三坂における河川管理史 1

 

Mar., 5, 2020

 

 「まさかの三坂」で注目した「水煙」と堤外側の段付き崖面の「開口」から、三坂(みさか)で起きた浸透について推定する作業を続けます。

 

 このページでは、航空写真・衛星写真で1948(昭和23)年から、2013(平成25)年までの変化を概観します。大規模な砂の採掘と、それがいったん休止し、ふたたび始まる直前までです。

 米軍と建設省国土地理院による航空写真は、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)によるものです。広範囲を撮影した400dpiのコマからごく一部を抽出拡大するので解像度はあまり高くないのですが、なんとか読影します。(解像度9倍〔1200dpi〕のデータを、1枚四千円以上で販売しているようです。)

 2000年代以降は、GoogleEarthPro(Windows, MacOS 等)が公開している衛星写真画像です。(画面上方中央の時計マークをクリックすると左上にスライダーが現れるので、連続的に切替表示できます。無料です。)

 

 以下、各写真に着目点を描き入れた図を並置します。堤防の区間区分、「開口」や、第1の段付き、第2の段付きについては、「まさかの三坂」を踏襲します。いずれも、各写真の時点でそれらが存在するわけではありません。堤防の区間区分は2015年9月10日の破堤状況による区分です。「開口」は、それ以降の現象です。第1の段付きの位置は、このページ末尾の「鬼怒川平面図」によるものです。第2の段付きは次ページ以降で示します。

 1948年から2013年までの航空写真・衛星写真を一覧したあと、1966年と2013年の河川図を見ます。

 


1948(昭和23)年1月5日 占領軍(アメリカ合州国軍) USAR793102

 日本占領中に、アメリカ合州国軍は、日本全域を航空写真撮影しました。粗密はありますが、全域を隈なく撮影しています。

 右上が抽出拡大する前のコマです。中段の右から3分の1あたりが三坂の破堤点です。白い砂州(寄州、中州)がよくわかります。この後見るように、1960年代以降、上流のダム設置と大規模な採砂により完全に変貌します。現在は存在しない、鬼怒川本来の典型的地形です。

 三坂を拡大したのが右下です。

 第1の段付きは、上流側は2000年代初めの「鬼怒川平面図」の線(青線)と一致しますが、全体的に堤内側にあります。もっとも、ここにどの程度の標高差があったのかはわからないのですが……。

 前述の通り、砂州には植生がなく、白砂が広がっています。黒い部分は水面のようです。砂の掘削がおこなわれた跡があるようにも見えますが判然としません。(鬼怒川を含め、東京近郊での採砂は戦前から大規模に行われています。戦後の「高度経済成長期」に突然始まったわけではありません。)

 第1の段付きの堤内側の高水敷はすべて耕地になっています。戦後の食糧生産が重視されていた時代です。ここに第2の段付き(緑線)があったのか否かはわかりません。耕地の区切り(所有区分などの区画)にはなっていないようですが、これを境にした色味の違いがあります。のちの標高差4mもクッキリした直線的段付きはないようですが、この線から河道側が若干傾斜していたのかもしれません。


1961(昭和36)年8月10日 国土地理院 MKT619-C16-8

 「高度経済成長」の初期です。砂州の形は大きく変化しています。高水敷の耕地には変化はみられません。

 G区間にヘアピンカーブで堤防を跨ぐ道路が作られました。高水敷の耕地を通って、砂州まで続きますが、黄丸のとおり、あきらかに採砂のためのものです。砂をとると水が滲み出してきて黒く見えるようです。

 赤楕円では採砂がおこなわれているようにも見えますが、よくわかりません。


1964(昭和39)年5月16日 国土地理院 MKT643X-C10-11

 東京オリンピック(前回の)の5か月前です。

 赤丸をつけた、第1の段付き(青線)の上の高水敷部分の様子が変化しています。粗い画像なのでよくわかりませんが、耕作が放棄されたように見えます。次の写真のとおり、きたるべき採砂のためでしょう。

 第2の段付き(緑線)はまだないようです。


1968(昭和43)年8月22日 国土地理院 MKT682X-C3-20

 東京オリンピック(前回の)は終わりましたが、「高度経済成長」は続き、鉄筋コンクリート構造の建設・建築のための川砂需要はますます高まります。

 第1の段付き(青線)の下段側、1948年の写真で白砂だった寄州部分は、草地になっているようです。上の1964年の写真で注目した耕作放棄地で、大規模な採砂が始まったようです。ちょうど破堤した堤防の区間(B区間からG区間まで)に一致します。 寄州の砂が枯渇したので、一段上の高水敷(区分は必ずしも明確ではないのですが)の掘削を始めたようです。


1980(昭和55)年10月2日 国土地理院 CKT805-C6B-16

 第1の段付き(青線)の上の高水敷(赤楕円)での採砂は終わったようです。耕作が再開されることもなく、荒地になっています。

 上流側(黄楕円)では耕作が続いています。

 


1990(平成2)年11月5日 国土地理院 CKT902-C5B-17

 上の写真から10年間経過しました。採砂による荒地が四角形に区画されています(赤四角)。周囲と植生が違っています。

 ただし中央部は地面が剥き出しになっています。重機らしきものもあるので、おそらくそこでは採砂が続いているでしょう。

 四角形の上流側の縁には道路のように見える線があります。すぐ後の広範囲を見た写真のとおり、両岸の21k距離標を結ぶ横断測量の測線です。測量のために見通せるよう除草したのです(「測線」については、別ページ参照)。

 右岸は将門川(しょうもんがわ。平将門〔たいらのまさかど〕由来)の合流点に、篠山(しのやま)水門と排水機場をそなえた篠山樋管(ひかん)の建造中です。そのすこし下流がR21kで、ここも除草しています。

 黄丸の部分で耕作が放棄され、樹林ないし竹藪になっています。紫四角は、畑だったのが裸地になったようです。牧草地かもしれません。

 第1の段付き(青線)の下段、すなわち20年以上前には白砂が広がる寄州だった部分は、樹木と草が生える荒地になっています。



2005(平成17)年2月6日 GoogleEarthPro

 さらに15年経過し、第1の段付き(青線)上の高水敷の耕作地はごく一部を除き、牧草地程度の利用はされているかもしれませんが、ほとんど耕作されなくなったようです(赤丸)。採砂はいったん終わったようです。

 日射の角度もあって、第1の段付きの崖面(青実線と青破線の間)がよくわかります。

 第2の段付き(緑線)は、写真で見る限り、まだ存在しないように思われます。21kの測線の除草跡がわかります。

 水害まで10年です。


2013(平成25)年6月4日 GoogleEarthPro

 採砂が終わってから30年以上経過し、残っていた耕作地も耕作放棄されて、寄州(だったところ)も高水敷も一面がおなじように、まばらに樹木のある草地になっています。

 2005年の写真ではっきり残っていた高水敷上の道路は放棄されたようで、草に埋もれてしまい、衛星写真には写らなくなっています。

 日射角度のせいで、第1の段付きの段差(青実線と青破線の間)がうっすらとわかります。

 堤防は、6月なのに緑色が見えませんが、いささかやり過ぎの色彩補正のせいでしょう。



 建設省・国土交通省が作成した河川図を見ます。1965年の大臣告示は2500分の1、2013年の平面図は5000分の1です(この画面上ではそのとおりには表示されません)。国土地理院の地形図とは一桁違います。このくらいでないと微細な地形は判りません。今は触れませんが、標高(Y.P. 値なので、一般的なT.P.値より0.84m高く表示されます)の測量データも記されています。等高線がない(告示)、あるいは疎ら(平面図)なのが欠点ですが。

 

1966(昭和41)年12月 建設大臣告示

 「鬼怒川下流平面図(鎌庭〔かまにわ=出張所名〕)其八」(2500分の1)の上三坂部分です。1958(昭和33)年3月空中写真撮影、1963(昭和38)年7月測図とあります。

 鬼怒川の管轄権を茨城県から引き継いだ1965(昭和40)年の翌年の時点で、建設大臣(現国土交通大臣)が設定し告示した「河川区域」が赤線で示されています。堤防がある地点では堤防の堤内側法尻(のりじり)です。

 画面左4分の1ではこのあとの「鬼怒川平面図」の第1の段付きのとおりの段付きがあったようです。しかし、そこから右は別の段付きが分岐し、それが下流側まで続いています。

 画面左方の縦の太い2点鎖線は新石下(しんいしげ)と三坂町の境界線(当時は結城〔ゆうき〕郡石下町と水海道〔みつかいどう〕市の境界)です(この新石下は、間に大房〔だいぼう〕を挟んだ飛地です。国交省は翌日11:00まで決壊地点は新石下だと誤報していました。別ページ参照)。画面中央の縦細線(黄線)は、上の1990年の写真で見た、21kの線です(利根川との合流点からの距離)。

 


2013(平成25)年 鬼怒川平面図 国土交通省

 下館(しもだて)河川事務所(茨城県筑西〔ちくせい〕市)が作成した「鬼怒川平面図」です。2013(平成25)年1月撮影、同年12月現調とあります。

 第1の段付き(青線)の位置・形状、段下の砂州(だったところ)も段上の耕地だったところも草地となっていることなど、上の同年6月の衛星写真とおおむね一致します。

 B区間からG区間のヘアピンカーブまでの、堤防の川表側が幅広になっていることが図示されています。残っている写真とも一致します。それでも破堤したのですから、単純に堤体幅だけで破堤原因を推理すると間違うことになります。

 A区間下流端あたりで堤防を越えて来ていた道路(紫矢印で示す太破線)は、同じ2013年の衛星写真では埋もれています。

 第2の段付き(緑線)は、図示されていません。この時点ではまだ形成されていないと判断してよいでしょう