2 下流優先の実際=豊岡町

 

Oct., 27, 2019

 

 国土交通省は、鬼怒川水害の国家賠償請求訴訟において裁判所に提出した書面のなかで、曖昧で根拠のない「下流優先論」「上下流バランス論」を主張しています。1964(昭和39)年の河川法改正により茨城県から管轄権限が移った際、不適切な河川区域境界線を設定(1965〔昭和40〕年)したために、氾濫を防いでいた若宮戸(わかみやど)の河畔砂丘の掘削を許してしまったうえ、それにより必要となった堤防の整備を怠って放置したことにより、2015年9月に2か所(24.75k〔正確には24.63kと25.35k=ソーラー発電所地点)での大氾濫をまねいたのですが、この半世紀にわたる大失態を言い逃れるために、若宮戸に築堤すると「下流」の危険箇所の氾濫を引き起こすことになるので、その「下流」の対策を優先させた、という理屈です。

 このページでは、「下流」の旧水海道市の2か所のうち、まず右岸の豊岡町について、2015年の水害前に国交省がどのような措置を講じたのかをみることにします。

 


右岸11k付近の「豊岡町地先」

 

 鬼怒川左岸に、結城(ゆうき)郡石下(いしげ)町と合併して常総(じょうそう)市となる以前の、水海道(みつかいどう)市の中心市街地があります。江戸時代から明治時代にかけて水運の重要拠点として繁栄して商店街が発達し、茨城県立水海道第一高等学校と第二高等学校のほか、合併後の常総市役所もそこに所在します。

 その対岸、鬼怒川右岸のかなり広大な大字が豊岡(とよおか)です。関東地方整備局が、若宮戸に築堤しなかった理由としてあげる「豊岡町地先」(下左写真、http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000051861.pdf)とは、そのうちの豊水橋のたもとの一画のことです(「地先」は住居表示のない河川区域内の土地を、住居表示のある隣接地の「先」だとして指示する語です。今は「地先」であるにしても、水害にあった当時(2002〔平成14〕年)は人が居住している住宅地だったのですから、「地先」と呼ぶべきではありません)。

 「地理院地図」の「2004年以降」の航空写真に写っている黄丸の住宅地です。右岸の高水敷にその一画だけが出っ張っている、なんとも不思議な街区です。

 


 

 つぎは、同じく「地理院地図」にある1960年代の航空写真です。豊岡と水海道から1字ずつとって「豊水橋(ほうすいきょう)」と呼ばれる現在の鉄製橋梁は1965(昭和40)年に架橋されることになる3代目(赤線)で、それまでは、30mほど下流の2代目豊水橋が両岸を結んでいました。

 不思議な形の「豊岡町地先」は、2代目豊水橋の右岸・豊岡側のたもとの街区だったのです。そこにいたる道路は今も残っていて、妙に広い道路なのがなんとも不思議だったのですが、そういう由来なのです。

 2代目豊水橋の左岸・水海道側のたもとは、2015年水害の際に浸水した観水公園(下左写真 http://ameblo.jp/goemonn-dog/ 八間堀川問題 8参照)です。これもまた、ここだけ建物がないのが不思議に思える場所です。




「豊岡町」の築堤前後の状況

 この水海道・豊岡付近を「地理院地図」の「土地の特徴を示した地図 > 治水地形分類図(初版)」でみると下のとおりです。茶地に赤横線が更新世段丘(洪積台地)、茶地に赤ドットが自然堤防、薄緑が後背低地です。上で黄丸を付した街区は自然堤防上にあるとされます。西側の更新世段丘との間になんらかの護岸のようなものがあったように図示されています。

 「治水地形分類図(更新版)」(右図)だと高水敷に分類しています(「高水敷」と明記しているわけではなく白抜きにしているだけですから、曖昧ですが)。それはよいのですが、この更新版だとこの街区全体は3方を高さ・幅ともに規格どおりの完成堤防で囲まれているように描かれていて、明らかに誤記です。これでは2002(平成14)年の浸水はありえないでしょう。

 なお、標高はT.P.値ですから、Y.P.値より0.84m小さな数値になります。有効数字桁数が違うのですが、おおよそ1mくらい小さい数値になるとみておけばよいでしょう。


 

 さらに「地理院地図」で、「標準地図」と半透明にした「起伏を示した地図 > アナグリフ」を重ねたものが次です。後背低地に対する自然堤防の標高差は小さいうえ、崖を形成しないので、ほとんど陰影に反映しませんが、更新世段丘(洪積台地)はこのようにかなりクッキリと表現されます。

 

 

 更新世段丘だから鬼怒川の水位が上昇しても浸水しないと単純に考えてはなりません。あくまで地形構造全体とその時々の水位との相対的関係によって、浸水するか否かはその都度決まるのです。

 小貝川右岸の曲田(まがった)のように、自然堤防であっても、1986(昭和61)年に直近の豊田(とよだ)排水樋管部での小貝川堤防の破堤による氾濫がおきた際にも、そして今回の2015年の鬼怒川の若宮戸と三坂から氾濫した際にも、集落全域が浸水しなかった例もあるのです(別ページ参照)。三坂の破堤点直下の自然堤防地帯にしても、若宮戸からだけの氾濫水ではおそらく浸水すらしなかったでしょう。三坂の自然堤防はかなり標高が高いのです。

 概括的にいえば、この11k付近の更新世段丘は浸水しにくいといえます。しかし、更新世段丘のなかでも標高が相対的に低いところは、水位が上がれば浸水するのです。2015年9月10日に水海道元町(みつかいどうもとまち)で数か所での溢水が起きたのがその例ですが、これについては別ページで詳細に検討しましたが、さらに次ページでも検討しなおします。

 ここまでみてきた豊岡町のこの地点が、更新世段丘のなかでも標高が相対的に低いために、水位がある程度上昇すれば浸水する場所なのです。

 また、現地に立つと、南北に人工的な擁壁が見えることもあって、更新世段丘に入り込んだ侵食谷、すなわち後背低地のような印象を受けます。「地理院地図」の「土地の特徴を示した地図 > 土地条件図」では「段丘下位面」に分類しています(下図の赤横線)。

 何十年も前に日没後にここに立ち寄ったことがあったのを思い出しました。暗かったので高水敷や河道が見えたわけではないのですが、当時は県道だった国道354号から車で降りて行った時に、ずいぶん低い土地に住宅があるのが印象に残りました。

 ついでにいうと、このあと見る2015年9月11日のグーグルの衛星写真で、越水した痕跡があるように見える豊水橋の上流側(後日現地で伺ったところ、堤防からの越水ではなく、内水氾濫でした)は、「治水地形分類図」の「更新版」では更新世段丘ですが、「初期版」では後背低地、「土地条件図(初期整備版)」では、なんと高水敷です(下図の黄地に茶ドット)。国土地理院や地理学者でも見解が分かれる微妙な点なのです。

 

 

 次は、1965(昭和40)年に鬼怒川の管轄権を茨城県から引き継ぎ、翌1966(昭和41)年に建設大臣(現国土交通大臣)が告示した「河川区域」の図です。この年に現在の3代目豊水橋が完成するのですが、この図では先代の2代目豊水橋が現役で、現在の3代目豊水橋は建設中になっていいます。

 


 以上で準備作業がおわりです。ここからやっと、いうところの「豊岡町地先」における国交省の措置の前後の状況をみることにします。国土地理院からGAFAの一角を占めるGoogleへと移ります。GoogleEarthProによる、2005年2月6日の衛星写真画像です。方位も回転させ、例によって河道側から見上げるように表示します。

 すでに若宮戸、三坂、大山新田・絹の台でも利用しましたが、MacOS、WindowsなどパーソナルコンピュータのOS上で作動する「GoogleEarthPro」は、過去の衛星写真画像に切り替え表示することができます。(以前は有料でしたが、今は無料です。アプリケーション版のほかウェブブラウザ版もありますが、いまのところグーグルのChromeだけです。タブレットやスマートフォンのグーグルアースではできません。)

 画面上方、15個並んでいるアイコンの真ん中あたりの「時計」をクリックすると、時間軸があらわれ、スライダーで(地点により区々ですが)十数枚を切替表示できます。

 国交省文書が指摘する浸水被害があったのが2002(平成14)年ですから、その2年半ほど後です。豊水橋の脇の十数軒の街区のほか、その西側(画面上方)まで、おそらくそれと同じ面積くらいまで浸水したものと推測されます(のちほど検討します)。

 下に、先回りして、工事完了後の新設堤防の位置などを描き加えたものを示します。

 

 次は、上の写真から7年余り経過した2012(平成24)年3月16日の衛星写真です。(間にも堤防完成後のものは数枚あるのですが、鮮明なものということです。)

 

 同じように、新設堤防(白線)の位置などを書き加えます。上流側始点は国道357号豊水橋橋梁の右岸側道路(歩道あり)の側面、下流側終点は右岸11kの標石の手前の更新世段丘(洪積台地)の崖面(緑破線)です。堤長110mの山付き堤(下流側)で、天端標高は上流側始点がY.P. =19.926m、下流側終点がY.P. =19.160mです(工事完了後の実測値。上流側は国道にとりつくので傾斜して高くなっています)。工期は、着工が2006(平成18)年10月31日、竣工が2008(平成20)年3月31日(かろうじて2007〔平成19〕年度)です。

 国道354号・豊水橋の上流側(黄線)と、坂巻排水樋管の下流側(図示していませんが)は、いずれも既設の堤防区間です。なお、このあと両区間とも鬼怒川水害の「鬼怒川緊急対策プロジェクト」(http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate_index041.html)で嵩上げ・拡幅工事の対象となりますが、この白線の新設堤防は、2007〔平成19〕年度に完成したものがそのまま現状となっています。嵩上げ・拡幅の計画もありません。

 地形・堤防の形状が複雑でわかりにくいので、このあと写真で示しますが、新設堤防白線の西側(画面上方)の舗装面と、更新世段丘崖面緑破線の東側(画面下方)の舗装面は、いずれも新設堤防を斜め横断する坂路です。

 

 2002(平成14)年に浸水被害を受けた「豊岡町(地先?)」を囲い込むように築堤したのではありません。豊水橋上流側の堤防と下流側の更新世段丘の崖面を弧状の堤防で接続するために、十数軒の住宅を全部移転し、道路を含めた街区だったところに堤防を建設したのです。国交省文書がどうして「豊岡町地先」と間違ったことを書いたのか、その理由はここにあったのです。2002(平成14)年の水害時には「豊岡町」だった地点が、立ち退き・築堤・河川区域の変更によって(堤防区間では川裏側法面下が境界線になりますから)、堤体真下とその河道側の土地が「豊岡町地先」になったのを、先走って言い換えてしまった、ということです。



 以下、ほかの衛星写真や、図面や地上写真で補足します。

 次は、2014(平成26)年3月22日の衛星写真です。三坂や若宮戸、さらに大山新田・絹の台の時にも同じ日付の写真を見たので参考までに。

 

 2015(平成27)年9月11日、つまり水害の翌日10:00ころの衛星写真です。だいぶ水位はさがりましたが、高水敷はまだ冠水しています。更新世段丘崖面下の斜面や坂路は泥が堆積しています。豊水橋の上流側の青屋根の住宅前の道路に、すこし越水した痕跡があるように見えます。(後日現地で伺ったところ、堤防からの越水ではなく、内水氾濫でした。2005年2月6日の衛星写真画像でも、内水氾濫の痕跡の泥が見えます。)

 

 2018(平成30)年5月15日の衛星写真です。GoogleEarthの最新のものです。



 iPhone のiOS やiPadのiPadOS上のグーグルで「3D」表示にしたものです(パーソナルコンピュータ〔Windows、MacOS、Linux〕でも同じ画像が表示されます)。実写ではありませんが、多方向から撮影した画像から立体画像を構成する擬似的3D画像です。

 新設堤防の立体形状がよくわかります。堤内側の2棟のアパートはもとからの低い土地に建っています。その向こう(画面左上方)の住宅は約2mの擁壁の分だけ高い更新世段丘上にあります。

 180度転回した画像です。

 画面左上の赤屋根の建物脇から堤防に上がる歩行者用階段の下から、画面右へと新設堤防へ登る坂路があり、堤防を斜めに横切って、今度は更新世段丘の崖面下の高水敷に降りる坂路になります(一見水平に見えるのですが)。

 天端の舗装はありませんが、ソーラーパネルの載っているクリーム色壁の家の方へカーブし、そこで「山付き」になって堤防が終わります。

 次は地上写真です。

 対岸の観水公園から、豊岡の新設された堤防をみたところです。豊水橋を渡る国道354号のすぐわきから、橙壁のアパート2棟の左のクリーム色壁の住宅までが堤防です。そこから左は更新世段丘崖面です。(2019年10月15日。12日夜から13日未明にかけてこの付近を北上した台風19号により増水しましたが、だいぶ水位が下がってきました。)

 右は奥の豊水橋・国道354号から伸びてくる堤防。左はそこに登ってくる坂路。

 遠景は筑波(つくば)山。(2019年10月、以下同じ)

 堤防上から堤内側の南西方向を見たところです。クリーム色壁の住宅の北側(上流側)、橙壁のアパートのある低い土地との間の、高さ2mほどの擁壁があります。

 このアパートは2002(平成14)年に浸水したはずです。

 同じく堤防上から堤内側の、こんどは北西方向を見たところです。

 衛星写真に写っている赤屋根はガソリンスタンドの建物の陸屋根でした。

 ここは3m以上の擁壁があります。水害をさけるためというより、国道をとおる自動車相手の商売なので、その標高にあわせるために嵩上げをしたのでしょう。

 堤防の下流端。赤頭の標石は「河川区域」の境界表示です。左側の草地が河川区域です。フェンスの向こうはクリーム色壁の住宅です。

 上の写真の奥にみえるもうひとつの河川区域境界標石とその手前にある、11kの距離標石です。

 堤防の下流端から、下流方向へ続く更新世段丘の崖面です。左は堤防から高水敷に降る坂路で、泥は2015年10月13日の洪水が残していったものです。


若宮戸に築堤しない理由とされた豊岡町の築堤とは何だったのか?

 

 下は、鬼怒川平面図(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinugawa-heimenzu1.pdf)の6葉目に、新設堤防等を青字・青線で描き加えたものです。

 図中の標高数値はY.P.値で、国土地理院の地形図などのT.P.値に、0.84mを加えた値です。等高線こそありませんが、もしこの新設堤防がない場合洪水時にどの範囲まで浸水するか、およその見当はつけられます。2015年9月10日の最高水位は、対岸の11k地点付近の鬼怒川水海道水位水量観測所地点で、Y.P. =17.97mでした。ここでは堤防そばの2棟のアパートなど住宅十軒ほどが浸水被害を受けることになったでしょう。しかし、豊水橋から降ってきた国道354号の交差点(18.5m)や、図の上辺付近の住宅地(19.2m)までは浸水しません。新設堤防の下流端の住宅およびそこから南側(図の左方)の住宅地(19.0m)や西側(図の上方)の住宅地(19.9m)は、いずれもある程度の標高のある更新世段丘上にあるので、ここも浸水しません。この地点での浸水は、後背地に濁流となって流れ込む、というようなものではありません。

 

 標高を推測するために、「地理院地図」で「アナグリフ」を「3D表示」(半透明にして地形図と重ね合わせ)したものを示します。堤防建設前のデータです。もちろん高さを強調表示してあります。



 以上みてきた資料から、国交省資料がいうところの「豊岡町地先」の浸水面積は、最大でも10,000平方メートル(1ヘクタール=縦100m×横100m=野球のプレイグランドくらいの広さ)程度と推定するのが妥当でしょう(下図)。

 これでは狭すぎるという人には反証となるデータを示していただきたいと存じますが、その5割増しとか2倍ということはないでしょう。


 この10,000平方メートルのうち、4,000平方メートル(0.4ヘクタール)の土地は立ち退きによって堤防および堤外の高水敷、すなわち「河川区域」に転換し、つまりは本当に「豊岡町地先」になります(下図)。


 したがって新規堤防の建造によって「堤内地」となり、以後も「豊岡町」の一部として残るのは差し引き6,000平方メートル(0.6ヘクタール)程度です。これが、堤防建設によって水害から守られるようになった土地の総面積です。

 


 ちなみに、若宮戸からの氾濫による浸水面積は、40平方キロメートル、すなわち40,000,000平方メートルです。もちろん、三坂からの氾濫とあわせてのことですが、氾濫水総量(すくなめに見て34,000,000トン、妥当なところで50,000,000トン)の半ば近くは若宮戸からのものです。算定根拠をまったく示さない国土交通省の公式見解は、ダムでの貯水を過大評価(ほとんど虚偽)するために実際の氾濫量を過小評価するものであり論外ですが、国策派学者らはいずれも国交省に気を使って、若宮戸の24.75k(正確には24.63k)をゼロ査定したり、あるいは若宮戸の25.35kでの「溢水」点や三坂の破堤点からの流入の信頼性の低いシミュレーションで氾濫量を推定するという、土台無理な計算をしています。一方、土木学会の鬼怒川水害調査の「速報会」で東京理科大の大槻順朗は、氾濫総量を50,000,000トンとしています(https://www.youtube.com/watch?v=Nm0PJQtBlNs&app=desktop 1:08:00以降)。


 最後に、国交省が強調する「平成14年7月洪水常総市豊岡町地先」の範囲を示します。どの範囲が浸水したのかを明示した地図をさがしたのですが、見当たりません。この際現地で聞くのが一番なので、当時から近くに住んでいらっしゃる住民の方に伺ったところ、このとおりでした。要するに、立ち退きによって堤防敷と堤外の高水敷になった範囲です。その面積は、さきほどみたとおりの約0.4haです。(Dec., 2019 追記)



 

 国土交通省が、若宮戸を後回しにしてまで優先的に堤防を建設する必要があったと主張する「豊岡町地先」の実情は、以上のとおりです。その根拠とされる「下流優先論」「上下流バランス論」が妥当なものであるか否かについては、なんらの逡巡も留保もなく、はっきりと断言することができます。

 しかし、それを述べるのは、おなじく若宮戸を後回しにして対応する必要があったという、対岸の水海道市街地について見てからにします。左岸の水海道の更新世段丘地点についても、同じような事実があきらかになるわけではありません。もうひとつ別の、さらに重大な問題が露呈することになります。

 結論を述べるのは、まだ早いのです。