、立場上そのことを認めるわけにいかないので、自分たちがしてきたことが(というよりしなかったことが)正しかったと言い続けているのではありません。彼らは、さまざまの資料を真剣に精査することもなく、なにより呆れたことには現地調査をおこなうことすらせずに、すなわち本当に無知であるうえに、事実を探索しようとする一片の意思すら欠いたまま、何の根拠もなくそう言い続けたのです。水害から3年以上が経過し、水害当時の担当者はほとんどすべて他部署に異動してしまい、一層事実に疎い後任者が漫然と業務執行を承継しているのです。

 国土交通省/関東地方整備局/下館河川事務所は、若宮戸における氾濫を回避するための措置を講ずる権限を与えられていたのですから、それを適正に行使してさえいれば、若宮戸における氾濫を予見できたはずであり、適切な措置を講ずることで氾濫を容易に回避することができたはずです。しかし、国土交通省/関東地方整備局/下館河川事務所は、漫然と事態を座視し、大規模な水害をまねきよせてしまったのです。

 国交省が若宮戸河畔砂丘における氾濫地点のうち、上流部25.35kでのソーラーパネル設置のための砂丘の掘削を黙認したことについて、その責任を回避するために繰り出した詭弁の根幹をなすのは、業者が掘削をおこなった土地が「河川区域の外の民有地」であったため、それをやめさせる権限をもたなかった、というものです。

 この主張が誤りであったことを立証します。そのために、

 

(1)まず「河川区域」がどのように設定されていたかを確認し、

(2)ついで、「河川区域」の外でどのように地形の改変がおこなわれたかをたどり、

(3)それによって、「河川区域」の設定が失当であったことをあきらかにしたうえで、

(4)それでは、どのように「河川区域」を設定すべきであったか、検討する、

 

という手順を踏むことにします。このページでは(2)までの作業をおこないます。これにより、(3)は自ずとあきらかになりますが、次ページでそれを再確認したうえで、(4)を結論づけることにします。

  


(1)河川区域はどこまでか

 

 

河川区域境界線はどこに引かれたか?

 

 「河川区域の外の民有地」なので手が出せなかった、という言い訳の妥当性を検討しなければならないのですが、さっそく障害に直面します。どこが境界線なのかがわからないのです。ボーッと生きてるからわからないのだろうとお思いでしょうが、そうでもない証拠を2つほど。

 ひとつは、おなじみ常総市役所の「ハザードマップ」です。水害後に改訂かつ改悪?されて、いまは新版に入れ替わっています。水害当時のものから若宮戸付近を拡大したものです。河道(低水敷)両側の薄紫灰は、ほかの地域だったら高水敷であり、堤防までふくめてそれが「河川区域」です。若宮戸では市道東0283号線を境にして塗り分けてあるので、一見これが河川区域境界線のようにも見えますが、違います。そのうえ市道東0283号線で塗り分けたため、いろいろ不都合なことになっています。若宮戸付近では高水敷と、河畔砂丘のうち市道東0283号線以西が区別なく同じ薄紫灰になるほか、市道東0280号線(いわゆる24.75k地点、ただしくは24.63k)以南ではそれと市道東0283号線および堤防で囲まれたところが空白域になってしまうため、するに事欠いて灰にしています。深い意味があるのではなく、ただの支離滅裂です。

 もちろん元データは国土交通省下館河川事務所が作っているのでしょうから、河川区域がわからないはずはないし、洪水ハザードマップで河川区域を秘密にする必要もないでしょうに、それを敢えて隠した上、愚かにも高水敷と河畔砂丘を同じ色にする、おかしな地図をつくってしまうのです。

 

 

 もうひとつは、「地理院地図」の「治水地形分類図・更新版」です。「地理院地図(電子国土web)」(https://maps.gsi.go.jp/)で若宮戸付近を表示した上で、画面左上方の「情報」ボタンで表示されるメニューから「土地の特徴を示した地図」>「治水地形分類図」>更新版、と辿ります。

 「治水」をテーマとして、国土交通省国土地理院が作成した地図なのに、河川区域境界線が省略してあります。ただし、河道中心線にだいたい直角に、250mおきに記入された距離表示(守谷〔もりや〕市大木〔おおき〕地先の利根川との合流点からの距離。ただしたとえば通例24.75kとするところを24.8kと、25.25kとするところを25.2kと表示しています)の線分の末端の黒丸が河川区域境界線上に打たれているようにも見えますが、少しずれています。

 

 

 公開されている一般的な文書等では、堤防がない地区の河川区域はわからない、ということです。

 次は、この「河川区域」を決定した文書です。

 

 

 

 鬼怒川の管轄権を茨城県から引き継いだ1965(昭和40)年の時点で、建設大臣(現国土交通大臣)が設定し告示した「河川区域」のうち、若宮戸河畔砂丘の上流側半分は上の通りです。河道を横断する直線は左が25k、右が25.5kの表示です。

 

 まさのあつこが国交省に開示請求して入手し 、YahooNews の記事に掲載したものです。わざわざ時間(決定まで4週間、開示手続きに1週間以上)と費用をかけてまで開示請求したのは、河川区域境界線が公表されていないからなのです。「河川区域」内では、地形の改変はもちろん植生の変更や建造物の設置などが大きく制限されます。端的にいうとほとんどの場合禁止されます。いっぽう「河川区域」の外では、地形改変や植生変更、建造物の設置や利用などが(河川法以外による、たとえば建築基準法とか森林法などによるさまざまの届出や許認可が必要にはなりますが)基本的には自由にできるのです。土地の所有者はもちろん、これから土地を買おうとする者や、さまざまの用途のために利用しようとする者に対してまで、どこがその境界線であるのかが公表されていないのです。公表される数多の国交省文書でも境界線が明示されていないのが普通です。国交省の事務所に行けば、大判の紙を何十枚も重ねて筒状に丸めたもの、つまり上の大臣告示を出してきて見せてはくれますが、コピーも写真撮影もさせないのです。もちろんインターネットのウェブサイトでも公表していません。さすがの Google Maps にも載っていません。

 

 これが事実上の原簿といってよいのでしょうが、困ったことにこの画像では相対的位置関係がわからないのです。そこで、2015(平成27)年3月に建設技術研究所が作成し下館河川事務所に提出した文書(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/waka-7-1.pdf 4-4ページ)中の図を引用します。上段が下流側、下段が上流側です。右上と左下で重複している付近がちょうど25.35kのソーラーパネルの地点です。下流側の境界線が途中までしか描かれていないので、さらに別の文書を見て同じ色の破線で書き加えました。画面左3分の1です。堤防があるところでは、堤内側の法面(のりめん)下部、堤防が途切れた地点から河道に向かって、市道東0280号線が境界線です。ただし、いずれも線が見えにくくなるので、少しずらしてあります。

 

 

 

どうしてそこが河川区域境界とされたのか?

 

 ひとめ見ただけで、若宮戸河畔砂丘における「河川区域」設定の異常性に驚かされます。下流側からたどると、堤防が60度屈曲したあと突然途切れると、河川区域境界線はそこから踵を返すように330度左転回し、一気に河畔砂丘の河道側外縁へと向かい、高水敷直前で90度右に向きを変えて、そのまま河畔砂丘の北端近くへと到達します。そこでまたも右に90度向きを変えます。その先はここでは描かれていませんが、さきほどの告示文書の通り、90度左転回してうねりながら北へと向かうのです。若宮戸については、どこまでが河川区域であるのかを知ることでさえ、一苦労なのですが、いざ境界線のありかがわかったところで、どうしてそこに境界線が引かれたのかが、わからないのです。

 最初の茶色く変色した告示文書は、一見すると素人が書いた略図ふうで、あまりにもばらっとしていて、どうしてそこが河川区域の境界線とされたのか、その意味が全然わかりません。その次の図面は、法務省の登記局が管理している「公図」と重ね合わせてあるので土地所有関係がわかるのですが、河川区域の境界線と登記簿上の土地の境界線はまったく対応しないことがわかります。あとから追加した破線部分は堤防と道路を隔てて別の地番が振ってあるので別の「筆」になっているのですが、実線部分では短冊状の各「筆」を串刺し状に横断しています。

 「河川区域」は、国土交通大臣(当時は建設大臣)が告示して決まったわけですから、行政行為上の概念です。左岸と右岸の「河川区域」境界線2本で挟まれたところが、とりもなおさず「河川」、今の場合でいうと鬼怒川そのものなのです。大臣告示ひとつで、鬼怒川とは何かが決定するということです。それだけの話なのに、どうやら国土交通省は勘違いして、河川区域の設定は不可譲の権限によるものであるから、自らが決定した河川区域は絶対的に正しい、と思い込んでいるようなのです。そうでなければ、砂丘掘削は「河川区域」の外のことだから何の権限もないので一切手が出せない、などという言い訳は思いつかないでしょう。それによって鬼怒川の範囲が截然たるものになる河川区域境界は自分が引いたのであり、それは絶対的なものだというのです。まるで国土交通大臣が無から鬼怒川を創造したかのごとくです。

 

「鬼怒川あれ」と国土交通大臣が言った。すると、鬼怒川があった。

The Minister of Land, Infrastructure and Transport said, "Let there be Kinugawa-river" : and there was Kinugawa-river.

 

 自分で無から創造したわけでもあるまいに、国土交通大臣は自分の都合(行政機関の裁量)だけ考慮して自由気ままに線を引いてよい、というものではありません。せいぜいのところ、ただしく河川行政を執行するために、その目的達成のための必要性にかんがみて、どこからどこまでを鬼怒川とみなすかを決める、だけです。

 それでは具体的に、どこからどこまでを鬼怒川だとみなせばよいのでしょうか。幼児だったら、水が流れている河道が鬼怒川だというかも知れませんが、季節変動や年による変動がけっこうあるし、大雨のあとには一段高くなっているところ(高水敷)まで水があがります。その場合、まだ「氾濫」とはいいません。堤防を越えたり、「決壊」させてあふれ出たりするのが「氾濫」です。 つまり、河川の範囲を越えて洪水があふれ出てくると、「氾濫」とみなすわけです。この「河川」の範囲が、すなわち「河川区域」です。つまるところ、左岸堤防から右岸堤防まで(逆でもよいのですが)が、「河川区域」ということです。次の図は、国土交通省国土技術政策総合研究所の解説です(http://www.nilim.go.jp/lab/rcg/newhp/yougo/words/014/014.html)。これが一般的な図解です。

 

 

 

 どこにもあるような在り来たりの模式図ですが、図形としては描かれているのに、「高水敷」の語がありません。それが入っているものを探したところ出てきたのが、次の国土交通省東北地方整備局による「どんどん調べてあなたも最上川〔もがみがわ〕博士に!」という児童向け解説です(http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/words/02ka/ka-002.html)。

 

 

 

 これもありきたりの図のようですが、よく見ると、右岸の様子がちょっと違います。堤内側の法面(のりめん)がなく、当然「法尻(のりじり)」もありません。これでは、どこまでが「河川区域」なのかわかりません。この右岸は「スーバー堤防」ではありません。「スーパー堤防」であっても、そこまでは相当の距離がありますが、同様に堤内側法尻までが「河川区域」に入りますから。〔https://www.kkr.mlit.go.jp/toyooka/ryuiki/02/yougosyu.pdf の13ページ参照〕。

 右岸は、どうやら「掘込(ほりこみ)構造の堤防」のようです(https://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/setumeizu.html)。常総市の水海道市街地を横断する新八間堀川(しんはちけんぼりがわ)は、鬼怒川への合流直前、洪積台地の標高の高い部分で少しの距離だけ、この「掘込構造」の堤防になっています。

 「最上川電子大辞典」の模式図でいうと、左岸のような「築堤(ちくてい)構造」の堤防であれば「河川区域」の範囲は明晰 clear で判明 distinctive (はっきりしていて間違えるはずがない)です。そこを境界線とし、そこから右側が河川だとして、異論はいっさい出てこないでしょう。右岸のような「掘込構造」の堤防ではひとめでわかる堤内側法尻がないのでやや複雑になりますが、それでも堤防はあるので境界線を引くのは可能でしょう。どこに境界線をひいてよいのかなかなか見当がつけられないとか、引いたあとでどうしてここなのだと疑問が提出される、などということにはなりません。

 しかし、堤防がない場合には途端に曖昧になってしまいます。若宮戸の河畔砂丘では、24.63k(いわゆる24.75k)から26k付近までは堤防がありません。ここがまさにそれです。

 

 それでも建設大臣は、1965(昭和40)年4月1日の新河川法施行から、しばらく時間をおいたうえで、1966(昭和41)年12月に線を引いたのです。どうやって線を引いたのでしょうか? どのような事情を考慮し、どのようなことを根拠に決定したのでしょうか?

 

 日本中の河川について一挙に河川区域を定めるのだから、いかにも大仕事のようですが、別に大臣一人でやるわけではなく、全国の組織が各々の河川について検討すればよいのです。下館河川事務所(当時は下館工事事務所)は関東地方整備局の中でもっとも長い181.5kmの河川(鬼怒川約99.6km、小貝川約81.9km)を担当しているのだそうで(http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate00011.html、たいへんといえばたいへんそうなのですが、建設省直轄の一級河川であればたいていの場所に堤防があるのですから、その部分は考えるまでもありません。問題は堤防のないところですが、さほどの距離はありませんから、検討する時間は十分にあったのです。

 当然、若宮戸の河畔砂丘について検討する余裕は十分あったはずです。というより、河川区域の設定という点では、若宮戸河畔砂丘の扱いが、あえていえば唯一問題となる地点だったのです。若宮戸河畔砂丘に河川区域をどう設定するかで、洪水防止という至上目的が達成できるかそれとも失敗するかが決まるのですから、若宮戸の地図をながめ、現地を見て歩いて、慎重に検討すればよかったのです。しかし、下館工事事務所は、この正念場で洪水防止ではなく、いかに楽して切り抜けるかばかり考えて、河川区域の朱線を引いたのです。結論をあらかじめ言ってしまいます。

 

 本来唯一考慮すべき地形上の理由は無視し、土地の所有者たちに遠慮して、あるいは土地所有者たちからの反発を回避するために、さらには面倒な買収手続きを全部回避するために、(まさかゼロにはできないので)「河川区域」に繰り入れられる河畔砂丘の面積がもっとも狭くなるように、できるだけ河道に近いところに線を引いたのです。

 

 その結果、若宮戸河畔砂丘は、河道側のごく狭い部分を除くほとんどすべてが河川区域外となり、河川法上は何らの規制も及ばないことになったのです。「B社」による掘削の最中にも、そして水害後にも、なにかというと判でおしたように「河川区域外の民有地だったから規制できない」と繰り返したのですが、それは上っ面のただの言い訳のように聞こえるかも知れませんが、実のところ、まさに肝心要の本音のところだったのです。建設大臣は、民有地に対して規制をかけたり、ましてやそれを買収する仕事をしなくてすむように、一番河道寄りの、もうこれ以上後退するのは無理なところに線を引いたのです。19世紀後半のアフリカ分割、20世紀初頭のサイクス・ピコ秘密条約、あるいはアメリカ合州国の領土拡大のように、大机の上に地図をひろげて、エイヤっと赤鉛筆で描いたのでしょう。

 

 2016年に、1966年の河川区域決定について国会議員から問われたのに対し、国土交通省本省(霞ヶ関)の職員が、「茨城県が管理していた区域を踏襲して、1966年に河川区域の指定を行ったものと推測されます。」と答えたとのことです。これを聞いたほとんどの人は、河川区域の線は、茨城県が引いた線を忠実にそのままトレースしたのだと思い込んでしまったのです。しかし、口を開けば嘘ばかり、責任逃れのためならありとあらゆる与太話を垂れ流してきた国土交通省が、根拠も何も示さず、「推測されます」などと、まるで他人事のようなことを言っているのを、信用できるはずもありません。ことは、地図上の線がどうであるかの問題なのですから、茨城県の図面と、それを「踏襲』したという建設省の図面を、並べて見比べれば済む話です。それを「推測されます」などと言っているわけですから、説明している当人はその2つの図面を見たことがないのです。図面を見たことがない者が、内容が同じだと言っていること自体がおかしな話です。

 この件については、別に検討しますが(別ページ)、実際には新たに線引きをしたとみるほかありません。50年以上前の茨城県庁に責任転嫁するために「踏襲した」などと言うのは、あとになって何とでも言い繕うことができる、お得意の曖昧語法だったのです(「いわゆる自然堤防」戦術です)。全部丸写しでも「踏襲」、幅がだいぶちがっていても川筋が同じなら「踏襲」、いざとなれば、全然違っていても同じ鬼怒川についての話なのだから「踏襲」。

 

 


(2)河畔砂丘の掘削はどのように進行したか

 

 海岸砂丘も同様ですが、河畔砂丘 river bank dune はひと山のかまぼこ状になるのではなく、寄州の砂を吹き上げる定常風によって、風下側(鬼怒川の場合左岸)に河道に沿った複数の列の集合体として形成されます。そして、内陸側の〝畝〟が最も発達して高さ・幅ともに最大になり、河道に近い〝畝〟(若宮戸の場合は西側)が最も未発達で高さ・幅ともに最小になります。

 以上は横断面の構造的特徴ですが、若宮戸の河畔砂丘の場合、縦断方向を見比べると、北部(上流側)がよく発達して標高が高く、南部(下流側)に行くに従って低くなります。2つの要因により東側の〝畝〟の北寄りに最高地点がありました(現在は、掘削されてしまい、完全に平らになっています)。

 次の図は、いちばん東側の最大の砂丘の〝畝〟(R1)を臙脂(えんじ)、それに次ぐ規模の2番目の〝畝〟(R2)を茶、3番目の〝畝〟(R3)を、一番西側の高水敷ぎりぎりのもっとも小規模な〝畝〟(R4)をで表現したものです。

 これらを、以下の各時期の写真・地図のサムネイルで、重ね表示します。これは迅速測図の崖記号と等高線から推測したものです。その後に作られた地形図はあまりあてになりませんし、航空写真・衛星写真では土地の起伏はほとんどわからないのです。地上での観察や(砂丘掘削後のものである)国土地理院のアナグラムも参考にはしましたが、掘削前の状況をもっとも正確に表現しているものとして、あえて迅速測図からトレースしました。R2はとくに分枝や断裂が著しいようです。

 

国土地理院の五万分の一地形図は、ない方が良いとまではいいませんが、主たる情報源にはならないのです。つまり、ほかの情報源からの立証の側面からの傍証、副次的な情報として時々役に立つこともある、という程度です。過度の省略や時としてあきらかに実態に反する等高線の線引きがなされていたりします。ほかに情報源がない場合に、地形図からだけ推測するとしばしば間違ったりします。他の全部がそうだとは言いませんが、すくなくとも若宮戸に関しては地形図を見ても現地の状況を想像することができないのです。ちょっと言い過ぎですが、現場を見ていない人が、フリーハンドで腰だめで描いたのが見え見えです。それに対して「迅速測図」という、いかにもやっつけ仕事みたいな名前の最初のものがよほど細かいところまで描きこんであり(ということは測量してあるということです)、しかもはるかに正確なのです。

 

 北端は、かつての鎌庭(かまにわ=その形状による名称でしょう)の大蛇行部をショートカットして掘削された鎌庭捷水路(かまにわ・しょうすいろ)の下流端、26k付近です。南はもうすこし先まで低い砂丘の〝畝〟が続くのですが、水管橋直下の24.5kの下流で切って図示します。

 破線は、1938(昭和13)年の大洪水後に、2番目の〝畝〟(R2)を嵩上げして築堤された左岸堤防です。ここより南ではR2がきわめて未発達なので、堤防が必要となったのです。

 石下(いしげ)橋たもとから上流へとたどってくると、水管橋下で突然東へ60度屈曲し、東の〝畝〟(R1)にドン付きした地点で終わります。いわゆる「山付き堤(やまつきてい)」と呼ばれる堤防です。R1が「山」で、その「山」にドン付きする堤防だから「山付き」です。

 赤丸がかつての最高標高地点で、迅速測図では32.25mの三角点が表示されています。今はありません。

 もっとも高く大きかったR1は、砂採取により完全に平坦にされ、3つ残丘だけが孤立するのみで、かつて砂丘だったことはまったくわからなくなっています。白地で見にくいのですが、黄丸はR1があらかた掘削されてしまったあとに残された3つの残丘です。下のグーグルクライシスレスポンスの航空写真 https://storage.googleapis.com/crisis-response-japan/imagery/20150911/full/DSC02810.JPG (2015年9月11日午前10時ころ)にも3つ黄丸をつけ、さらに地上写真を示しました。

 南側の残丘は「山付き」になった地点のすぐ脇にあり、墓地になっています。堤防天端高のY.P.=22.8mより高いY.P.=24.4mです(Y.P. は、地形図などのT.P. より0.84m大きな数値で、鬼怒川に関する標高はたいていの場合これで表現します。つまり、さきほどの三角点は、Y.P.=33.09mです)。「山」が「山付き堤」より高いのは当然です。くっついてきた堤防より低かったら「山」ではありませんから「山付き」にはなりません。

 中央の残丘は市道東0273号線脇で、これが若宮戸一帯の現在の最高標高地点で、Y.P. =28.2mです。南の残丘同様、墓地になっています。残ったから墓地として利用したのではなく、墓地だったので撤去しそこなってそのまま残ったのです。今でも、道路建設などで立ち退かせようとする側にとって、もっともやっかいなのが墓地です。したがって、これがこの地点の砂丘の本来の高さだったということになります。北側の残丘はY.P.=25.0mです。

 現在、この3地点を除きR1は完全に掘削されて、東側の自然堤防地形とほとんど同じ、Y.P.=20m程度になっています。

 なお、堤防(緑破線)がR2(茶)から離れてR1(臙脂)方向に屈曲する地点は、R2への「山付き」ではないのでご注意ください。

 

 堤防の60度屈曲はR1に山付きにするのため、というのがその理由だったのですが、ほとんどの人はそんなことは気にも留めないようです。気づいた者は気づいた者で、そのあとR1をあらかた掘削して(しこたま儲けて)しまった、あるいは掘削を奨励容認黙認傍観したした当人であるかそのお友達であるので、その事実は冥土のみやげにしてしまうので絶対に口にしません。そのくせ、R2という堤防より低い「山」もどきにくっつく「山付き」もどきについては、もちろんそれが「山付き」でないのはわかっているので、絶対にそうは言いませんが、どうぞ誤解してくださいと言わんばかりに書き散らし描き散らすのです。そして、R1への山付きには気づきもしない人が、コロリと騙されてしまうのです。

 

 この地点のR2は、堤防天端よりはるかに低いのですから。ここは2015年の水害で、R2がまとわりついている川表側堤防法面が洗掘され「深掘れ(ふかほれ)」ができました。あやうく破堤するところでした。

 

 なお、国交省が「深掘れ」と誤称するのは、河川区域境界線となっている市道東0280号線から稲田へ抜ける地点に形成された深さ6mの「押堀(おっぽり)」です。国交省の用語法はデタラメばかりです。(いわゆる24.75k〔ただしくは24.63k〕については、別ページ参照)

 

 図が上の方に行ってしまいましたが、赤破線がさきほどのサンコーコンサルタント文書に出ていた河川区域の境界線です。

 

 

 R1の残丘の地上写真も示します。いずれも水害後の撮影です。最初が北の残丘です(2015年10月)。次がもっとも大きな中央の残丘で(同)、手前は水害直後に「B社」のソーラーパネルをいったん片付けた跡です。3枚目が南の残丘を慰霊塔の最上階からみたところです(2015年12月)。堤防だけでなく、水害後の土嚢積み仮堤防も「山付き」になっています(実際には、堤防に接続したということなのですが)。

 最後が、その仮堤防撤去後に市道東0280号線上から見た南の残丘です。右がかつてR1に山付きになっていたが、水害後に新堤防ができて完全に用済みになった盲腸堤防、市道の左に墓石が見えるのが残丘、遠くが筑波山です(2018年12月)。

 

 

 以下、航空写真と地形図を11枚、年代順に並べます。

 典拠は次の通りです。

(い)の迅速測図、(ろ)(は)の地形図、(り)の航空写真は、「今昔マップ」http://ktgis.net/kjmapw/index.html

 埼玉大学教育学部の谷謙二教授が提供するウェブサイトで、各時期の地形図と航空写真を閲覧できます。とくに2画面並列で現況と各時代の地図・航空写真をシンクロしてスクロールさせると、新旧の変化がまさに一目瞭然です。カーソル位置で対応地点が一目でわかります。一般国民向けにここまで親切に情報提供する研究者はほかにはいないでしょう。トップページで「関東」を選択し、若宮戸に移動し、表示する地図を選択します。

(に)から(ち)までは、国土地理院の「地理院地図(電子国土web)」https://maps.gsi.go.jp/)。

 国土交通省国土地理院のウェブサイト「地理院地図」で、若宮戸付近を表示し、画面左上方の「情報」ボタンで表示されるメニューから「空中写真・衛星画像」>「単写真」を選び、無数に現れる赤丸を片端からクリックします。番号などがないのでやむを得ません。綺麗に並んでいるのは、近年等距離で連続撮影したものなので、それ以外です。垂直写真なので赤丸が画面中心ですが、若宮戸の真上というわけではなく、対岸の場合もあります。

 運良く当たったらポップアップウィンドウを開くと、撮影日時などが表示されますから、左下の「高解像度表示」「ダウンロード」をクリックします。ここまでは無料です(簡単な申告が必要です)。このページではコントラストと明度を上げて判読しやすくしてあります。ただしトリミングしてあります。詳細を見るには「地理院地図」でご覧ください。

 

 

(ぬ)は、おなじく「地理院地図」の「情報」ボタンで、「起伏を示した地図」>「アナグラム(カラー)」です。

(る)は、Yahoo 地図https://map.yahoo.co.jp/maps) の右上のボタンで「写真」を選択して表示した衛星画像です。

 

 なお、群馬大学教育学部の青山雅史准教授(自然地理学)が「土地履歴からみた液状化被害・水害の発生要因と危険度評価の検証」(http://kokudo.or.jp/grant/pdf/h28/aoyama.pdf)において、若宮戸河畔砂丘の航空写真の比較をおこなったのを参考にしました(模倣しました)。

 また、青山准教授は、河畔砂丘の尾根をリッジ ridge と呼称しています。和訳すれば「畝(うね)」です。適当な呼称を知らなかったため、苦し紛れに使っていた当 naturalright.org の用語は間違いではないようです。なお、尾根のほか、峰、クレストなどと呼称されることもあるようで、特にどれかひとつが一般的名称として定着しているわけではないようです。

 横須賀軍港を母港とする、アメリカ合州国海軍第7艦隊の旗艦「ブルー・リッジ」は、アパラチア山脈の一角「ブルー・リッジ山脈」の名をもらったものです。「青い山脈」です。

 このページでは、先程来、リッジ ridge の頭文字をとって、若宮戸河畔砂丘の4列あった砂丘を、東から順に、R1、R2、R3、R4と略称します。

 

 


(い) 1880-86(明治13-19)年に陸軍が作成した「迅速測図(じんそくそくず)」です。赤丸のところに三角点があります。最高地点でしょう。「32,25」と小数点が「,」になっているのは、フランス式だからです。Y.P.=33.09mです。

 伊能忠敬(いのう・ただたか)の地図は20世紀初頭まで地形図作成の際に参考にされたとのことですが、伊能図は基本的には海岸線を測量した地図です。海岸線がほぼ正確に表現されているのでなんとなく全体を測量したような印象を受けるのです。内陸部についてはこの迅速測図が最初の詳細な地図です。圧倒的な情報量です。このあとの2枚の地形図より細密で正確です。

(ろ) 1894−1915年の五万分の一地形図です。地図としては迅速測図の方が細密で、こちらはいかにも粗略です。〝畝〟も一致しないのですが、無理にあわせることはしていません。

 とはいえ若宮戸河畔砂丘の様子は、上の19世紀半ばすぎの迅速測図からほとんど変わっていないとみて差し支えないでしょう。針葉樹の記号は、迅速測図の「松」のことでしょう。三角点の数値もほぼ同じです(位置がずれているのは、三角点自体がずれたのではなく、図化する際にずれたのでしょう)。

 下流部の堤防はまだ築造されていません。

(は) 1928-45年の五万分の一地形図です。(ろ)からの地形的な変化はほとんどありません。

 三角点の北にあった神社のマークがなくなり、画面最下部に寺院のマークが現れます。金椿山泉蔵院十一面観音堂(常総市本石毛〔もといしげ〕字西原〔あざ・にしはら〕)です(別ページ)。あとは、右上の原宿の街区のはずれに学校(現在の常総市立玉小学校)ができました。

 道路と等高線の区別もよくわからないのが、多色刷り以前の日本の地形図の欠点です。高校生の頃の科目「地理」の授業では泣かされました。

(に) 1947年10月26日に、占領軍であるアメリカ合州国軍隊が撮影した航空写真です。もちろん若宮戸だけを撮影したのではありません。

 左岸の高水敷の砂が目だちます。この砂が若宮戸の巨大な河畔砂丘 river bank dune をつくりあげた材料です。河川流ではこばれ左岸の寄州(よりす)に溜まった砂が、水位が下がる冬季にこんどは北西季節風(「日光おろし」)によって吹き上げられて、東岸に堆積したのです。自然堤防は水位上昇時の氾濫流によって運ばれた土砂が堆積したものですから、本質的に異なります。混同のしようがありません。

 わかりにくいのですが、下流に堤防が築造されました。砂丘の河道沿いが畑として利用されています。

 河畔砂丘内部もかなり植生に変化がみられますが、砂を採取するなどして裸地になるところまではいっていないようです。森林を伐採し木材として利用したあと植林しているか、あるいは畑にしているように思われます。次の1961年の写真と合わせ考えても、R1など〝畝〟の掘削ははじまっていないでしょう。

(ほ) 1961(昭和36)年8月10日に国土地理院が撮影した航空写真です。地形図改訂のための航空測量のようです。

 市道東0272号線を入った北側、のちにR2の西側の小林牧場の鶏舎となるところが伐採されています。R1とR2の間、広範囲に伐採されたところは、のちに家具工場、その撤退後しばらくして「B社」のソーラー発電所となる地点です。そのほか、下流の市道東0280号線脇、R2の北東側の伐採もはじまったようです。このように市道があるところから伐採がはじまります。

 しかし、樹木の伐採までで、〝畝〟の掘削は始まっていないでしょう。砂の採取が始まり、植林もおこなわれないと白い砂が見えるはずです。R1とR2は、まだ保存されているようです。

 (に)に比べて、高水敷(の砂地)の面積が減少しているように見えますが、(へ)ではもとにもどるので、増水が理由でしょう。

(へ) 1964(昭和39)年5月16日、国土地理院撮影です。東京オリンピック(前回の)の5か月前です。

 広大な高水敷の砂が白く見えます。引っかいたような黒や灰色は、自然地形ではなく、砂の掘削によるものでしょう。掘削痕は3種類ほどの外見を呈しています。右岸でも砂の掘削がおこなわれています。この時点では砂の採取場所は河畔砂丘の外、西側の高水敷であり、若宮戸河畔砂丘そのものの掘り崩しは始まっていないようです。

 1961年に伐採された土地つまりこのあと家具工場、最後に「B社」のソーラー発電所となるR1とR2の間の部分が、さらに南側の市道東0272号線近くまで伐採されたようです。東側はR1に、西側はR2にかかっていて、その部分でR1とR2で多少の伐採・掘削がおこなわれたようですが、おおむね二つの〝畝〟の谷ですから、まだこのあとのような大規模な掘削ではありません。しかし、市道東0272号線北側でR1本体の掘削が始まったようです。三角点があった最強標高地点でも伐採がはじまったたように見えます。

 市道東0272号線と市道東0280号線の間あたり、R2の峰の西斜面が伐採されました。のちの慰霊塔です。R3はまだ残っているようです。

 河川法改正により、この付近の鬼怒川が、茨城県庁管理から建設省(現国土交通省)の直轄になるのが翌1965(昭和40)年です。

(と) 1968(昭和43)年8月22日、国土地理院撮影です。上の(へ)からわずか3年です。

 まず、左岸の高水敷の寄州( side bar )が大部分掘削されてしまったようです。(ち)(り)でも同様ですから、一時的な増水による冠水ではないようです。

 R1とR2との間の谷、そしてそこから連続的にR1そのものが掘削されているようで、白く見えるのは砂丘内部の砂の色です。激変です。高水敷での採砂が限界に達したので、いよいよ河畔砂丘の掘削がはじまったということのようです。

 東側の自然堤防地帯と全く同じ標高まで、完全に平坦になるまで河畔砂丘が掘削されているのです。そのあとの植林はおこなわれていません。分かりにくいのですがR1のふたつの残丘(北と中央)が確認できます。

 R2の慰霊塔用地の西側が伐採されたようです。ただそのあとが白くはなっていないので砂が剥き出しになってはいないようです。草地にされたのかもしれません。そこにはR3が縦断しているのですが、この時点で掘削までされたかどうかはわかりません。

(ち) 1972(昭和47)年9月18日、国土地理院撮影です。

 R1の市道東0272号線以南が、二つの残丘(中央と南。いずれも墓地だったので手がつけられなかったのでしょう。今もそのままです)を除いて、樹木の伐採のうえ、砂丘それ自体が全部掘削されてしまったようです。

 ふたつの市道、R2とR4に囲まれた長方形の土地は、ほぼ完全に伐採と整地がおわったようです。R3も掘削されたようです。この場所では、河川区域境界線を含む河川区域で、伐採・掘削がおこなわれたということです。

 このころには砂丘の掘削=砂の採取は完了したようで、白い砂が剥き出しのところは、R2の慰霊塔予定地東側だけになり、ほかは耕地かあるいは放置されて草地になっているようです。

 河道近くのきわめて小規模で氾濫を防ぐ効果はまったく持たないR4は残っています(現在も残存)。

 市道東0272号線以北ではR2の西側に小林牧場の鶏舎が2棟建てられました。画面下部、堤防の60度屈曲部の西側は牧草地となったようです。このあと雑草地になり、2015年水害の際にはここより下流から河畔砂丘部に入った氾濫水が水管橋を潜って遡上し、ここから市道東0280号線を横切って、R1の南の残丘西の稲田へと氾濫することになります。

 R2の東側はR1本体を含めて、ほぼ完全に掘削が完了したようです。R2の西側も小林牧場の北西から、南は画面が切れるところまで、全部掘削が完了しました。

 要するに、この時点までで、若宮戸河畔砂丘は、中ぐらいの規模のR2と、ごくごく小規模なR4を残して、最大規模のR1と小規模なR3のほぼ全部が、それら畝の間の谷を含め掘削整地され尽くしたのです。

 左岸の寄州が掘削により大きく縮小したあと、まだ残っていた右岸の寄州も、おそらく掘削により縮小後退し、中州( braid bar )が取り残されたようです。

(り) 1974(昭和49)年から1978(昭和53)年の間の航空写真です。

 のちに「B社」のソーラーパネルが設置される場所に家具工場ができたようです。

 市道東0272号線の南側で、R2の西斜面がふたたび伐採されました。このあと画面右の県道357号線沿いにある稲葉燃料店の先代当主によってアジア・太平洋戦争に従軍した兵士と軍馬のための慰霊塔が建設されます。〝畝〟の上に鉄筋コンクリート造の巨大なストゥーパが乗ります。

 「B社」による200mにわたるR2の伐採・掘削を残すのみで、40年以前にほぼ水害直前の状況になったのです。

 詳細な撮影年月は不明ですが、色味からみて冬季のようで、水位が下がり中州が目立っています。それとくらべて、両岸の寄州が大規模に掘削されて縮小したのが目立っています。

(ぬ) 「地理院地図」の「アナグラフ」です。標高の変化が段彩によってわかりやすく表示されます。時期は表示されませんが、ストゥーパの完成後で、「A社」「B社」による伐採・掘削の前です。すなわち1982(昭和57)年以降、2013(平成25)年以前です。

 R1は残丘3つを残した北端から南の「山付き堤」(だったところ)まで、西側の谷を含め、完全に掘削されました。

 R2に、ところどころ低いところがある様子が窺い知れます。ひとつは小林牧場鶏舎そばで、「B社」による掘削以前にすでに〝畝〟が細い部分が2箇所あります。もうひとつは堤防の60度屈曲部近くで、ここは、2015年9月10日に、「B社」が掘削した地点にすこしだけ遅れて氾濫が起きることになります。慰霊塔の下、西側の土地がほぼ平坦になっている様子がはっきりわかります。河川区域境界線が引かれていたR3が完全に掘削され跡形もなくなったのが明らかです。

(る) 2015年2月から水害までの間の、Yahoo 地図の衛星写真です。

 先に、河川区域内まで伐採整地して「A社」のソーラー発電所がつくられ、ついで「B社」によってR2が200mにわたって掘削されました。

 

 

 


 「B社」によるR2の200mにわたる掘削が、氾濫の規模を大きくしたことは確かです。直接行為者である「B社」の刑事責任・民事責任を不問に付すわけにもいかないでしょう(この点については、いずれ改めて検討します)。そして、住民や常総市役所による警告を無視して掘削を拱手傍観し、「品の字」土嚢の2段積みというほとんど無意味な対応しかしなかった国土交通省/関東地方整備局/下館河川事務所の責任は極めて重大です。

 しかし、国交省も言っているとおり、「B社」による掘削以前に、中央の〝畝〟には計画高水位に遠く及ばない箇所が相当の距離にわたって存在したのですから、「B社」の行為がなくても、この地点(25.35k)からの氾濫は不可避でした(ただし、氾濫水量は圧倒的にすくなかったでしょう)。また、これ以外にも、中央の〝畝〟では、2箇所から氾濫がおきています。いわゆる24.75k(ただしくは、24.63k)ではかなりの規模で氾濫が起きていますから、25.35kでの掘削がなく氾濫がはるかに小規模だったとしても、若宮戸から新石下(しんいしげ)一帯の水害は避けられなかったでしょう。また、はるかに小規模ながら市道東0272号線の切り通し部分からも氾濫が起きています。

 「B社」による掘削だけを問題視し、それとの関連だけで国交省の責任を追及するのは、目につくものだけに目を奪われた結果の、一面的できわめて軽率な行為です。水害直後から現在にいたるまで、鬼怒川水害のうち若宮戸河畔砂丘に関する議論においては、口先だけでなんとなく「B社」の掘削を非難したり、国交省が置いた「品の字」土嚢の高さだけを問題にする的外れな言説が支配的です。国交省のほとんど詐術ともいうべき世論誘導が奏功したのです。その詭弁の根幹が、最初にみたとおりの「河川区域外の民有地」言説です。

 このページでは、河川区域境界線を確認した上で、河畔砂丘の構造とその人為的変遷をたどりました。「河川区域境界線」の設定そのものが妥当性を欠いていたために、「山付き堤」が接続する「山」としての若宮戸河畔砂丘のもっとも標高の高い東の〝畝〟(R1)がほぼ完全な掘削されたことで、若宮戸における氾濫が引き起こされた、と推認できます。

 

 ページ容量の限界が近いので、とりあえず述べたこの結論について詳細に検討し、そのうえで、取られるべきだった方策について検討するのは次ページ以降に譲ることにします。

 すなわち、

 

(3)「河川区域」の設定が失当であったことをあきらかにしたうえで、

(4)それでは、どのように「河川区域」を設定すべきであったか、検討する、

 

ことにいたします。