若宮戸の河畔砂丘 7 土嚢沈埋

 若宮戸における浸水痕跡

 

29, Mar., 2019

 

 このページでは、2015年9月10日の氾濫の際、「品の字」土嚢の堤防もどきがどうなったかを見てゆくことにします。国交省や、国策派治水利水学者たちは、土嚢はその「平均の高さ」!の160cmまで完全に洪水をブロックした、などと見てきたような嘘を並べ立てています。「品の字」土嚢の堤防もどきが、砂地から160cmの高さまでは洪水を完全にブロックし、氾濫を遅らせることで氾濫量を減らす効果があっただけでなく、氾濫水位がさらに70cmほど上回ったのでその分は流入したが、土嚢の高さの分だけ流入量を減らす効果があった、というのが国交省ならびにそれを翼賛する国策派学者の言い分ですが、事実はどうだったでしょうか。写真をみれば一目瞭然です。

 

 以下の22枚は、国土交通省関東地方整備局下館〔しもだて〕河川事務所(茨城県筑西〔ちくせい〕市)が、当日朝、若宮戸〔わかみやど〕の現地において撮影した写真です。

 これは「鹿沼〔かぬま〕のダム」(http://kanumanodamu.lolipop.jp/OtherDams/wakaDonouPhotos.html)が開示請求制度によって入手し公表しているもので、深甚なる感謝の意を表明しつつ、それを全部引用させていただきます。

 このうち、1枚だけは、水害直後に国交省が広報文書中の小さな写真として公表していたものですが、「鹿沼のダム」が疑問を呈しているとおり、この22枚で当日の「土嚢の写真」のすべてだとする国交省の主張はいかにも信用できません。前年までの経緯がありますから、前日までにはここが危ないことはわかっていたはずで(土嚢を置いただけで漫然と放置したことの愚をいまごろになって気づいたのですが)、前日から、投光器を用意した上でまさに固唾を飲んでみていたはずですし、その際、このように200m区間のうち最下流部だけしかみていなかったなどということはありえません。土嚢をアップで写したのかこれだけで、遠くから引いて写したのはあるが、それは「土嚢の写真」ではないので開示しない、というところでしょう。

 そんなことはない、ほんとうに他は見ていなかったのだ、とか、見てはいたがここだけしか写真撮影をしなかったのだ、などというのであれば、それはそれで大問題です。

 写真撮影位置は、前ページで示した区画図でいうと、ほとんどが区画6の下流端の変電設備脇で、一部が区画7脇の河畔砂丘断面のすぐ上です。被写体はほとんどすべてが区画6で一部が区画7、遠くに区画5の一部が写っているのみです(下の写真の楕円内。縦横高さそれぞれ3mくらいの建屋は、区分6の下流端にある変電設備です)。あとは遠景に河畔砂丘の上流側掘削断面が小さく写っている程度です。水害後の押堀やソーラーパネルの流失の状況から見て、(時間的前後関係はわかりませんが)区画1から4の上流側では激烈な流入がおきていたとおもわれるのですが、全く撮影されていません。

 それでも「品の字」土嚢の堤防もどきがどうなったかを探るうえでは重要な手がかりとなります。2台のカメラで撮影されたもので、各画像のタイムスタンプは多少の誤差はあるかもしれませんが、その撮影時刻順にならべて連番を振り、撮影時刻とファイル名を記します(したがって、引用元の「鹿沼のダム」とは(13)以下の番号が異なります)。

 

 子供の頃に行った海水浴で、砂浜の波打ち際に立って波に洗われた時、引き波によって裸足の足の下の砂が流されて立っていられなくなった記憶があります。平らな砂地のうえに物体があるとそこだけとくに砂が抉られるのです。若宮戸の土嚢でそれと同じことがおきたのです。砂地にちょこんと置かれただけで、遮水シートで覆われているわけでもない土嚢に氾濫水が押し寄せたのです。しかもヒタヒタと迫ってくるのではなく、背後の40cmから80cmほどの崖から流れ落ちてくるのです。1トン以上の土の入った丈夫な土嚢は、そう簡単には破れませんし、当然水に浮いて流されることもありませんが、置かれた砂地の砂が巻き上げられ流されてしまい、「品の字」に積まれたまま、砂に沈下し埋まっていったようです。といっても、2段目の天辺まで完全に埋まるのではなく、1段目が砂地に減り込んだり、あるいは多くは横からの水圧もあってか「堤内」側に傾斜し、さらには崩れるように倒れこんだようです。「鹿沼のダム」はこの現象を「ダルマ落とし」と呼んでいますが、その明察をそのまま拝借する本ウェブサイトは、せめて名称だけでもオリジナリティーを発揮いたしたいと思います。土嚢が沈んで埋まるので「土嚢沈埋(ちんまい)」です。

 熟語「沈埋」は、「沈埋工法」という土木建設業界用語でだけ使われているようです(『広辞苑』には「沈埋」はなく、これだけが載っています)。地上で作った巨大なコンクリート製のトンネル(「函体」)を水底に沈めて埋めこむ工法で、首都高湾岸線の東京港トンネルなどの例があるそうです。地上で作るぶんだけシールド工法より簡易で安価に建設できるのでしょう。いわばトンネルの「プレハブ」です。ここでは、底部の砂が洗い流されることで沈んでゆき、砂地にめり込むように埋まるという、文字通りの意味でこの見慣れない熟語を使うことにします。

 


(1)5時48分(DSCN1274)

 区画7、つまり「品の字」土嚢の最南端=下流端近くから北西の河道側を見ています。

 翌日の写真をみると、大きく傾いてしまっている変電設備(「キュービクル」)はまだ大丈夫のようです。人物が4人写っていますが、全員が異なった服装です。支給品の「制服」でない私服なのでしょうか。あるいは、別組織の職員なのかもしれません。国交省下館河川事務所、下館河川事務所鎌庭(かまにわ)出張所(常総市)、下請け会社の巡視員とか? 当然、少なくとももう一人、この写真の撮影者がいるはずです。ヘルメットの二本ラインは国交省の制帽のようです。

 それにしても、「6時過ぎ」に溢水がはじまったという国交省の発表がいかにデタラメだったかよくわかります。5時48分ですでにこの状態です。5分や10分前に溢水が始まったのですらなく、かなり前から氾濫していたことがわかります。崖の下の砂地にちょこんと置かれた土嚢は何の役にもたっていません。

 

(右図)国交省のヘルメット。クリックするとヘルメットを被っているお客さんたちについての説明にとびます。


(2)5時48分(DSCN1275)

 ひどく写りのわるいカットです。ということは、失敗カットも開示しているということです。このあと、ファイルのナンバーが飛んでいるカットには別のものが写っているが、「土嚢の写真」ではないので開示していない、ということです。

 このあとのカットで目印になる165と172の土嚢が見えています。(土嚢の番号は完全にランダムです。)

(3)5時49分(DSCN1276)

 ソーラーパネルは南に正対しています。水流は手前のアスファルト舗装と砕石敷きで高くなっている部分を避けて、北側へ回り込むように流れています。あとで見る別の写真で判断すると、砕石敷きの部分は「品の字」土嚢間際より60cmほど高いようです。

 「品の字」土嚢の水没具合をみると、左手前は50–60cm程度、中央あたりは、ほぼ一個分の80cmほど水没しています。2段目が崩れ落ちたのではないようです。奥の方はほとんど水没していなくてせいぜい20cm以下です。水面が完全に水平ではないにしても、「品の字」土嚢の水没の程度は短い距離の間でずいぶん違うのです。脚元の砂をさらわれてすこしは沈埋がはじまっているうえ、もともとかなりの起伏(不陸)があったようです。

(4)5時52分(DSCN1277)

 画面奥、区画6の上流側は「品の字」積みが維持されている上、ほとんど水没していません。せいぜい20cmというところでしょう。

 それに対して、区画6の下流側、丈の高い草(樹木ではありません)で隠れてしまい、写ってはいませんが鶏舎の北端近くでは、「品の字」積みは上段が崩れたか、もしくは2段とも沈埋したらしく、画面左端の土嚢の天辺から流入しています。

(5)5時53分(DSCN1279)

 上の⑷よりすこし左に振ったカットです。

 奥の方、区画6の上流端近くでは、「品の字」も維持されていて、水面も平滑です。それだけ、中央の流入の激しさが際立っています。

(6)5時53分(DSCN1280)

 カット⑵に写っていた165と172付近です。

 165はほとんど判読不可能なほど水没しています。土嚢一個の高さは80cmとのことなので、水深は60–70cmでしょう。

 土嚢の間から草が見えています。今まさに氾濫水に押し流されてきたというのではなく、前年6月以来、2度の夏の間に繁茂し土嚢の間から顔を出していたものでしょう。水も漏らさぬ、などという状態ではありません。土嚢から生えているものもあるかもしれません。

 水の色をみると、大量の砂が巻き上げられているのがわかります。氾濫水の色は元は茶(油絵の具でいうとイエローオーカー)ですが、写っているのは、グレーです。水に大量の砂を投入した時の色です。生コンの色と同じです。

(7)5時53分(DSCN1281)

 向きを変え、下流側を見ています。

 手前左のアスファルト舗装面は水面すれすれです。1段目の土嚢は60cmほど水没しています。つまり、舗装面は60cmほど高くなっているわけです。

 上流側では土嚢が沈埋したか崩れるかして、天辺から流入していましたが、ここでは「品の字」積みはまだ維持されています。その下段土嚢の底部から氾濫水が砂を巻き上げてこちら側へ流入しているのです。少々の砂混じりの水というより、大量の砂が吹き上げられ、巻き上げられている状態です。

 さきほども指摘しましたように、河道から氾濫してきた河川水は茶色ですが、ここで土嚢下の砂を巻き上げて濃い灰色を呈しています。

(8)5時53分(DSCN1282)

 前の⑺の巻き上げられた砂を正面から見ています。

 土嚢の向こうは、約80cmほどの崖になっています(前ページ参照)。つまり土嚢一個分です。向こうが低いのではなく、愚かしいことに向こう側が高いのです。そこから氾濫水が大量に流下し、土嚢の隙間や脚元から噴出しています。崖の上に鶏舎と、その手前に高さ1.8m(もしくは2m)のフェンスがあるのですが、繁茂した草でまったく何も見えていません。

 大量の砂まじりの灰色の水が右方向へ流れています。

(9)5時54分(DSCN1283)

 区画7、すなわち「品の字」土嚢の堤防もどきの下流端です。「B社」によって掘削された河畔砂丘の断面との間に、小型土嚢を数百個積み上げて「山付き」?にしてあります。

 右上は区画6との直角接続部。左上に鶏舎との間のフェンスが見えています。フェンスは崖上ぎりぎりのところにかろうじて設置されています。区画6の向こう側の崖はおおむね80cmほど、つまり土嚢1個分ですが、下流端の河畔砂丘断面ではせりあがるのでもっと高くなっています。「品の字」積みの下段の土嚢は氾濫水で隠れる寸前ですが、まだ崖が60cm以上見えています。

(10)5時54分(DSCN1284)

 この(10)と(11)の2枚は、「品の字」積み土嚢の下流端の河畔砂丘の掘削断面によじ登って、水面から3mほどの高さで撮影しています。(文字の色の違いは背景色の差異に対応しただけで意味はありません。)

 変電設備の左やパネルの左は、大量の砂が噴出しているようです。画面奥、区画5と6の接続部分は、河道側からの流入がないようで、水面は平らで、「品の字」積みも維持されています。

 このあと、同じ場所を翌日撮影した航空写真をみてみます。

 一夜明けた9月11日、午前10時ころに撮影されたGoogle Crisis Response の写真です(DSC02816をトリミングし、説明を記入。Google Crisis Response については別ページ参照)。

 中央やや左下の変電設備は土嚢側の地盤の砂が洗掘されて斜めに倒れ込むように沈埋しています。(11)の写真に写っているパネルはこのあと破壊されて流失したようです。

 鶏舎がコンクリートのベタ基礎から引き剥がされて「品の字」土嚢のあった場所を越えて流れ込んできています。

(11)5時54分(DSCN1285)

 ⑽のあと、望遠にして撮影したものです。

 崖から流下した氾濫水が大量の砂を巻き上げている様子がわかります。

(12)5時55分(DSCN1286)

 区画6を変電設備脇から上流側にかけて撮影したものです。

 図中に注記したように、手前(下流側)は下段の土嚢が半分まで、つまり40cmほど水没しています。その先は1段目が完全に水没しています。水位には大きな差異はないでしょうし、2段重ねの土嚢が崩れたようにも見えませんから、2段の「品の字」ごと沈埋したものと思われます。さらにその先は沈埋したか上段が崩れ落ちたかしたようで、上段の土嚢が半分まで水没しています。そこから激しく流入しています。

 手前の土嚢をみると草が見えます。崖側から生えてきたのではなく、土嚢から生えているのかもしれません。

 あの一番低いところからだけではなく、水面をみれば明らかなように、強弱はあるにしても、すべての土嚢の隙間から流入していることに注目しなければなりません。

(13)5時59分(P91031556)

 この(13)と(14)の2枚は別のカメラで撮影されたものです。

 小さく人物が見えます。ヘルメットだけですが、次のコマでは全身が見えます。⑴の4人のうち、左から2番目の人でしょう。上流方向へ歩いたあと、回れ右で戻ってくるところのようです。

 アスファルト舗装面と砕石敷面の色の違いがよくわかります。「品の字」積み土嚢より60cmほど高い砕石敷面に徐々に氾濫水が流れてきています。

 

(14)6時00分(P103157)

 上の人物が数メートル手前に進んだところです。

 氾濫の初期で水深はあまりないのでしょう。もしかしてくるぶしくらい、せいぜいひざ下くらいのようです。

 変電設備の屋根の高さ、約3mの高さから、ヘルメット込みで身長170cmくらいの人物を撮影しています。遠くの区画6上流端の「品の字」土嚢は沈埋しても崩れてもいないので、人物の頭越しに見えます。いっぽう、人物のすぐ左の土嚢はおそらく沈埋して高さが人物のの半分もありません。さらに手前側の土嚢はさらに沈埋したか崩れたかして完全に水没し、そこから激しい流入がおきています。

(15)6時05分(DSCN1287)

 やっと、溢水がはじまったと言っている「6時過ぎ」です。ここから、3、4分の間に同じ画角の写真が3枚続きます。

 中央の完全に沈埋もしくは崩れた土嚢をこえて激しく流入しています。氾濫水の水面が見えます。

 画面左の「品の字」積みの傾斜にも注目しなければなりません。かろうじて下段の土嚢も見えているところもありますが、上段の土嚢が「堤内」側に大きく倒れ込んでいます。下段の土嚢上からずれているのではなく、「品の字」を維持したまま底部の砂がえぐられ、「堤内」側に斜めに沈埋しているようです。

(16)6時06分(DSCN1288)

 (15)とほとんど同じです。

 奥の方、区画6の上流側の「品の字」積みは崩れていないようです。

(17)6時09分(DSCN1289)

 これが、「鹿沼のダム」による開示請求以前に、国交省が唯一公表していた写真です(『平成27年9月関東・東北豪雨』に係る鬼怒川の洪水被害及び復旧状況等について(平成27年10月13日18:00時点)」

http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000633805.pdf

 デジタルカメラのファイルですから、撮影時刻は秒単位までわかるのに、「6時過ぎ」と、わざと曖昧に書かれていました。今回開示されたなかで、最初のものは5時48分で、それですらずいぶん前から氾濫していることが明らかなのです。いつまでも嘘をつき続けるつもりのようです。

(18)6時10分(DSCN1290)

 すこし左に移動して、かなりの望遠撮影をしたものです。

 遠目には、「品の字」積みが維持されているように見えましたが、こうしてみると、かなり変化しつつあることがわかります。区画5と6の境では、ちょうど直角になっている箇所で、下段の土嚢が沈埋しているようです。

 その左、区画6では、画面左端、176とある上段の土嚢がかなり「境内」側に傾斜しています。上段の土嚢自体が、横からの氾濫水の力をうけて傾斜しているのではなく、下段の土嚢が底部の砂地がえぐられて沈埋したために、がっくりと傾斜しているのです。

(19)6時10分(DSCN1291)

 (15)から(17)に写っていた中央付近の拡大です。

 中央付近の完全に沈埋した地点の流入や、左側の「品の字」積みの傾斜はすでにみたとおりです。

 中央やや右では、氾濫水の滝が「堤内」側に凸型に飛び出しています。「品の字」積みは沈埋しただけでなく、おそらく上段が「堤内」側に倒れ込むように崩れ落ちたのでしょう。

 下右は中央付近の拡大です。狭い隙間、その左の広い隙間から氾濫水が噴き出しています。砂を巻き上げていないので、茶色(イエローオーカー)です。下左では、大きく傾いた上段の隣接する土嚢の間に「2段滝」ができています。

 


(20)6時39分(DSCN1298)

 突然、時間があきます。7カット分が隠されています。29分後です。

 水位が徐々に上昇し、パネルの傾斜の下端がすでに水没しています。手前の砕石敷面は徐々に水没しつつあります。

 「品の字」積み土嚢の沈埋はだいぶ進行し、天辺からの流入幅は拡大しています。下流側では172の3つ右まで迫っています。

 拡大するとフェンスの支柱が見えます。この時点ではフェンスはまだ倒れていません。

 

 

(21)6時39分(DSCN1299)

 (写真には写っていませんが)鶏舎の上流側あたりから河川水が流れてくる様子がよくわかります。

 「品の字」積み土嚢は一応は崖より高かったのですが、画面中央部の、30mないし40mくらいの範囲では、この時点ですでに氾濫水の抵抗になっているような様子は一切ありません。完全に沈埋したか崩れてしまったようです。

(22)6時39分(DSCN1301)

 (21)の172から下流側のアップです。

 画面左端の土嚢とその右隣の土嚢の間には、大きな隙間ができていて、激しく流入しているのですが、なんと向こう側の崖上の水面まで見通せます。画面右端の崖上の水面とつながっているはずです。

 手間の灰色の水面の波立ちをみると、土嚢のあらゆる隙間から流入している様子がわかります。

 土嚢180の右上に、フェンスが見えます。

 


 出し惜しみして小出しにされる写真からわかる事実は、以上のとおりです。

 国交省と国策派学者らは、水害直後から現在にいたるまで、「品の字」積み土嚢の「天端」の高さまでは氾濫水はブロックされた、すくなくとも氾濫開始を遅らせる効果はあった、などとぬけぬけと吹聴しているのですが、まったくのデタラメでした。学者らの大方にあっては能力不足による錯誤でしょう。しかし、国交省と一部の学者らは国民を欺くために故意に嘘を主張しているのです。

 土嚢は段差の下にちょこんと並べ置かれていたのですが(前ページ)、それだけでなく、次ページでくわしく見る予定ですが(準備中)、並べ置かれた砂地も水平ではなく、したがってまた「品の字」土嚢もかなり高さが不揃い(不陸)だったのです。そして、「品の字」土嚢の堤防もどきの「天端」から「越水」するはるか以前から、左右の土嚢の間、上段と下段の土嚢がずれてくればその間隙から、そして下段の土嚢の砂地に接する底部から、氾濫水が噴き出し流れ出していたのです。ざるから水が漏れるようなものです。

 国交省と国策派学者らは、「品の字」積み土嚢の高さまでは氾濫水をブロックした、すくなくとも氾濫開始を遅らせる効果はあったことを前提として、総氾濫量を推定するシミュレーションに興じているのですが(別ページ参照)、前提がまったくのデタラメですから、若宮戸河畔砂丘におけるこれまでの氾濫量推定は全部が虚構です。シミュレーションに名を借りた、ダダ漏れのざる行政とざる研究が大手を振ってまかり通っているのです。